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2002年、25歳でがんになった「わたし」へ(2)がん告知とセカンドオピニオン

【告知】

 わたしが顔の一部に違和感(腫れ)を感じて2002年8月に行ったのは当時の職場近くの大学病院でした。何科で診察を受ければよいかもわからなかったので、1階の総合受付で聞いたところ、受付の女性(看護師?)からそれまで聞いたこともない「形成外科」を紹介され、言われるがままに受診しました。そこで若い先生の診察を受け、MRI,CTを撮影することに。ただし、すぐに検査は受けられず、2週間ほど待って病院に紹介された民間のクリニックで検査を受けました。結果はカルシウム分の強い集積がみられ、生検による病理診断が必要とのことでした。生検に当たっては顔面神経に傷をつけるリスクがあるため全身麻酔で実施するということで手術を予約して検査することに。手術は初診から3か月先の11月でした。手術までの期間は悪性ではないかとの不安が常にありました。胃や背中が痛くなりだし、鼓膜もいつも張っているような音がうまく聞き取れないような感覚の中で生活していました。今考えれば極度のストレスで体に変調を起こしていたのだと思います。それまで感じたことのない不調に心配になり、大学病院の先生の所に行き診察を受けましたが、「ただ胃が痛いだけです」と言われてしまいました。この時点では先生にとっては良性か悪性かもわからずに心配しているだけの患者ですので、ほかに言いようもなかったのだと思いますが。

 生まれて初めての全身麻酔を受けての手術での生検後、結果を待ちますが、何日たっても「まだ確認中です」と担当の研修医に言われ、病室(なぜか最初から個室でした)で何もやることもなくただ過ごす日々でした。確かな記憶がないのですが、手術から10日から2週間くらいはただ検査結果を待つ日々でした。やることもなく、病室を抜け出して近くの商店街に行ってみたりと日々を過ごしていました。その日も病室を抜け出して本屋さんを巡回して戻ってくるとエントランスに田舎(職場からは飛行機で来るくらい離れた場所です)から来た両親がいて鉢合わせとなりました。母には顔に腫物があり、検査で手術するということは伝えていましたが、あまり心配をかけてもいけないという思いもあり、かなり軽いニュアンスで電話で伝えていただけでした。病院から両親が呼び出されたということは悪性ということだろうとその場で理解しました。

 検査結果が悪性だったいう告知は父か母から聞いたと記憶していますが、あまりそのあたりの記憶がありません。ただ妙に記憶に残っているのは、母が言った「安閑(あんかん)としていられる状況じゃないんだよ」という言葉で、「あんかん」ってどういう意味なのかな、と言葉の変換がうまくできずにぼんやり思った記憶が20年近くたった今でも残っています。まずはほかに転移していないかを調べるといううことでその後数日かけて全身のCT、ガリウムを使った骨シンチグラフィー(腫瘍の骨転移を調べる検査)などの検査を受けることになりました。幸いにも原発部位以外への転移はみつかりませんでした。

【セカンドオピニオン】

 詳細な検査結果と今後の方針については、一度田舎に戻っていた母に再度来てもらい、主治医から母を交えて話がありました。父は仕事の都合で来られませんでした。
・化学療法と手術を併用しての治療となる
・顔にできた腫瘍の切除のため顔のかなりの範囲を切除することになる。顔面神経の切除を伴うため、顔の半分が麻痺する。
・非常に特殊な病気(骨外性骨肉腫)であり、世界の症例をネットワークで調べても顔の特定部位にできる症例はほとんど見つけれない、〇万人に一人、ということでなく、他に症例がない(これは担当していた研修医からいわれたこと)
・がん細胞には悪性度というものがあり、生検結果では悪性度はかなり高い
・形成外科と整形外科でチームを組織して治療に当たることとなる。主治医は形成外科の先生(最初の診察で担当した先生)となる。

 上記のような話でした。
母から、顔面麻痺や顔を大きく切除しないで何とかならないか、という質問に対して主治医は次のように言いました。
「お母さんが切除範囲を2センチにして下さいというなら2センチにします。3センチが良ければ3センチにしますが、私は形成外科医で再建が専門ですので大きく切除した部分を再建していくことができます。大きく切除した方が再発の可能性は低くなりますよ」

 母は、他の病院に相談してもよいか質問しました。
「ほかの病院を探しても結構ですが、当院であればすぐに治療をスタートできます。生検で悪性の組織に傷をつけており、全身に悪性の細胞が散らばっているリスクがあります。またどこの病院もそんなにすぐには受け入れてくれないと思いますよ」
というのがその時の先生の回答でした。

 当時の私はセカンドオピニオンという言葉も知らず、主治医の言葉のまま、一刻も早く治療を開始するべきではないかと母に話しました。母は次のように言いました。

「あなたには、医者の言うままに顔を半分切り取って顔面が麻痺して、これから人に顔を背けながら話をするような人生を送ってほしくない。」

私は早く治療を開始して生きる可能性を上げたい、優先すべきは顔ではなくて生きることだと思っていました。しかし母は、今を何とか生き延びるということではなく、これから続く長い人生を見据えた最良の選択をしてもらいたいと考えていたのです。また、母は一度実家に戻ってから、つてをたどって、地元のがんセンターの整形外科のセカンドオピニオンを受ける段取りを整えていました。

 もしセカンドオピニオンを受けなければ、私の人生は大学病院の総合受付の女性がたまたま?選んだ診療科の先生の方針にゆだねられたことになります。それが心から納得できれば良いのですが、話をしてみて納得できないけれどもほかの選択肢がない、思いつかないという消極的な理由で治療をスタートさせるのは、自分の人生を他人の判断に任せたことになります。結果が良くなかった場合、納得できたでしょうか。結果が同じでもセカンドオピニオンを受けて納得したうえで治療を開始するべきと今は強く思います。2002年当時もセカンドオピニオンの重要性は認識されていたと思いますが、私が実際に経験したやり取りでは、セカンドオピニオンのデメリット(治療開始が遅れるリスク)を強調され、すぐに最初の大学病院で治療を開始するべきというニュアンスと、セカンドオピニオンを受けるなら元の病院には戻ってこられないというセカンドオピニオン=転院というニュアンスを強く感じました。2021年の今はそのようなことがないことを強く願っていますが、いずれにしても自分で決定するためには複数の選択肢があるべきだと思います。

 結果として私は、セカンドオピニオンを受けた上で地元のがんセンターに転院して手術と治療をうけることにしました。手術、抗がん剤治療については改めてお話ししますが、その病院にはちょうど骨軟部腫瘍の治療研究のためにアメリカに留学して戻ってきたばかりの先生がおり、信頼のおける主治医と治療チームの下で治療に専念することができました。患者の不安をあおったり、判断を急かすような環境ではなく、患者のことを心から思っている医療チームと闘病することができて本当に幸運でした。

【幸運について】

 最初の大学病院で治療を受けていたら治らなかったのか、地元のがんセンターでの治療がうまくいったから生還できたのか、私にはわかりません。がんは非常に個人的な病気であり、同じ治療をすれば誰でも同じように治るというものではありません。私がなぜ長期がんサバイバーとして生き延びてこられたかという質問に一言で答えるとすれば「運がよかったから」としか言えません。どのような治療を受けても助からない方がいる中で、生き延びることができている自分は「幸運な人間」としか表現できないというのが、心からの実感です。しかし幸運をつかむ確率を上げるためのことは可能な限りやるべきだと思います。セカンドオピニオンはその中でも優先順位の高い「やるべきこと」であると自分の経験から思っています。最初の主治医の先生や治療方針が心から信頼できると感じられたとしても、セカンドオピニオンを受けてみる価値はあると思います。

 幸運について考えるとき、人類史上初めて南極点に到達したノルウェーの探検家アムンセンの言葉を思い出します。

あらゆる状況を想定して準備しておけば勝利が訪れる、
これを人々は幸運と呼ぶ  

 ロアール・アムンセン

 がん闘病者にとって、準備できることは限られます。私も何も準備することなく状況に身を任せるつもでした。準備をしたのは私ではなく母です。わが子の生還という勝利をつかむためにできる限りことをやってくれた母に深く感謝しています。ちなみに私の切除手術は最初の大学病院で説明されたのとほとんど同じで腫瘍まわりの切除・皮膚移植と顔面神経の断裂に伴う顔面麻痺が残っています。でもあの日に母に「あなたには、人に顔を背けながら話をするような人生を送ってほしくない。」と言われたとおり、結果として顔に傷も麻痺も残りましたがそんなことは気にもせず(ほとんど忘れて生活しています)、まっすぐ前を見据えて人生を歩むことができています。これも母がつかんでくれた大切な勝利の一つです。

お母さん、幸運な人生を歩ませてくれてありがとうございます
(長生きしてください)。

#がんサバイバー #AYA世代 #がん #人生

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