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3 トシオさん

奄美大島へ越して来たのが2009年11月のことだから、11年半が過ぎたことになる。義父の介護のため、妻の実家住まいである。250世帯ほどの集落だ。
 
近所に当時で75歳くらいの男性がいた。仮にトシオさんと呼んでおこう。トシオさんはいつも集落内を歩き続けていた。目がつぶらで幼さすら感じさせる風貌に、夏はシャツと半ズボン、冬になると上着を着て、思索をするように痩身を前かがみに、後ろ手で歩いていた。足の状態がよくないのか摺り足気味で歩く。アスファルトの路面にちびたサンダルを擦り付ける音がするので、トシオさんが家の前を通るとすぐに分かった。年がら年中歩いているので顔も腕も南国の日に灼けて真っ黒だ。
 
奄美へ越して3年目に私は犬を飼い始め、散歩の最中によくトシオさんと顔を合わせることになった。挨拶をすると甲高い声で言葉とも言えぬ奇声を発する。こちらを一瞥してそのまま行ってしまうこともある。朝と夕の2回、犬を散歩に連れ出すため、多ければ1日に数度トシオさんと顔を合わせることもあった。都度、こちらは挨拶をする。それを繰り返すうちにトシオさんは私の挨拶に対してコクリと首を折って応えてくれるようになった。
 
2014年の年頭に義父が亡くなり告別式を済ませ、列席者の名前を確認するうちにトシオさんの名前を見つけた。ふだん挨拶もままならない様子からは意外に思われる出来事であった。後日、散歩の途中でトシオさんと擦れ違ったので私は立ち止まってあたらめて礼を述べた。その時トシオさんは突然、例の甲高い声で「あとでウチに遊びに来て」と言ったのだった。「一度遊びに」と言われれば社交辞令だが、「あとで」と言われれば具体的である。義母に話すと珍しそうに、男のヤモメ暮らしだからさぞかし掃除も行き届いていないだろうと言う。しかし義父の葬儀にも来てくれた人に対し、礼を尽くしたいとの思いから妻と二人で飲み物を持ってトシオさんのお宅へお伺いした。山小屋のような、小さな木造の一戸建てだ。庭に畑があってキレイに整備されている。招かれて家に上がると、意外な程に整理されて清潔感のある部屋だった。昔は塗装工をしていた、とトシオさんは言った。名瀬市街に弟夫婦が暮らしていること、庭の畑は自分ではなく弟夫婦が作っていることなどを話してくれた。今のところ体の調子は悪くないと言う。高齢者の独り暮らしを思って「体調が悪くなったり何かあったらウチに声をかけて下さい」と言って退去した。
 
それから数ヶ月を経た紫陽花の咲く頃、2〜3日トシオさんを見かけない日が続いた。家を覗きに行くと、やはり床に臥せっていたのだった。熱はないけれど咳が出て、さらに転倒して腰を打ち、起き上がるのが大変なのだと言う。ご飯は食べているのかと尋ねると、「大根と卵と海苔を食べた」と例の甲高い声も弱々しい。私は近くの商店で滋養の高いミキ(奄美大島に古くから伝わる、米とサツマイモを原料とした発酵飲料)を買って来て飲ませ、名瀬に住む弟さんに連絡を取った上でトシオさんを車に乗せて病院へ連れて行った。幸いトシオさんはすぐに元気になって再び集落内を歩き始めた。数年がたって80代半ばになっても、トシオさんは変わらず歩き続けていた。
 
再びトシオさんが姿を見せなくなっている事に、私はしばらく気づかずにいた。ある時妻から「トシオさん入院してるんだってよ」と聞かされて、そう言えば最近見てないな、と気づいたのだった。その秋口、弟さんが庭の畑を手入れしているのを見かけたので、「トシオさんはいかがですか?」と尋ねてみた。70代の弟さんは「いつぞやはお世話になりました」との礼のあと、「もう寝たきりで」と言って残りの言葉を切った。妻からトシオさんが亡くなったらしいと聞かされたのは、それから2か月ほど後の2020年の暮れの事だった。
 
奄美では集落の見晴らしの良い場所に墓地をつくる。だから私も犬の散歩の時には、見晴らしの良い墓地の横の道を通る。風景が開けているので墓の横を歩いていても何も気にならない。つい先日、5月28日の事だ。なぜかその時はひとつの墓石に目が留まった。トシオさんの姓が刻まれていた。この集落には古くからある旧家の姓である。銘碑を見るとトシオさんの名前がある。昨年末の日付の下に86才と刻まれていた。久しぶりにトシオさんが集落の道を後ろ手に歩く姿が脳裏に蘇った。
 
そう言えば以前トシオさんが体調を崩して病院へお連れした時のことを、「お年寄りは常に気に掛けておかなければいけない」との趣旨でFacebookに記した事を思い出し、スマホでそのページを振り返ってみた。日付を見ると、ちょうど7年前の同じ日、5月28日の投稿であった。それがこの文章を書こうと思った契機である。

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