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20230302 祭と「映え」とカメラマン

 先週末に引き続き今週末も出張で土日出勤できないので,今日くらい論文読んでおかないとしばらく論文を元にNOTE書けない…ということで論文を探しているとみつかったのがこちらの論文です。
 
酒井貴広 2017 地域住民とメディアの相互作用を基盤とする祭りの創造に関する研究 -栃木市都賀町家中の「強卵式」を事例として-. 早稲田大学大学院文学研究科紀要, 62, 549 – 566.

 私はかつて新興住宅地などでみられた「新しくできたコミュニティでその結束を高めるために祭を生み出していく」ことに興味があってタイトルの「祭りの創造」の文字にひかれて目を通したのですが,内容は全く別の種類の祭りの創造についてであり,「そうした視点は確かにあるし,今の祭りの創造はこっちの方が大きいかも!」と思うようになりました。
 
 私が知らなかっただけかもしれませんが一般的に「強卵式」をご存知で無い人の方が多そうなのでその内容を説明した部分を引用させていただきます。

 「強卵式」とは、栃木県栃木市都賀町家中地区の鷲宮神社で毎年11月23日に開催される例大祭にて執り行われる儀礼である。鷲宮神社は家中地区の総鎮守として置かれた神社であり、天日鷲命(別名:天日鷲翔矢命)と大巳貴命(大国主命)を祭神とし、天日鷲命が奏でた弦楽器に鷲が止まった説話にちなみ、「お酉様」として受け入れられてきた。鷲宮神社の例大祭は午前8時の集合から午後3時40分頃の撤収までおよそ1日がかりで行われるが、強卵式は午後1時30分から午後3時30分頃までの約2時間に執り行われる。
 強卵式の式次第を補足すると、(1)拝殿に登った宮司・天狗・赤の面・青の面・巫女・頂戴人らが参拝と祓いを済ませ、(2)頂戴人が天狗から日本酒の痛飲を強いられる「御神酒の儀」、(3)引き続き天狗から卵を口にするよう迫られるが、頂戴人が断固としてそれを拒否する「強卵の儀」、(4)太々神楽保存会の2人の巫女による「浦安の舞」と続く。その後、(5)頂戴人らが卵を祭神に献饌し、(6)再び殿上の全員が参拝することで拝殿における儀礼は終了となる。この後、頂戴人らが神楽殿に移動し、(7)参加者に強卵の儀で用いた卵を投げ与える「福撒き」を完了させるまでが、強卵式の一連の流れである。
  強卵式の式次第における主軸は、「御神酒の儀」である。これは、拝殿に登った10人の男女──頂戴人──が、5合の日本酒の一気飲みと鶏卵の大食を神使である天狗から大声で強いられるという、耳目に訴えかけるパフォーマンスから成る。天狗が拝殿上で大声を上げながら立ち回って飲酒を勧め、頂戴人たちはラッパ飲みで一升瓶に入った酒を飲み干さねばならない。天狗の大立ち回りと赤ら顔で必死に酒を飲む頂戴人の姿こそ強卵式最大の見せ場であり、この様子を見物し撮影するために、家中地区内外から多くの人々が押し寄せる。
 一方「強卵の儀」では、鶏卵は鷲宮神社の故事(2)に即して境内での飲食が忌避されるために、頂戴人たちは頭を垂れ天狗の責めに耐えねばならない。痛飲と大食を強いられる強卵式の式次第は、現在でも栃木県内に広く見られる「強飯式」との関連性、ひいてはその背後にある日光修験との長年に渡る連続性を感じさせるが、意外にも、強卵式は2001(平成13)年に創設された比較的新しい儀礼である。

 読むだけで物語性があり写真やビデオに撮ってネットにあげたくなるような「映え」の要素があるのが分かります。
 そうした「映え」が実現した理由として,大きくは以下の2点があげられると思います。
 
(1)祭を創設した鷺宮神社の宮司さん自体の意向の存在
 
「(平成13年1月に亡くなった)父の供養に祭りを賑やかにやりたいと思った。」,「強卵式は、基本的には「地域のみんな」が楽しむもの。山車の裏でやっている酒盛りがメイン。「平成に始まった伝統」として、200年くらい続いて欲しい。」などと,映えと楽しさがそもそもの目的とされている。
 
(2)イベントコンサルタントの存在
 
「強卵部分だけだと動きがないので、清めと称して酒を飲ませることにした。」,「一度年配の男性ばかりでやった時は、観衆に「おじちゃんばっかりでつまらない」と言われた。」「御神酒の儀は卵食禁忌の周知とは異なる思惑──人を集め楽しませるという、イベントコンサルタントの提案した思惑──を基盤に成立しているのだが、五感に訴えかけるエンターテインメントと化すことで、「見物人」であるはずの観客を能動的・主体的な「参加者」に転化させるという特異な機能を発現させている。」などの記述などより,観客への「映え」をさまざまな仕掛けでめざしているのが分かると思います。
 
 その後,論文ではメディアでの「奇祭」としての取り上げられと祭の相互作用などについても検討されていくのですがそちらは論文を読んでもらうとして,ここでは,「祭りでの映えの位置づけの変化の可能性について少し考えてみたいと思います。
 
 調べてみると「インスタ映え」という言葉は2017年の流行語大賞のようで,この論文が出版された年と一致しています。この言葉自体は最近あまり効かなくなった気がしますがSNSにあげるための「映え」を求める動機づけは今でも高いままだと思われます。
 太古の昔より祭は「映え」を重視していたと思われますし,観客は祭に「映え」を体験しに行っていたと思うのですが,それは単なる観客であり「受け取る」だけだったと思われます。
 しかし近年では「いかに映えを撮影するか」「人よりすごい映えを写せるか」のような祭のなかでの「映え選手権」「最高の映えを得る競争」のようなものがある気がして,ある意味祭の参加者以上に観客の中で「映え確保競争」が起きてきている気がして,これは結構最近のことなのではと思っています。
 昔からカメラが趣味な人はそのような「競争意識」はあったと思うのですが,それが万民化して皆が「映え」を意識してばかりで祭をみるようになったから,それに対応する形で「映え」を進化させていく祭もあり,その代表としてこのお祭りを考えられるのではないかなあと思ったりしました。

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