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天上界の花精霊

死者達が渡る三途の川。
 河原から草むらの生い茂った小道が伸びていて、途中に一体の地蔵があった。
 何の変哲もないただの石像である。のっぺりとした顔に、赤いよだれかけ。手には短い錫杖を持っている。
 そこに腰を落とし、地に膝を付き、手を合わせて熱心に拝んでいる少女がいた。
 橘華耶(たちばなかや)。背は150センチ、体重は四十五キロ前後。
 髪型は明るめの茶髪のショートで、オレンジのガーベラの花の髪飾りを頭の横につけていた。
 花柄の可愛いピンク色の着物に、袴は赤色で短くスカートのように横に広がっている。
 草履をはき、手には巾着と船頭の持つ棒である水(み)棹(さお)を持っていた。 
 元気で明るいのが取柄で、人間でいうと中学一年生ぐらい。和服姿がよく似合うが、色を変えればチアリーダーのような格好だ。
 彼女は三途の川の船着き場に渡し船を置き、実習を終えて学校に戻る途中だった。
 華耶は水棹を持ち、立ち上がると小道を歩き始めた。彼女と同じぐらいの背丈の草木が風にそよぎ、背後からは川のせせらぎと、まれに叫び声のような呻き声のような音が聞こえてきた。
 すると、彼女の前方から砂利を踏みしめる足音が響いてきた。それはだんだんと大きくなり、華耶の方へと近づいてくる。
 姿を現したのは、藤原紫乃(ふじわらしの)。
 華耶よりもやや背が高く、表情は柔和で、髪型は黒のセミロングに、頭の後ろにぼってりとした縮緬地の紫色のリボンと、小さな花のかんざしをしている。
 着物は白地に薄い紫の大きな花模様がいくつか描かれていて。紺色の袴はロングスカートのように、裾の方が少し横に広がっていて、下の方には薔薇とリボンの刺繍が施してあった。
 全体的に大人っぽく落ち着いた印象だ。
 彼女も水棹を持っていた。
 華耶は眉間に皺を寄せて、露骨に嫌そうな顔をする。さっさとすれ違ってしまおうと、足を速めた。
 二人は性格が合わないだけでなく、橘氏の学館院と藤原氏の勧学院という、それぞれ別の学校に通っているライバル同士だった。
 紫乃の方が、ちょっとだけ先輩だ。
 だが華耶は別に頭を下げたりもしない。互いに目も合わせなかった。
 フンッとわざとそっぽを向き、あと一歩のところまで迫る。
 そのまま何事もなく通り過ぎるかと思いきや――
「豆」
 華耶がすれ違いざま呟いた。
 紫乃の眉がピクリと動き
「みかん」
 と言い放つ。
「小まめ、豆粒!」
「腐ったみかん!」
 お互い足を止め、いがみ合いながら、次にぱっと距離を取り、水棹を振って牽制する。二度三度と激しく打ち付け合う音がした。
 実力はどちらも同じぐらいで、学校別の対抗戦などでも戦績は五分五分だった。
今度は距離を詰め、棒が交差したまま対峙し、二人とも腕が震えてガチガチ鳴っている。
 力の入りすぎのようだ。
「絶滅しろ、日本固有種の橘なんか!」
「む~、人が一番気にしていることを……。鳥に食われて消えちまえ!」
 華耶達は、ぜえ、はあ……と肩で息をしていた。紫乃の方は額に汗をかいている。
 彼女達の元々の仕事は、三途の川を渡る死者の手助けであるが、現代ではそれよりも川を渡る死者の魂を魔から守ることを主な役目としていた。地獄の苦しみを恐れて、それから逃れられるという魔の誘惑に乗ってしまえば、輪廻転生で生まれ変わることができなくなる。
 特に船の沈没事故や航空機の事故、脱線事故など大量の死者が出た時や、昔であれば皇族や菅原道真公のような能力の高い者が、無実の罪を着せられた際などは特に警戒が必要だった。
 生まれ変われなくていい――。あいつに復讐しにいく! 
 そんな人間の魂を止めるのは難しい。復讐魔が一番危険だ。
 ただそういう喰うか喰われるかの激しい戦闘をともなう任務は稀で、普段は鬼が見張りをさぼったりしたせいで、地獄から脱獄した者を捕え戻したり、子供を賽の河原に送り届けたりというような警備の仕事をしていた。
「魔を退治したんですって。初手柄おめでとう先輩。まあ、すぐに追いつくけど」
「抱き着かれたから薙ぎ倒しただけ。私、思いっきりビンタしたのに、なぜか喜んでるし……オタクっていうやつ? ああ、気持ち悪い」
 紫乃は身をぶるりと震わして、水棹を下ろした。これ以上続ける気はないらしい。
 華耶もその話を聞いて張り合う気が失せたようだ。
「人間の色欲に取りつかれた煩悩魔……なんて恐ろしい」
「あんたも気をつけなさいよ」
 フンッとお互い鼻を鳴らしながら反対方向に歩いて行った。 

「あれ? お地蔵様がいない……」
 ある日、華耶がいつものように実習を終えて三途の川から学校に戻ろうとしていると、いつもの場所にお地蔵様が立っていないことに気付いた。
 行くときには確かいらっしゃったはずなんだけど――
 と不思議に思っていると、草むらの奥の方でガサッと不自然な音がした。風じゃない。何かが隠れている。
 畜生道の獣か、魔か。
 警戒する華耶。
 恐る恐る水棹を草むらの中に突っ込みながら進むと、コツンと何かに当たった感触があった。緑の葉の隙間から見えたのは、小学一年生ぐらいの女の子だった。髪はボサボサで、水色のシャツに、ところどころ擦り切れた紺色のズボンをはいている。
 女の子は怯えた表情で、すぐに背後にある細長い石の裏に隠れる。
 なんと石がゆっくりと回り出し、のっぺりとした顔が現れた。
 お地蔵様だった。
 少し安心して警戒を解く華耶。
 でも、なんでこんなところに子供がいるんだろう?
 彼女は首を傾げた。今まで出くわしたことのない状況だ。 
 そこで、ハッとあることに思い至った。
 もしかして――
「その子、脱獄してきたんじゃないですか?」
 びくっと反応したお地蔵様は、困ったような表情になったあと、ふるふると体全体を左右に振った。
 怪しい――と疑いの目を強める華耶。
「橘? 何やってるの」
 華耶が振り向くと、紫乃が草をかき分けながら近づいてきた。彼女は地蔵とその後ろにいる女の子に気づいたようで足を止める。手にしていた水棹を自分の体に立てかけて、両手を開けると、胸元に手を突っ込み、一枚の書類を出して何かを確認していた。何度も書類とお地蔵様の方――女の子を見ている。
「間違いない! 賽の河原の石積みから逃亡した脱獄犯よ。捕まえて!!」
 華耶に手配書が見えるよう人相書きを見せつけて、女の子を指さす。
 女の子はますます怯え、地蔵は子供を守るように、先程とは違って頼もしい表情で錫杖を構えた。
 紫乃も水棹を構えて真剣な表情で距離を詰める。
「橘! ぼーっとしてないで協力しなさい!!」
 怒られて、ひえっと小さく悲鳴をあげる華耶。水棹を遠慮がちに構えたものの、腰は引けたまま弱弱しい口調で言う。
「ま、待って藤原。お地蔵様と戦うなんて――」 
「いざっていうときに役に立たないわね! 親しい者が魔に憑りつかれたときどうするの? ぼーっと見てるだけ? あんたが殺られるわよ」
 紫乃はそう言って、掛け声とともに走り出し、水棹を槍のように地蔵目がけて突き出した。地蔵は錫杖でそれを払い距離を取る。両者の間に女の子が割って入った。
「お願い! お姉ちゃんを探しに行くだけだから! 必ず戻るから! お地蔵様を攻撃しないで!!」
 精一杯叫んで、両手を広げ必死に訴える。肩で息をしながら幼い手足は震えていた。
「大人しくこっちきなさい!」
「どうしてお地蔵様が一緒なの? 話を聞かせて」
 華耶は水棹をその場に置き、ゆっくり女の子の方に近づいてしゃがみこむ。
しかし紫乃は後ろからやってきて、女の子の腕を掴みひきずって連れていこうとした。
 華耶が非難の声をあげる前に、黒い影――何かが彼女達の頭上に現れた。
華耶が見上げるとそれは地蔵だった。地蔵が大きくジャンプして盛大な飛び蹴りを紫乃のおでこに喰らわせた。
 骨に当たる音がして紫乃は派手にひっくり返り気絶した。
 華耶は、あー、どうしよう……みたいな顔をして、その場にしゃがんでいた。

「お姉ちゃんを止めないと。生まれ変われなくなる……」
 通常の死者の魂では、あの世とこの世を自由に行き来できない。小さな女の子の魂が一人で地上に戻ったとすれば、魔の力に憑りつかれている。
 お地蔵様と一緒にいた女の子、葵ちゃんから話を聞いた華耶は、その姉である遥ちゃんの行方を突き止めるため同行することにした。
 華耶達は地上への出入り口がある黄泉平坂を上っていた。坂を上りきったところにある岩を、お地蔵様の力でどかして塞がっている穴を開いてもらい、そこから地上へ行く予定だ。
「もう少しで着くからね、葵ちゃん」
 疲れているから、俯き気味で無口なのかと、華耶は心配して声を掛けたが
「お姉ちゃんは、なんでわざわざあんな場所に戻ったんだろう――」
 葵の方は聞いていないようで、地蔵の後を追いながら呟いていた。
「橘!! やっぱり一緒にいたのね! やっと見つけた!!」
 叫び声がして華耶が振り向くと、坂の麓に紫乃が水棹を持って怒りの形相で立っていた。おでこが大分赤くなっている。
 ちっと舌打ちした後、もっと葵と話がしたいと思っていた華耶だったが、素早く彼女の手を取り、『怖いお姉ちゃんが来たから、岩の所まで頑張って走ろう』と促した。
 葵がこくんと頷き、二人は駆け出す。地蔵もガタゴトとついていった。
「こら、逃げるな!」
 紫乃が追ってくるが、まだ距離は十分あるし逃げ切れるだろう。
 坂が終わりに近づいてきて、息も苦しく足が重くなってくる。ようやく岩が見えてきたが、そこで岩の背後から黒い靄のようなものが噴出しているのが目に入った。
「お地蔵様、あれ!」
 華耶達は足を止める。穢れだ。瘴気にやられる危険があるので近づかない方がいいのだが、放っておくと魔を呼び込むかもしれない。普段、出入り口は開きっ放しということは無いのだが、葵の姉が通った後、穢れて完全に塞がらなかったのだろう。
 華耶は焦った。
 穢れを払わないと――。でもそれやってると、紫乃に追いつかれる。
「待ちなさいってば! その子がもし魔になったら、あなたの手で消せるの!?」
 そのとき、ぬっと黒いものが岩の穢れの間から姿を現した。立て続けに二つ。後ろ姿のようで顔はわからない。河童のような――でも、天狗のような黒い翼も生えていた。
 魔だ。
 華耶が言葉を失っている横に、息を切らした紫乃も並ぶ。
 魔が彼女達に気づいたようだ。頭の皿は棘の王冠を被っているようで、鼻は天狗のように高く、眼は高温で熱したような赤銅色のように、怪しく光っている。身体は鱗に覆われていた。
 言葉はしゃべらないようなので、低級の魔だ。
 お地蔵様は強い味方だが正直、葵が足手まとい。
 戦力的にはほぼ互角だが、ここは一旦引くべきか。
 それに、一体はひょっとしたら葵の姉か――
 睨み合いが続いていたが、突如最初に現れた魔の方が翔んだ。
 華耶達の頭上目がけて、高い場所を飛んでくる。
 敵が逃げる気にしても、攻撃してくるにしても、自由に空を動けるので厄介だ。動きを封じないと。
「中輪に藤の葉丸!」
 紫乃が気合の入った声と共に、水棹を一振りした。無数の藤の葉が、強い風に吹かれて舞っている。二枚三枚とそれが小刻みに捕らえた相手を切りつけた。
「三つ橘!」
 華耶も加勢する。黄色い光で三つの橘の紋が魔を締め付ける。潰れそうなほどに圧迫し、魔の体が歪んだ。
 そのとき地蔵が岩の方に突進していった。錫杖から小さな光の玉が連続で撃ち出される。
 もう一体の魔が、ちょうど岩から出る黒い靄の穢れに半分ほど躰を沈めたところだった。
 地蔵の放った光球は、僅かに狙いを外れて岩にぶつかり、衝撃音とともに白い小さな煙が、短く数本、熱を発しながらたなびいていた。
 追撃の手を打つよりも早く、魔は黒い靄の中に消滅した。
 逃がしたが、これで残りの敵に集中できる。
「丸に違い藤の花 !」
 紫乃が叫ぶと、太い藤の房が槍のように尖り、歪んだ魔の躰を貫いた。断末魔があがり黒い塵となって霧散する。
 やったあ! と飛び上がって歓声をあげる華耶に、紫乃の方は澄ました表情だ。
 そして、ゴゴゴゴゴと大きな音がして彼女達がその方向に目を向けると、お地蔵様が岩を動かしていた。岩が動いてできた、ようやく一人通れるぐらいの小さな穴から、明るい光が天に向かって伸びている。
 地蔵のそばには葵がいて、引っ張られるようにして彼女は穴の中に落ちた。いや不意を突かれ地蔵によって落とされた。
「あー!!!」
 紫乃が大声で叫ぶがもう遅い。地蔵もそのまま光の中へ。
 穴はどんどん小さくなり、岩が元の場所にゆっくり戻っていって、出入り口は完全に塞がった。

 一日が過ぎ、華耶は葵達のことが気になって学校の授業は集中できず先生に怒られ、実習でも船を転覆させてしまい後輩にまで笑われてしまった。
 帰り道、お地蔵様の姿はやはりいつもの場所になく、脱獄犯の葵が賽の河原に戻ってきたという噂もない。
 彼女達のことは橘氏のコネを使って、昨日のうちに生前の記録を取り寄せて今朝までに読んだ。
 だが姉の遥が、なぜ脱獄したのか結局わからなかった。
 どうしても気になったので、彼女は何か手がかりや痕跡など残っていないか確かめに、遥や葵が辿ったであろうルート、賽の河原から黄泉平坂まで行ってみることにした。
 まずは賽の河原で一緒に石を積んでいた子供達から聞き込みを始めた。
 姉の方は、何か考え事をしていたのか、最近よくボーっとしていたらしく、石を積んでいても上の空で、頻繁に崩していたらしい。
 真面目にやれ! と鬼達も怒っていたそうだ。
 妹の方も恐くて一緒に泣いていたようで、だがまさか二人とも脱獄するとは思っていなかったそうだ。
 二人が大事にしていたものや、持ち物は特にない。
 ただ彼女達は、いつも他の子供の幸せそうな話を羨ましそうに聞いていたという。
 お母さんに、新しい洋服や靴、おもちゃなどを買ってもらった。遊園地に連れて行ってもらった。お父さんにおんぶしてもらった。おじいちゃんとおばあちゃんの家に行った。授業参観のあと褒められた。
 などなど、どこの家庭にもある普通のことだ。大して参考になるとは思えない。
 鬼からも話を聞いたが大した収穫はなく、一部の鬼達は閻魔大王様からすごく怒られ減給処分になったらしく、見つけたらボコボコにしてやる! と二人を恨んでいた
 ただ葵の脱獄の方には、お地蔵様が関わっていることは知らないようで、華耶も特に言う必要はないと思って黙っておいた。
 やっぱり何もみつからないかな――と思いながら賽の河原を後にして、今度は草むらの方を探しに行くことにした。

 あれ? と華耶が不思議に思ったのは、黄泉平坂の前でぶんぶん飛んでいる何かに気付いたからだった。
 どうして、こんなところに蠅がいるのだろう――
 葵達の足取を追ったが、結局何の手がかり得られず諦めて帰ろうとしていたところで、それに遭遇した。
 人間界と天上界を繋ぐ扉が開いているのだろうか?
 坂の麓まで来て見上げると、岩のところから先日見た光が見えていた。そこの中にちょうど何かが消えるところだった。魔だったら大変だが……
 藤原?
 一瞬だったのでよくわからなかったが、紫乃の姿をみたような気がして、華耶は坂を駆け上がって行った。

 坂の頂上に着いたとき、もう光の穴はだいぶ小さくなっていて、岩が小刻みに振動してそれを徐々に塞いでいった。
 穴はどんどん狭くなり、もうギリギリ華耶が通れるかどうかの幅しかない。
 迷っている暇は無かった。
 彼女は滑り込むようにして、足から穴の中に落ちて行った。
 穴に入ってから、途中で魔に会ったらどうしよう。
 そもそも、そういうことってあるんだろうか? 
 誰にも告げずに許可も取らず無断で人間界に行こうとしているが、帰ったら厳しい罰が待っているのではないか? 
 一族に迷惑がかからないか――など、いろんな考えが頭の中をよぎった。
 しかし、今更引き返せないので、どうしようもない……。
 もしさっきみた人物が本当に藤原で、地上で会うことができたら、癪だが助けを求めた方がいいだろう。
 大きな貸しを作ることになるかもしれないが、重い処罰を受けるようなことにはなりたくない。
 そもそも天上界に戻れるのだろうか――
 なかなか戻れず、魔と戦って傷ついたまま、救助も来ずに果てるかもしれない。
 不安だらけだ。
 やがて華耶は光の中を通り、色々考えているうちに、無事出口に辿りついた。
 土の上に放り出され、勢いよく尻もちをつく。いててと声をあげた後、体を起こし土を払いながら彼女は立ち上がった。
 山の中のようだ。あたりは背の高い木々に覆われていて日差しも阻まれている。ひんやりとした空気と時折風が吹き、木々がさわさわと葉を鳴らしていた。 
 見知らぬ土地なのでもちろん右も左もわからない。
 天使の研修として学校のクラスメイト達と地上に降りたことはあるが、一人で来たのは初めてだ。
 人の気配は近くにないようだ。
 藤原の姿もなさそうだ。やはりさっき来る前に見たと思ったのは、気のせいだったのか――
 帰れなくなったらどうしようという不安が強くなり、泣きそうになってくる。ちょっと後悔した。
 どちらに進んでいいかもわからないので、何か手がかりはないかと、華耶は樹に登ってみることにした。袴の丈が短いので見えてしまう。
 今日のパンツは何色だっけ……。
 白か。大丈夫。誰も見てない。
 たまに下を気にしながら華耶は登って行った。
 すると木々の間から何か建物のようなものが見えた。
 よく見えないのでもっと上に行くと、お寺の塔だということがわかった。
 助かった――
 これで最悪でも天上界に助けを求めることはできるだろう。
 と華耶は、ほっと胸を撫で下ろした。

 三十分ほど木々の中を勘を頼りに歩き、たまに木の上に登って方角を確かめては、華耶はお寺を目指して進んでいった。
 人里離れた山奥のようで途中、誰とも会わなかった。
 廃寺まではいかないものの、寂れていて少し悲しい気持ちになったが、今の華耶にとっては都合が良かった。
 人間に近い姿をしているので大丈夫だと思うが、お寺の住職に見つからないよう忍び足で小さな境内を歩く。
 何の仏像を祀ってあるんだろう?
 さらに奥に行くと、顔の怖い明王様の像が現れた。
 華耶は恐る恐る話しかけ、その後三十分ぐらい話し込んだ。
 葵達の資料は読んできたが、さすがにどこに住んでいたかまでは記憶していない。
 お地蔵様の行方を尋ねると親切に教えてくれて、さらに人間から姿を見えなくしてもらった。
 しかし勝手に天上界を抜けてきたことを見抜かれてしまい、すごく怒られた。
 ただ最後には優しく送り出してくれて、華耶は彼女達の住むアパートへと向かったのだった。

 二階建てアパートの一階の角。
 そこが葵達の住んでいたところだった。表札に名前はない。
 だが中からは女性の声がする。外からだと何を言っているのかよく聞き取れなかった。
 扉の鍵はもちろん閉まっていて、そっとドアノブを掴んで回して押したり引いたりしてみたが、案の定開かなかった。
 壊そうと思えば、水棹を構えて技を繰り出せば壊せるのだが――
 できれば騒ぎは起こしたくない。
 諦めて、別の出入り口はないかと探してみる。
 玄関の横はお風呂場のようで、換気の為にやや高い位置に小さめの窓があった。
 大人の人間は無理だが、華耶ぐらいなら開いていれば、なんとか出入りできそうだ。
 ただ水棹で突いてみたが、残念ながら鍵がかかっていた。
 次いで小さなベランダのある方に回ったが、大きな窓にはカーテンがかかっていた。こちらも中の様子はわからない。
 窓が開くかどうか確かめようかなと思いながら、もう一度周囲を回ろうと引き返してベランダを曲がると、お風呂場の窓が開くと同時に、格子越しにお地蔵様の無表情な顔がぬっと現れた。
 華耶はうわっ、とびっくりして声を出しそうになる。
 お地蔵様は格子を難なく外して、錫杖を彼女に向って伸ばした。
 華耶はそれに捕まって引っ張り上げられた後、窓に身体を突っ込み、お地蔵様が窓の内側から手を貸して、抱き抱えられ静かにバスタブの中に降りた。
 お地蔵様は窓を閉めて格子をはめて元に戻すと、お風呂場の扉を開けて出ていった。脱衣所で一度華耶の方をちらりと振り返る。ついてこいということだろう。
 廊下を少し歩くと六畳ほどの畳が敷き詰められた部屋があった。仏壇が置かれていて、一人の女性がその前でしゃがんで手を合わせている。二十代後半から三十代前半ぐらいだろう。ただ髪はよれよれのボサボサで、化粧も全くしておらず、表情は疲れているように見える。服装もよれよれのシャツに、ジーパンというラフな格好だった。
 仏壇には位牌と二人の子供の写真があった。葵と姉の遥だろうが、まだ二人とも幼く、小一と幼稚園のぐらいの年齢に見える。
そして花も飾られていなければ、お菓子のお供えも無かった。
 お地蔵様の姿も女性からは見えないのだろう。フローリングの床を足音を立てずに進み、リビングへ。ダイニングと繋がっていて、ダイニングテーブルの他、テレビやソファなどの家具が置いてあるが、姉妹の姿が無い。
 あれ? なんでだろうと思っていると、お地蔵様がダイニングテーブルの裏に回り、しゃがんで中を見たので、華耶も同じようにした。
 すると二人の姉妹が、互いを守るように身を寄せ合っていた。彼女達は華耶に気付き、びくっと身を竦ませる。ほどなく葵は安堵の表情を浮かべた後、「お姉ちゃん大丈夫だよ」と、小声で安心させるように言った。
 だが姉の表情は硬く、目は怯え唇は震えている。母と同じくぼさぼさの長い髪は、だらんとピンクのシャツの上にかかり、スカートは白だが、ごみや大きな埃がついていて汚れていた。背格好からして小学三年生ぐらいだろう。
 その小さな体の半分ほどが黒い靄、瘴気に包まれていた。
 このままでは――、彼女は魔に憑りつかれてしまう
 と華耶は思った。早く二人を連れて天上界に戻り清めないと危ない。
 葵の方は無事のようだ。普通なら瘴気が移っていてもおかしくないのだが、お地蔵様が守っているのだろう。
「遥ー、葵?」
 二人を呼ぶ声がして、スリッパを履いた女性の足音がする。テーブルを挟んで華耶達と反対の所で脚が止まり、しゃがんで姉妹を発見した。目がぎろりと動く。
 葵が震えだし、姉の遥がきつく彼女の体を抱きしめる。
「そんなところにいたのー。もう、ダメじゃない」
 優しい口調で話しかけながら手をゆっくりと伸ばす。しかし姉妹が拒絶していると、いきなり姉の体を捕まえて、腕を掴んで乱暴にテーブルの下から引っ張り出す。子供の頭が椅子などにぶつかるがおかまいなしだ。
「せっかくお祈りしたのに、どうしてまだいるの? ダメじゃない。こんなところで遊んでたら。悪い子ね」
 女性は立ち上がると遥をずるずると引きずっていく。葵がテーブルの下から出て、「お姉ちゃんを離せ」と力なく叫んで抵抗を試みるも、蹴られて苦悶の声を漏らしお腹を抱えて倒れた。
 華耶は最初何が起こったかわからず呆然としていたが、慌てて二人の後を追った。遥かも気になるが、大丈夫? と言って床に倒れている葵に寄り添う。泣いてはいないが苦しいようで返事は無かった。
 女性は台所でガス給湯器のボタンを押すと熱くなる前から、遥の髪を掴んでシンクの上に引き上げる。遥はバタバタともがいていたが、ほどなく耳を覆いたくなるような悲鳴が上がる。湯気が立ち上っていた。
「あんた達、死んだんじゃなかったの。せっかくいなくなったと思ったのに、帰ってくるなんてどういうこと? 何しに来たの。」
 水の跳ねる音が続く。遥の体から流れ出る瘴気が一層濃くなったような気がした。
 さらに女性は殴る蹴ると暴行を加える。葵が走っていき、「ママやめて!」と泣きながら姉の上に覆い被さろうとした。
 なんだ、この光景は―― 
 人間も悪魔も変わらないじゃないか。私にはどちらが悪魔かわからない……。
 華耶は、その場に蹲り、耳を塞ぎながら小さくなって震えていた。いつまでこれを見ていなければいけないのか。
 だが下手に人間界のことに干渉すれば、私も魔に落ちる……。
 お地蔵様もただ立っているだけだ。
 虐待がいよいよ酷くなり、恐怖で華耶は、女性に手を出そうと近づいた。
 だがお地蔵様が首を横に振りそれを止めた。

「逃げよう」 
「ダメ……。お父さん来るから」
 妹の呼びかけに憔悴しきった顔で遥が答える。畳の上で体を壁に預けて、ぐだっとしていた。頬や手足に痣がある。
「その前にお姉ちゃんが――」
 妹が泣き出しても、彼女のここを離れたくないという意志だけは、変わらなかった。
「一か月前お父さんから手紙が来た。来月行くって。その後、何通か来てた。お母さんがいないとき、全部読んだわけじゃないんだけど、漢字もいっぱい書いてあったけど、来る日も決まってるみたいだった。でも、どこを探しても見つからない」
「私達死んじゃってるんだよ。それを知ったら、もう来ないかもしれないじゃん」
 華耶は、お地蔵様に手紙のことを尋ねたが、ふるふると首を横に振った。
 瘴気に侵されていなければ、多少手荒にはなるが気絶させるなり何なりして、お地蔵様におぶってもらったり、三人で抱えるなりして運べるのだろうが、もっと穢れを払わないとできない。
 天上界に戻り彼女達の父のことまで調べて、また戻ってくるという手もあるが、無断でこちらに来ているので、それを咎められ再度人間界に降りられないかもしれないし、ぐずぐずしていたら間に合わなくなるだろう。
 母が出かけている今がチャンスだ。
 なんとか説得しなくては――
「遥ちゃん、賽の河原に戻ってそこでお父さんを待とう。いつ来るかわかんないんでしょ。そうだ! お葬式の名簿が無いか、天上界に戻って、またこっちに来て私が探すから」
「向こうで何年、何十年と待っていても、お父さんが死んでから見つけにきてくれるかわからないし、幸せに仲良くできるかもわからない。顔も、もう良く覚えてないし、葵は顔すら知らない」
「遥ちゃんがわからなくても、お父さんは見つける」
「あと何年待てばいい。何でお父さんは出て行ったの? なんでもっと早く会いに来てくれなかったの? 何年、何十年も先に、聞きたくない。今知りたい。聞いてきて」
 遥は泣き出した。姉の泣く姿を初めて見たというように葵ちゃんの方がびっくりしている。どう慰めていいかわからないようだ。
 長い間、誰も頼れず甘えられず、妹のことを考えてきたのだろう。その気持ちが自分では抑えきれなくなって、魔にそそのかされて思わず賽の河原を脱獄してしまった――
 だがもう取り返しがつかないかもしれない。
 華耶は、思わず遥をぎゅっと抱きしめた。
 しかしそれも束の間。
 ガチャリと、玄関の鍵が開く音がした。

 遥と葵のところにいても出来ることは何もなく、その場にいて彼女達に振るわれる暴力を見ることも正直に言って耐えられそうにないので、お地蔵様に後を任せて華耶は部屋を抜け出してきた。
 幸い母親は帰ってきてから彼女達を無視し続けている。
 子供が帰ってきて嬉しくないのか――
 葵も遥も、母に会えたというのに、ちっとも嬉しそうにしていない
 誰も幸せそうにみえない。
 私、何しに来たんだろう。何もできない。
 午後のうららかな陽気と穏やかな風が吹いていたが、華耶はもやもやしていた。
ため息をつき、ぼーっとしながら近くに寺や神社はないか、さまよっていると、路地の奥から黒い霧のようなものが一筋、すーっと煙のように漂っていた。
 遥のものよりは薄いが、間違いない瘴気だ。
 近くに魔がいるのか!?
 警戒しながら路地を進んでいくと、小さな公園が見えてきた。
 電柱の陰に身を隠しながら瘴気の出所を探ると、ベンチにいたのは魔ではなく、一人寂しそうに座っている紫乃だった。
「なに豆粒みたいに小さくなってるの」
 華耶は、ゆっくりと近づいて行った。相手は彼女に気づき、驚いた様子でやや身構る。目の前で立ち止まると、頭、首、肩と舐めるように見回し、しゃがんでいきなり袴の裾を下着が見えるぐらいまでぐいっと持ち上げた。
 薄い紫色のパンツがちらっと見えたが、紫乃が小さく悲鳴を上げて、反射的に手で押さえる。いつも冷静沈着なのだが珍しく動揺して顔が赤い。
 華耶は、彼女の太ももを掴んだ。外側の一部が、かさぶたでできた傷のように、瘴気で黒くなっている。 
「どうしたの? 早く手当しないと!」
「これぐらいなら、お寺か神社で2~3日ゆっくりしてれば治る」 
 紫乃はぶっきらぼうな口調で、家紋入りの立派な印籠を懐から取り出し中を開いて、薬が入っていることを見せた。 
「それ人間にも効く?」
「残念ながら私達、精霊にしかきかない。藤の花を煎じたもの。あなたには効くかも」
「吐くわ。私にとっては毒と変わらない」
 華耶がベンチの隣に座り本当に嫌そうな顔をするので、紫乃は袴を直しながらくすっと笑った。
「魔を追ってきたの、それともあの姉妹?」
 やや警戒した口調で尋ねると、
「両方。先に姉妹の行方を探そうと思ったんだけど、お地蔵様に嫌われちゃったみたいで、二人の居所を聞こうとお寺に行ったけど断られて、途中魔にも出くわしたけどあと一歩のところで反撃されて逃がしちゃうし」
 ちょっと気落ちした様子だった。
「もしかして落ち込んでる?」
「ちょっとね。ウロウロして探し回るの疲れちゃった……。仕事する気しないわ」
 紫乃が懐から小さく折り畳んだ書類を広げて渡す。姉妹の住所や親戚などの住所が書かれていた。父親の情報も書いてあったが、すぐには飛びつかなかった。
「優等生でも、さぼりたくなることあるのね」
「人間の子供なら、あたし達ぐらいの年齢なら、みんな遊んでるじゃない。あんたこそ何やってるの、こんなとこで」
 うっ……と、華耶が声を詰まらせる。
「どうやって来たのか知らないけど、どうせ無断でこっちに来たんでしょ。帰ったら暗い蔵の中に閉じ込められて、先生に棒でお尻ぶたれて折檻されるわよ」
 観念して正直に話すことにした。賽の河原で鬼に聞き込みをしたり、黄泉平坂まで何か手掛かりはないか辿ったこと。岩の穴に隙間があり、中に入ったこと。アパートに行き、お地蔵様や姉妹を見つけたこと。彼女達の母親のこと。遥が父を探していること。
 紫乃は黙って彼女の説明に、しばらくうんうんと耳を傾けていた。そして――
「神も万能ではない。善人に救済が間に合わないこともあれば、悪人が逃げおおせることもある」
 今まで彼女のことは信心深いと思ったいたので、華耶は少々面食らった。
「世間的には虐待が原因の死だと思われていないみたい。母親は外面が良く、子供達は外傷が無かった。遊んでいた際の事故として警察は片づけた。新聞、ニュース等では報じられていないけど、閻魔帳によればご飯をあげないなどの育児放棄(ネグレクト)を始め、「大嫌い」「死ね」「生まなけりゃよかった」「かわいくない」などの言葉を日常的に姉妹に浴びせていた。彼女達の心は壊れていき、妹を必死に守っていた姉は精神不安定になり、逃げ場を探して押入れに入ったりするようになった。もちろんたまに泣いたりしたみたいだけど、そんなに周辺の住民は気に留めなかったみたい。すごい悲鳴とかはなく、しくしく泣いていたみたいだから」
「さっき私が見たのは、もっとすごかったけど、髪の毛掴んで――」
「死んだはずの人間が生き返ったと思って、今までは無関心だったけど、ヒステリックになってエスカレートしたのかもね。姉の方はまだ持つの?」
 どう答えるべきか迷った。彼女の言う最悪の事態になるかもしれないが、まだ諦めたくは無い――
「魔にはなっていない。私が止める。あの子の目は死んでいない」
「ふーん……。魔は新たな魔を呼ぶ。妹が魔になったり、他のもっと強大な言葉を操る上位の魔が来ないか、あたしはここらで警戒してる。まあ、お地蔵様がいるから大丈夫だと思うけど、なんかあったら呼んで」
「一緒にお寺行って頼んであげようか?」
「いい。断られたら神社で休ませてもらうから」
 それから華耶は、早く行けという紫乃と別れ、病院へと向かった。

 遥と葵の両親が離婚した時、父は不況で仕事を失い無職だった。彼は泣く泣く親権を諦めた。 
 それから五年ほどが経ち、ある日母は交際相手の男性と喧嘩になり、いつになく機嫌が悪く、姉妹はいつもの隠れ場所から引きずり出されそうになった。母親が仕事で外出した後、それから逃れるため、より安全そうな隠れ場所を求めて、自ら古いドラム缶式の洗濯機に入ったことが、小さな命を奪う事故に繋がった。 
 これを彼女達の父は知らずに、ただ幼いうちに死んだと思っていて、すごく悲しんでいる。親を悲しませるのは罪が重い。
 伝えるべきか――。
 だが真実を知り、もし強い憎しみの心が芽生えれば、魔の格好の餌食となるかもしれない。それを狙い近くに潜んでいる危険すらある。
 姉妹の暮らしていたアパートから、父のいる田舎の病院がある駅まで、電車で片道約三時間。華耶には、その移動がとても大変だった。
 行き先の違う電車に乗ってしまったり、遅れを取り戻そうと、乗り継ぎの駅で駆け込み乗車をしたらドアの隙間に挟まれ、降りようと思ったら今度は扉が自動で開かなかったり、ボタンを押すということがわからなかったので、次の駅まで行って戻ってきたこともあった。
 その間、ずっと別れ際に紫乃からもらった、便せんに目を通していた。
 誰が調べたのか知らないが、情報自体は姉妹が死亡した頃で、そして良くない状況が書いてあった。
 彼女達の父は現在、大病を患っていて、余命僅かとの宣告を受けている。成功率の低い難しい手術を受けるか否か、選択を迫られている。
 おそらく手紙を送ったのは、その前に一目、娘達に会っておこうと願って送ったのだろう。
 姉妹にもこれを伝えるべきか、まだ迷っていた。

 遥達の父の名がプレートに書いてある個室に入ったが、誰もいなかった。
 検査か、もしくは天気も良いし、屋上や敷地内の散歩でもしているのだろうか――
 ベッドの上の掛布団は半分ほどめくれていて、シーツには皺が寄っている。
 窓際にある小さな椅子には、着替えが置かれていた。
 テレビが載っている棚の脇には、卓上カレンダーが置かれていて、赤いマジックで大きな丸が付けられている箇所があった。青いボールペンで姉妹二人の名前が書き込んである。明日の日付だった。

 窓の外から夕日が差し込み、遥と葵の父が一向に帰ってこないので、華耶はどこに行ったんだろうと思って退屈しのぎに、病院内を散策することにした。
 面会の時間も終わり、見舞いに来た家族などが次々と帰っていく。診察を待っている外来患者もほぼいなくなり、混雑していた通路はスムーズに通れるようになった。
 ナースステーション付近を歩いていた時、看護師達が慌ただしく走り回り、口にしている言葉が華耶の耳に入った。
 誰か病院から抜け出していなくなったようだ。
「外出許可を申請していたけど降りなかった。どこに行ったかまではわからない」
「娘がいるとは聞いていたが見たこと無いし、どこにいるかもわからない」
 最初は他人事だと思っていた華耶だったが、会話が聞こえてくるたびに、まさかという思いが確信へと変わっていった。
 遥と葵の父親だ。間違いない。
 まだ近くにいるだろうか?
 華耶は急いで外に出て――、ちょっと困ったことに気が付き、立ち止まった。
 人相書きはあるが、もちろん会ったことは無い。背格好やどんな雰囲気の人なのかもわからない。果たして目の前に現れたとしても、本人と気づくだろうか――。
 いささか自信が無いのだが迷っている暇はないし、じっとしていられるタイプでもない。とにかく気になるところに行ってみることにした。
 駅や入院する前の自宅に行ってみたが留守のようで、病院の近くに八幡宮を見つけ、そこの神使である鳩達に、姉妹の父の行方を探してくれるよう頼んだ。
 もちろん彼女自身も当てもなく歩いてみたが、もうすっかり暗くなってしまった。
 二時間ほど歩き回って病院へと戻ってきたが、まだ父は見つかっていないようだった。
 彼女は少し休んでから、再び町の中をウロウロし始めた。
 途中、大黒天様を祀ってあるお寺を見つけて、そこの神使であるネズミ達にも、見つけたら知らせてくれるよう頼んでおいた。
 これで夜でも広範囲が捜索の対象となるだろう。
 しかし深夜零時を過ぎても、一向に良い情報はもたらされず、深夜二時頃を回っても同じだったので、その日はもう疲れたし仕方なく諦めた。
 既にこの地域から離れ、電車や車などの乗り物に乗り、長距離を移動してしまったのかもしれない。
 華耶は病院に戻り個室で少し眠ってから、始発で遥達姉妹の元に戻ることにした。

 ウガアアアアア
 遥が全身から大量の瘴気を発しながら、怒り狂った唸り声を上げ、突如母親に飛び掛かった。相手は不意を突かれたようで、そのまま二人は床の上にドサッと倒れ込む。 
 遥は喉を両腕で力いっぱい締め、腕に噛みついた。くぐもった悲鳴が上がる。
まるで獣のようだ。瘴気は昨日よりも一層濃くなり、力も強くなっている。
 地蔵が錫杖を振り上げ後ろから襲い掛かり、遥をその場から離れさせた。
 華耶は母親に近寄り様子を確かめる。 
 首に絞められた痕があり、腕から血は出ているが、胸は動いていた。 
 気を失ったのだろう。
「お姉ちゃん! やめて!!」 
 葵の悲鳴。
 しまった――
 振り返ると、葵が妹に襲い掛かろうとしていた。お地蔵様が必死に食い止めている。パキッと音が鳴り、錫杖に小さなひびが入った。
 遥の身体が、やや大きくなっているようだ。
 華耶は慌てて走って行き、葵を抱きしめて姉から遠ざけた。彼女は震えている。安心させようと何度も両手で撫でた。
 遅い。もう夕方だ。とっくに着いていてもいい頃なのだが――
 藤原に頼んでもっと探してもらおうか。
 父の姿は、未だに無かった。
 墓参りにでも行ったのか。それとも、こちらには来ないのか。
 病院に戻ったのなら、鳩が報せを運んでくることになっているが、それも無い。
 来るのか、来ないのか。
 いやきっとくる。早く来て!!
「葵ちゃん。なんでもいいからお姉ちゃんに話しかけて。できれば楽しかった思い出とかがいいけど――」
 この土壇場で小学一年生の女の子にできるだろうかと思ったが、華耶はしゃがんで、未だ腕の中で震えている相手に、ゆっくりと重要なことを伝えるように言った。
 葵はしばらく泣きじゃくっていたが、次第に泣き止み、鼻水をぐずぐずいわせながらわかったと小さく頷いた。
 恐る恐る、姉の方に歩いていく。
「お姉ちゃん、今日誕生日だよね。おめでとう」
 遥は相変わらず地蔵と対峙していた。錫杖を掴み、奪おうとしている。
 葵は何を思いついたのか突然歌い始めた。
 Happy birthday to you,
 最初、華耶は予想外の展開に頭がついていかなかったが、最後の方になって、調子を合わせて一緒に歌った。
 ウガアアアア、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ
 遥の口から声が漏れる。
 ダメか? いや効いている。
 攻撃は止んでいる。遥は、ゆっくりとお地蔵様から手を離した。
 今のうちに本当は退治しておかなければならない。
 魔に取り込まれた者を。 
 しかし昨日のことを話せば、少しは正気を保っていられるかもしれない。
 華耶は、父が今ここに向かっているだろうということを遥に向って話した。
「お姉ちゃん、お父さん会いに来るって!」
 嬉しそうな葵の声。子供らしい無邪気な笑みを浮かべていた。
「お父さん来たら何する?」
 遥の身体からは、禍々しいほどの瘴気が猛烈な勢いで発せられていた。今までの恨み、憎しみなどの怨念が、全て噴出しているかのようだ。
 魔の力に耐えられなくなったのだろう。彼女は突然、床に音を立てて倒れた。
「お姉ちゃん!」
「触っちゃダメ!!」
 姉の傍に寄り添おうとする葵を、華耶は厳しく制する。なんで? という顔を一瞬向けられたが、それ以上聞いてはこなかった。普通じゃないことぐらい彼女にもわかるようだ。
 葵は、ギリギリまで顔を近づけた。
 遥がゆっくりと口を開く。 
「普通の暮らしで良かった。B BQ、川での水遊び。車でドライブ。授業参観。賽の河原の他の子達の話を聞くたびに羨ましいと思った」
「次生まれ変わるときも一緒だよ、お姉ちゃん。約束だからね」
 お地蔵様が華耶の前まで来て、彼女の手を取った。彼女が首を傾げていると、お地蔵様の姿が消え、数珠に変わった。
 手にした数珠の意味を理解して、華耶はしばらくその場を動けなかった。やがて自分を納得させるように何度も頷く。
 葵達もびっくりしてその様子を見ていた。
 遥が目を伏せ、ぼそりと呟く。
「お父さんにこんな姿みせれないな」
「何言ってるの!? 頑張って、お姉ちゃん! その為にここまで来たんでしょう」
「いつまで待てばいいのか、わかっただけでも救いがある。……ああ、お父さん、どうか悲しまないで。葵の石積みが終わらない」
 遥は妹に向かって手を伸ばそうとしたが、力がなく上げられないようだ。
「お姉ちゃん帰ろう。二人で幸せになろう」
「みんなでケーキ食べたかったな」
「ごめんね。何のプレゼントも用意してなくて……。そうだ! 私絵描くね。ケーキのおっきいやつ。待ってて!」
 葵は姉の元を離れ、廊下の奥の部屋に消えた。
 華耶は遥に顔を向けられ、目があった。
「妹にこれ以上迷惑かけたくない」
「……」
 何を言い出すんだろうと思ったが、すぐに意味を理解した。
「無事に連れて帰るって約束して」
「――わかった。約束する」
 彼女は微笑んでいるように見えた。体は小さいが立派な保護者だ。
 ほどなく葵が戻ってきて、どこから見つけてきたのか画用紙と色鉛筆を床に置き、描き始める。
 遥がそっと目を閉じた。
 華耶は近づき、数珠を彼女の首を持ち上げて掛ける。遥が苦悶の表情を浮かべ、痛みに耐える声をあげた。
「何してるの!?」
 葵がそれに気づいて叫んだ。華耶に掴みかかるようにして泣きつく。
「お願い、お姉ちゃんを助けて。お地蔵様はどうしたの? なんでいないの?」
 華耶は彼女の問いには答えず無言で佇んでいた。
 彼女に恨まれようとも姉との約束を果たす。泣かれようが喚かれようが、引きずってでも連れて帰る。罵られようが何を言われようが聞き流す。
 そう心に決め、甘い言葉や期待を持たせるような言動はもう一切せず、仕事だと割り切ろうとした。 
 数珠を握りしめる手に力が入る。
 そして目の前の出来事からわざと目を背けるように、自分のことを考えた。
 これからもこんな仕事ばかりだったらどうしよう。続けていけるだろうか。
 嫌だなあ……
「どうして黙ってるの。もうちょっとでお父さんも来る! それを邪魔するの!? あなた達もお母さんと同じだ! 鬼! 悪魔! みんな大っ嫌い!」
「だめよ葵、……天使さん、困ってるじゃない。」
姉からたしなめられるとは思っていなかったらしく、葵は「でも……」「なんで……」と繰り返しながらぐずっていた。
「お姉ちゃんが自分で決めたの。悪魔の手先よりはマシ。それに葵とお父さん襲ったら困るし」
 遥かはそっと葵に手を差し出した。体が半分消えている。葵はそれを握った。
「ケーキ出来た?」
 遠くを見ながら呟く。
「――待って、今すぐ作るから」
 ハッとした葵は、再び床に置かれたままの描きかけの画用紙に向かって、色鉛筆で塗り始める。
だが完成を見ることなく、遥の躰は黒い光の塵となり消えた。
 華耶も葵も言葉も涙も出ずしばらくその場に佇んでいたが、やがて静寂を破る女の声が響き渡った。
「消えたの。あっはっはっはっは。やった。いなくなった」
 気を失っていた母親がゆっくりと体を起こしたところだった。
「あんたも早く消えなさい。お姉ちゃんどっか行っちゃうわよ。見つけられなくて独りになっちゃうわ。あっはっはっはっは」
 愉快そうな表情で、まるで酒を飲んで酔払っているみたいだ。
 正直、二人とも母親の存在など忘れていた。
 華耶は握りこぶしを震わせて唇と強く噛みしめて我慢していた
 一発ぐらい殴っても罰当たらないかな――
 華耶がそう思った瞬間――
 玄関のチャイムの鳴る音がした。

 あの後、華耶達は、葵を連れて無事に賽の河原へと戻り、鬼へと身柄を引き渡した。
 勝手に地上に行ったことをすごい怒られたが、意外にも紫乃が結構庇ってくれた。
 結局、二人の手柄ということになって、「よくやった。でも危ないから今後は気を付けるように――」で済み、正直ほっとした。
 紫乃は、功績を少し持っていかれたのがやや気に食わなかったようで、「貸しだからね!」と大きな声で宣言してきた。
 華耶は苦笑しつつ、はいはいと答えてから、
「ありがとう」
 と言うと、彼女は顔を真っ赤にしていた。
 色々と厄介な問題からようやく解放された頃には既に三日ほどが過ぎていて、疲れていたがその間ずっとある事が気になっていたので賽の河原へ様子を見に行った。本人には会わずに遠くから見ただけだが、葵は元気なようだ。鬼に積み石を壊されているが、新しく来た子の面倒をみたりもしていた。
 そして今、草むらの生い茂った小道の真ん中で、華耶は一人佇んでいた。
 通い慣れた道だが、そこにいつも見守ってくれている地蔵の姿は無かった。
 華耶はお地蔵様があった場所にしゃがみ込み、目をつぶり、そっと両手を合わせた。


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