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必死に生きる人を笑う人たち

司馬遼太郎がある小説のあとがきに、こんなことを書いていた。
「あれだけのことを書くためには、いろいろ調べてくれる人が沢山いるんでしょうね」と言われてとても驚いた、と。

確かに司馬遼太郎の莫大な小説の数、ページ数とそこに含まれる情報量を見ると、とてもひとりの人間の仕事とは思えない。

けれど、本人が断言しているように、司馬遼太郎は自分一人ですべてを調べて、一人で小説を書いている。図書館や古本屋を巡って、人が気にも留めない古い資料を発掘していくその熱量はすさまじいけれど、それは確かに、一人の人間が自分の人生を賭けてやり遂げたことなのだ。

人間が何か一つのことに打ち込んで人生の全てを賭けることができればそんな人間離れした仕事を残すことができるのかもしれない。

でも、私を含めほとんどの人は、そんな高みには到達できない。私達はその人とその仕事を賞賛とあこがれの気持ちで見送ることになる。

賞賛とあこがれの気持ちなら良いけれど、司馬遼太郎に調査チームがいるに違いないと思い込んだり、あの作家や歌手にはゴーストライターがいるに違いないと思い込んだり、SNSで噂しあったり。何かに取り組んで仕事を成し遂げた人に対して、それを素直に受け入れられない人たちが沢山いるのはなぜなのだろうか。

私は組織で、ものづくりをする仕事に従事しているけれども、何もないところから何かをつくり出すというのはとんでもない力が必要で、その大変さを知ればこそ、一人でものを創り出す人たちには心からの尊敬と賞賛の気持ちが湧いてくる。

本でも料理でも、音楽でもアートでも、工業製品でも農作物でも、何かを作る人たちはその大変さを知っていて、その行為を笑ったり、馬鹿にしたり、疑いの目で見たりなんてことはできないと私は思う。

ネガティブな意見をぶつけたり、人の頑張りを嘲笑するひとたちは、なにもつくり出したことがない人たちで、その裏返しが、何かを必死につくり出そうとする人たちに対する疑いや敵意や嘲笑となって表れるのだろうか。

何者かになりたくて、なれない、なれなかった人たち。何者かにならなければいけないというプレッシャーを周囲から与えられ続けられた人、自分で自分にプレッシャーを与え続けた人たち。そんな自己実現という欲望に過剰にしばられるのは、現代に生きる私たちの宿命なのだろうか。

私たちのほとんどは、何者でもないし、何者かになる必要なんてない。

でも、必死に生きる人を決して笑ってはいけない

そして、誰もが自分の人生を必死に生きている、ということを決して忘れてはいけない。

だから、誰のことも笑うことはできないと、私は思う。

私たちは何者でもなく、そして必死に生きている。

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