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20230514 子どもの祭と大人の祭を結ぶもの ~ないかもしれない

 祭を通じて子どもの社会化が促進されることの意義はもう何度もここで書いてきましたしそれに関する論文も多く存在すると思います。しかし,そうした意義が注目され,手取り足取り大人がよってたかって子どものためを思った祭を準備することで「子どもの社会化」が阻害されてしまっているのではないかな~というおそれも結構抱いています。
 今日読んだ以下の論文は私のそのような思いにヒントを与えてくれるものでした。
 
伊藤雅一 2015 地域活動における教育観と地域社会の維持機能の検討 : 地域の祭りをめぐる「子ども」語りに注目して. 千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書, 293, 17 – 25.

 この論文は「コムニタス」という概念の図式を中心に据えて考察されていますが,私にとってのコムニタスは『本日試験が行われた公認心理師資格の受験の時に名前をみた記憶があるなあ』というターナーの理論とはかすりもしない知識しか存在しないのでそこには触れず,インタビューの結果をかいつまむ感じで書かせていただきます。
 
 対象となる祭は千葉県千葉市稲毛地区で2006年から始まった「夜灯(よとぼし)」という祭で,9月くらいから開かれるワークショップで子どもが描いた絵のついた灯籠を11月に飾るお祭りのようです。博多部だと灯明ウォッチングがこれに該当するかなと。
 

写真は千葉の夜灯のものではなく博多の灯明ウォッチングのものです

 この祭で大人が(期待して)語る子どもには以下の5段階があるようです。
 
(1)守る対象としての「子ども」
(2)地域の誇りを語れるようになる「子ども」
(3)夜灯運営の担い手としての「子ども」
(4)商店街と「子ども」
(5)地域と「子ども」
 
 守ってあげることで祭を楽しんだ子どもたちが,祭を誇ることで地域を愛するようになり,守られる側から守る側として担い手となり,商店街や地域になじんでいく…そんな夢のような流れができたらどれほどよかったでしょう。
 しかし,物語はそう単純にはすすんでくれないことが以下の引用から分かると思います。

だが、学校の存在を基盤として夜灯に参加する子どもと、何かを受け継ぐ再生産機能を希求される「子ども」とが一致しているわけではない。学校の存在を基盤とした子どもの参加は、学校という限られた空間・時間での出来事に対するものである。一方の再生産機能を希求される「子ども」の参加は、学校よりも広域な地域を舞台にした長期的な移行過程に対するものである。
学校の存在を基盤として夜灯に参加する子どもと、夜灯運営の中心スタッフが想定する「子ども」にはズレが生じていることが見出せる。何かが継承されると想定され望まれているのみで、実存としての子どもには教育的意図がどこまで伝わっているのかは分からない。語られる「子ども」の「虚構」(元森2009)や、「子どものため」という論理が「子ども不在」(高久2014)であるという指摘の通りとも捉えられる。教育的意図に沿った子どもの参加の動きがないのは、夜灯がある種の「通過儀礼」として機能していないからではないだろうか。

 学校単位で祭の準備に関与し,子どもたちが実際にその祭を楽しんでも,学校を離れて地域の中で主体的に祭に参加するようになるかというと,それがないのが難しい所のような気がします。
 このあたり,おそらく全国いろんな小学校で授業の一環として地域の祭に参加し,それは比較的効果を生んでいると思います。しかし,その際に「子どもが完全に満足できる子ども用の祭」をつくってしまうことで,それは伝統にも継続にもならない祭になってしまうような気がします。なんというか,「お子様ランチ」や「お子様カレー」を作ってしまうと,大人になってそれを食べようとは思えなくなるのと似ているのではないかと思います。
 
 また,この論文では,大人がいだく「子どものため」という想定や期待が,結局「大人の大人による大人のための子ども(の祭)」を生んでしまう的な難しさがあることが以下の引用では示唆されているように思えます。

しかし、地域における「子ども」への想定や期待は地域活動の運営継続として表出的に機能している(運営側のモチベーションが高まる)のであって、道具的に機能している(地域活動の運営側として参加していく)わけではない。「子ども」を掲げれば地域活動が継続していくのは、「子ども」は象徴で済んでしまうことでもある。
子どもが参加しなくても成立してしまっている地域活動の現状と、その一方で地域活動の担い手が続いていかないという将来的な不安がつきまとう。こうした地域活動に子どもを参加するように仕立てると、「とりあえず参加」による「観察なき経験主義」になりかねないのではないだろうか。別の言い方をすれば、地域活動は「学びの機会」としての提示が困難とも言えるだろう。

 このあたり,「中高生が参加したがる祭」を考えると,どちらかというと「小学生をサポートしてあげる」という動機ではなく「大人の世界に入りたい」という動機の方がまだ機能しやすく,そのため山笠やらだんじりなどの祭などの方が青年を引き付つけるのではないかなあと思ったりします。
 
 そういう意味では「子どもの祭」と「大人の祭」をつなぐ「青年が生き生きできる祭」がある祭がやはり今後生き残っていくのだろうなあと思います。

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