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この世界に生きる人たち_東京

週末の東京出張。
午後からの会議に合わせて早朝、札幌を出発する。
金曜日の朝の便だというのに514人乗りのボーイング777は満席だ。その前の便も次の便も全部満席。

昼少し前に丸の内について会議の前に昼食をとろうかなと思ったけれどどもこ大行列で入れそうにない。丸の内のエリートサラリーマンたちがスマートなスーツを着こなして中華そば屋に並んでいる。仕方がないのでセブンイレブンでドーナツをコーヒーを買って食べる。

今回の出張では金曜日の夜に懇親会があり日帰りできなかったので一泊して土曜日は一日東京でフリーの休日。
・・・のつもりだったのだけれど、別に東京でやることがあるわけでもなく、夕方に予約していた飛行機を朝の便に変更して札幌に戻ることにした。帰りの札幌便も8時の飛行機がすでに満席。

7時の羽田空港はもう人でごった返している。コロナのころのほとんど店の閉まった飛行場と誰も載っていない貸し切り状態の飛行機が去年のこととは思えない混雑ぶり。

東京の人とモノの多さに身をおいていると、一日いるだけで調子が悪くなる。こんなところによく住んでいたなと思うけれど、20代のあの頃は、東京のなんでもある、なんでもできる感じがよかったのかもしれない。それが自分の可能性とリンクしているような気もしていたけれど、それは結局数千万人の欲望の塊が創り出した、壮大なエネルギーの浪費だった、と今では思う。

莫大なエネルギーを消費し、人々をひたすら疲れさせる街。
20代のころ。東京の人の多さ、モノの多さ、欲望の多さがよいことと感じられたのは、私が若くて無知だったからなのか、あの頃の世界はそういうものだったからなのか。今それが私をひたすらうんざりさせるのは、私が年をとったからなのだろうか。それもあるかもしれない。

2024年。今この世界を20歳の私は生きることはできない。いま20歳でこの世界に生きる若者は、2050年に今の私と同じ年になる。

2050年に生きる46歳は、どのような気持ちで世界を眺めるのだろうか。彼が「あの頃は異常だった」、と言えるような世界になっていると良いのだけれど。

そして、そのときの世界のために自分ができることがないか、2024年の46歳として真剣に考えていきたい、私は思う。




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