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自由は自由でも、愛情や友情や感謝を伴う自由こそが素敵だと気付いた

少し昔の話をしたい。

僕が大学生のときだ。余りある時間をどう過ごしたらいいか分からなくて酒ばかり飲んでいた時期があった。奨学金をもらいつつだが、学費と一定の生活費を親が出してくれて正直気軽に過ごせていた。ただ、ボーっと過ごしていたことに対する後悔のような気持ちがあったのは確かで、あるとき親に正直に「今までの大学生活無駄だったわ」みたいな話をしたら、ひどく怒られた。ひどく悲しい目をしていた。

なんでこんな話をするかというと、僕らが目指す自由ってなんだろう、ということを考えてみたいからだ。

世界の多くの親が、子供のためならば時間を惜しまずに物心両面で応援するだろう。親族とか家族とは関係がないところでも、多くの寄付や奨学金のようなものがこの世に存在している。今時なら、クラウドファンディングとかギフティングなんかもその類だ。こういう応援の先にあるのは、応援される側への期待の表れとかその熱量に対してである。

でももし応援される側が与えられた応援の意を汲まずに、ボーっと過ごしていたらどうだろうか。やっぱり微妙な気分になるじゃなかろうか。冒頭で話したうちの親のように。

応援という行為には、自らの時間や自由の一部を差し出すという意味合いがあると思う。だから、その一部を大切に使ってほしいと思うのは自然なことだ。

前回の投稿で、僕らはもっと自由になるって書いたけど、その「自由」は、やっぱり多くの人から支持されるものであったら素敵だと思う。誰かが誰かに渡したくなるような自由。怠惰や卑屈や驕りから生じる自由ではなくて、愛情や友情や感謝の発露の結果として生じる自由。

もっと自由になった未来で僕らを待っている世界は、そういうものでありたいと考えている。

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