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01強くなりますように(前編)| あまのじゃくな神様は|

01「強くなりますように」(前編)

横浜の片隅に「願い事が叶わない」で有名な神社がある。合格祈願、商売繁盛、良縁を願っても全くといっていいほど思うようにならない。そんなことがまことしやかに囁かれる神社。

朱色に塗られた鳥居。木々に囲まれた短い参道の奥、手水舎の先に拝殿がある。天井にぶら下がった鈴には紅白の紐が結び付けられ、格子状の扉からは少しだけ中が見える。小さな拝殿の中は鏡が置かれていて、薄く光を放っている。身をかがめてそれを覗いてみても、そこに映るのは自分の姿ではない。それは、見ている人のふりをした神様。

そうやって神様は、参拝に来た人を、相手に気づかれることなく、じっくりとご覧になっている。深く優しい眼差しだ。今日もまた、うわさを知らずに『あまの神社』にお願いごとをしに来た人がいる。


⛩ amano-jack

園田タケルは小学四年生だ。
学校帰りのため、背中にはランドセルを背負っている。緑と茶色のチェックの長袖シャツ。ボタンはかけていないので、内側に白いシャツが見える。グレイのハーフパンツで、軽く肘を曲げ腕をふり、やや前傾姿勢で歩いている。さらさらとした髪を一度強い風が揺らすが、歩みは止まらない。タッ、タッ、と足を前に出している。桜はすっかり散り終わっている。参道脇の木々は、新緑の緑と夕日とが混ざり合いながらキラキラと光を放っていた。タケルは手水舎で何となく手を洗い、拝殿の前に立つ。ポケットから取り出した小銭を賽銭箱に投げ入れ、鈴を鳴らし、手をあわせた。白くて細い腕だ。「最弱男子」「ホワイトポッキー」「ティッシュペーパー」などという言葉がタケルの脳裏に思い出される。3年生の後半からの歓迎したくない「ニックネーム」。強く目をつむり願いを込める。

「神様、どうか僕に強さをお与えください」

タケルは色白で、痩せていて、体力がない。最後の「ティッシュペーパー」というのは、クラスメイトの勘介が「ティッシュみたい」とタケルを喩えたのがきっかけだ。今、学校でからかわれバカにされている。それが悔しく、強くなりたい、と決意をし、もっぱらトレーニングに励んでいる最中だ。腕立て伏せや、シャドーボクシングをしている。が、今のところ腕立て伏せは3回しか出来ないし(浅い腕立て伏せなら10回は出来るが)、シャドーボクシングでは「シュッ、シュッ」という言葉と腕のタイミングがずれてしまう。学校ではもちろん暴力は禁止されている。加えて痛いのは苦手だ。しかしそれでも、強くなりたい。タケルはそう願った。

鏡の中、タケルをのぞいていた神様は、 にっこりと笑い、ゆっくりと頷いた。そして鏡の中からすっと抜け出す。それにタケルは気づかない。神様の姿は空気に溶け込むように消えていく。タケルが顔を上げると、ふわっとした心地の良い風が包み込み、ほんのりと良い香りを残して抜けていった。

『あまの神社』の存在に気がついたのは昨日だった。こんなところに神社があったのか、と驚いた。これまで何度も近くを通っているはずなのに、今まで気づかなかったのが不思議だった。掃き清められた境内は神聖な雰囲気が漂っている。くるりを踵を返し、出口へと向かうタケルの左斜前方に、夕日に照らされた自分の影が伸びる。タケルは鳥居を出るときに一度振返り、西日に目を細めながら、軽く頭を下げた。


⛩ amano-jack


次の日、四時間目に体育の授業があった。
グランドに出た後で、タケルは授業で使う縄跳びを忘れてきたことに気づき、慌てて教室へと戻ってきた。男子の教室は着替えの時にもカーテンは閉まっていない。明るい室内には当然、誰もいなかった。ドアを勢いよく開けたタケルは、最後列の窓側の自分の席へと小走りに向かった。始業のチャイムが鳴るまであと数分というところだった。ランドセルの中から急いで縄跳びを取り出す。そのときに勢いあまって、縄跳びの柄の部分が窓にぶつけてしまった。
ピシッ。
予想外の音が耳に入る。ギクリとしたタケルは、一瞬何が起こったのかわからなかった。が、見ると窓にヒビが入っている。

「えっ…?」
時が止まった感じがした。タケルはしばらく窓に入ったヒビを見つめていた。
「うそ…?」
静かな教室に時計の秒針がカチカチと硬質な音を立てている。授業はもう始まろうとしていた。廊下も静かになっている。
タケルの中で状況がリアルになってくるとともに、ドクン、ドクンという鼓動の動きが大きくなってきた。さーっと血の気が引くのがわかった。
タケルはまばたきをし、もう一度「え…?」と声に出してみた。ヒビの入った部分に、手を伸ばし指で触れてみる。つめ先で少し擦ってみるが、そのラインは剥がれ落ちるものではなかった。

「えっ…」ともう一度声に出した。
縄跳びの柄は固いと言えば固いが、窓を割るほどでは思えない。プラスティック素材だ。タケルは大きくなり始めた呼吸の中で、記憶の中の自分の行動を思い返した。「ヒビは初めから入ってなかったか?」そう思い、何度か縄跳びの柄を別の窓に当ててみる。カツン、カツンというだけで、とてもじゃないがヒビが入りそうな予感すらない。強めに当ててみても、ビクともしない。しかし、目の前の窓には明らかにヒビが入っている。タケルの縄跳びが当たった箇所から、だ。ピシッという音が耳の奥ににはっきりと残っている。タケルはゴクリと唾を飲み込んだ。
もう授業が始まってしまう。
タケルはゆっくりと後ずさるように教室を出た。荒くなった呼吸に肩を上下させながら、グランドへと向かった。タケルの背中を追うようにチャイムの音が聞こえた。

体育の後、教室では男子が着替える。女子は別の教室へと移動していた。
タケルはヒビの入った窓の近くに立ち着替えた。教室に入るとき、ヒビ割れがタケルの錯覚であったことを期待したが、確実にそれはあった。教室のカーテンが風で揺れていた。タケルは、カーテンをひっぱり隠そうか迷ったが、やめることにした。誰かが開けた時に気づきやすくなるのではないか、と思ったからだ。幸い、他の生徒はまだ気づいていないようだった。「意外と分からないのかもしれない」とタケルは思った。「そういえば…」とタケルはあることを思い出した。

体育の前、勘介たちがベランダで騒いでいた。
今も教室ではクラスメイトの佐野勘介が、男子数人とじゃれ合うように騒いでいる。勘介はサッカーをやっていてクラスでも一番目立つ、やんちゃな男の子だ。「最弱男子」も「ホワイトポッキー」も「ティッシュペーパー」も、タケルに対する揶揄は全て勘介から始まっていた。上級生が良く言っている「陽キャ」のリーダー。騒ぎすぎる、という理由でよく先生から注意されていた。
体育の前の休み時間、勘介たち数人の男子は体を寄せ合いながらベランダに出て騒いでいた。一人が何かを手に持っていて、勘介達がそれをつかみそれをとろうとしているようだった。「やめろよ」「見せろよ」などという感じで、目を三日月のように丸めながら、楽しそうにやりあっていた。時おり、勘介の体が窓に何度かぶつかった。勘介の洋服には金具ついていて、カツンカツンと音も立てていた。四年生の教室は校舎の二階にあって、途中、外から他の先生からも「騒がしいぞ」と注意されてもいた。その後、勘介たちは教室の中に戻ってきたのだった。
 
今も勘介たちは、騒いでいる。壁や机に体をぶつけながら、だ。着替え終わったタケルは教室を出た。すでに着替え終わった女子が数名、教室の外で待っていた。
「まだ?」とその一人がタケルに聞いてきた。
「もうちょっとだと思う。今、勘介たちが騒いでるけど…」
「早くして、って言ってくれない?給食の準備があるんだから」
「えー」とタケルが嫌そうな顔をする。
「ほんと、勘介たちちょーうるさい」
ふと、タケルの脳裏に黒い思いが湧いた。

「なんか壊すんじゃないかな」とタケルは言った。
ボソッと小さな声だった。
「え?」と女の子が聞き返してきた。
「あんなに騒いでたら、勘介たち何か壊すんじゃないかな。いろんなところに体をぶつけてるし。勘介の洋服には金具もついてるし」

そのまま給食の時間となった。
タケルの座席の斜め後ろに問題の窓がある。隣に座る生徒の位置を考え、ヒビが隠れるよう、体を位置を意識して座った。給食の時間も何もなく終わった。
「ひょっとしたら」とタケルは思った。
「このまま何もないように過ごせるかもしれない」
でもそれも束の間だった。昼休みに教室が騒然となった。

「あー」と大きな声が上がる。
タケルは心臓が飛び出そうなほど驚いた。
「窓にひびが入ってるーっ」
引き寄せられるように、生徒達がざわざわと集まってきた。
「ほんとだ」
「割れてる」
「誰?」
「誰が割ったの?」
「知らないよ」
「これ、弁償だよな?」
「弁償なの?」
タケルの心臓は大きく音を立てている。
「勘介じゃない?」
誰かが言った。
「は?ふざけんな」
勘介が言い返す。
「さっきぶつかってなかった?」
「俺じゃねーわ」
「じゃ、誰?」
「知らねーよ」
「休み時間も騒いでたじゃん」
「俺じゃねーって」
「先生にも怒られてたし」
「お前、いい加減にしろよ」
勘介の言葉に怒りがにじむ。
「そのうちなにか壊しそうだったもん」
さっきタケルが話をした女子だ。
「それに勘介くんの洋服、金具がついてるじゃん」

「とにかく誰か、先生に言いに行った方がいいよ」
生徒が一人、教室の外に出て行った。数分後に担任の先生がやってきた。


⛩ amano-jack


五時間目の後、クラス会があった。
「いつかこんなことがあるんじゃないか、と思ってたよ」
担任は、宮野という男の先生で、年齢は三十歳だ。もと高校球児だったというその先生は、身長が高く肩幅も広かった。何か問題が起こったときには、声のトーンを低くして、ゆっくりと話すことが多い。その日もそうだった。
「このクラスは騒ぎすぎなところがあったもんな。何度注意しても、教室で騒ぐことをやめなかった。それがこんな形になったんじゃないかな。もちろん窓を割ったのは君達じゃないかもしれない。でも、今朝は割れてなかったんだ。そうだよな?」
宮野先生の言葉に一人の女子が頷いた。朝、植物に水をあげるときにベランダに出たが、そのときに問題の窓は絶対に割れてなかった、と言った。
「もしこの中で自分が割った、という人がいたら正直に教えてほしい」

教室は普段にはない沈黙の時間が続いた。
ホームルームを終えた他のクラスの生徒達が教室の外を通り、興味津々といった顔でドアの窓から室内をのぞいていく。その空気に耐えかねたのか、少し咳き込む生徒もいた。
廊下が静かになると、グランドで遊んでいる子供の声や車の音が、どこか遠くに聞こえてきた。タケルは普段と同じように、先生の方を見て話を聞いていた。ただ、普段より背筋を伸び、つばを飲む回数も多い。割れた窓がタケルの後方にあるので、宮野先生とよく目が合った。シャツの位置を調整するフリをして力の入った首周りの筋肉を何度かほぐした。

宮野先生が、教壇から生徒達の机の間を通り、タケルの近くに移動してきた。教室の全員の視線が、宮野先生の動きを追っていった。タケルの背後に立ち、ひび割れの具合を再度確認している。タケルがゆっくりと顔を向けると、宮野先生と目が合った。ギクリとした。その音が聞こえたのではないか、と思ったほどだ。先生はしばらくタケルに目を向けたままでいたが、教室に顔を向け「本当に何か知っている人はいないか?何もなく窓が割れることはないだろう」と言った。そこでタケルはようやく息を吐き出すことができた。

「勘介じゃない?」という声が聞こえた。小さな声だ。
「お前、ふざけんなよ」
勘助が言い返す。
「でも今日休み時間にベランダで騒いでたじゃん…」
「は?俺じゃないわ」

「何か知ってるのか?」
宮野先生は勘介の方を見ていった。
「知りません」

「でも…」という別のクラスメイトの声が聞こえた。女の子の声で、普通のヴォリュームだ。
「給食の前、勘介くん達、ベランダで騒いでたじゃん」
勘介に言っているようで全体を意識した言い方だった。微かだがクラスの数名が頷く。
「でも俺じゃない」
「勘介くんの体がどんどん、ってぶつかってたよ。その時じゃない?」
勘介は目を見開いて
「そんなんで窓が割れる訳がないだろう」
と今度は強く言った。
「その金具、窓にぶつかってなかった?」
勘介の長袖のシャツの方の部分に、シルバーの丸い金具がいくつかついている。
「そんなの知らねーよ。俺じゃねーし」
「なんでそう言えんの?」
「なんで俺のせいなんだよ!」
「でも結構激しくぶつかってたぞ」
別の男子が言った。
「ふざけんな…」
勘介の顔はだんだん赤みを帯びてきた。
「俺じゃないって言ってるだろう!」

その後、しばらく同じような言い合いと沈黙が続いた。
帰りのホームルームが始まって、四十五分が経過していた。両隣の教室にも、同じフロアにももう生徒は誰も残っていない。窓からは黄色い日差しが差し込み、グランドで遊ぶ生徒達のキーの高い声は、だんだんと減ってきている。

「勘介じゃないとしたら、誰が割ったか、教えてくれないか?」
また沈黙が続いた。だんだんと「はぁー」とか「もう…」というため息がクラスの中で起こるようになってきた。
「この後、塾があるのに…。遅刻しちゃう。宿題もやらなきゃいけないのに」
「俺だってサッカーがあるんだよ。勘介が割ったんじゃないの?」
勘介は眉をひそめ、言った相手をするどく睨みつけた。
「先生」という女の子の声が聞こえた。
「まだ帰っちゃダメですか?塾の宿題があるんですけど」
宮野先生はしばらく考えて「ダメだ」と答えた。
女の子はハーッと息を付き、足を放り投げ、机の上に手を投げ出した。
いつ終わるともしれない話し合いで、クラスは緊張と疲れとイライラが充満していた。

「誰だよ…」と別の男の子が言った。
「勘介だよ、絶対…」
どこかから聞こえたその声の後で、「じゃぁ、俺でいいよ」と勘介は言った。
「俺が割ったでいいよ」
その声はどこか震えているようだった。
「でいい、ってなんだ?」と宮野先生は勘介を見た。
「そんなふうになっちゃダメだろ。みんなも勘介が違うって言ってるんだ。決めつけは良くない」
「いや、俺でいいです、先生。俺が割りました」
「それ本当なのか?」
「俺でいいです」
「でいい、はやめろ。本当かって聞いてるんだ」
宮野先生の言葉が強く重くなった。しかし勘介はひるまない。
「弁償ですか?」
勘介の顔を宮野先生は口を閉じて見ていた。二人の沈黙が20秒ほど続き、教室にピンと張りつめた緊張が走る。
「本当にお前が割ったのか…?」
「…俺が割ったでいいです」
「なんだそれは」
「俺もサッカーに行かなきゃいけないんです」
「それって、お前が割ったわけじゃないんだよな?」
宮野先生の言葉が少しだけ優しくなった。
「どうでもいいです、もう…」と言ったときに勘介の言葉が揺れて、詰まった。
「みっ…みんな俺って言うし…。サッカーもあるから。みんなの……迷惑にもなるし…うっ…」
そう言うと勘介は顔を真っ赤にして汗を流していた。右腕の袖で額の汗を拭うような仕草をしながら、目元もこすった。鼻をすすりあげ、Tシャツの袖で拭う。静寂の教室の中、必死に堪える勘介の嗚咽だけが漏れて聞こえる。しばらく誰も何も言えなかった。

その時、タケルは手を挙げた。
教室の空気が一気に揺れた。宮野先生もクラスメイトも全員がタケルの方を見た。
タケルは心臓が破裂するくらい胸が音を立てている。
ドクドクドクドクドク...
ただ宮野先生だけを見ていた。右手の肘を緩く曲げながら、体の斜め前に上げている。汗が止めどなく流れてきた。
「あ…ぼ…...ぼく…」
タケルは一度「ゴクリ」とツバを飲み込み、口を一度開けては閉じ、首と肩を動かした。胸が大きく上下して、目元が熱くなり、涙がこみ上げてきた。

「ぼ…...僕が……ゴクッ…僕が割りました…」



01 強くなりますように(後編)へとつづく。
こちらの作品は#cakesコンテスト2020に応募する作品となります。

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