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7 義秀兄さん

奄美では数日前に梅雨が明け、少しずつ夏空の色が濃くなって来た。奄美の汀には今日も静かに波が寄せている。
私が島へ越して11年が過ぎた。先日、この11年来、私を弟のように可愛がってくれた方が亡くなった。100歳。大往生である。100歳と50代で兄弟のような間柄というのも可笑しく聞こえるが、初対面の際、なぜか私は当時すでに90になろうとしていた老人に向かって「兄さん」と呼んでしまったのだった。
 
義秀兄さんが海軍に志願したのは20歳の時である。同時に志願した弟の高吉さんは18歳だった。3ヶ月の新兵教育の後、義秀兄さんは特務艦・石廊に、弟・高吉さんは潜水艦イ号に配艦され、それ以来兄弟間の音信は途絶えた。
 
昭和19年3月30日、義秀兄さんの乗る特務艦・石廊は、アメリカ潜水艦タニーの雷撃による損傷を修理するためパラオに停泊していた。そこにアメリカ第58任務部隊の艦載機による攻撃(パラオ大空襲)があった。空からは爆弾、機銃、海からは魚雷の攻撃を受け戦友は船の甲板で血まみれで倒れ、父母を呼ぶ声は地獄そのものだったと言う。義秀兄さんは左腕に機銃の弾丸を被弾した。船が炎上し、艦長からの指示で艦員は船を捨てボートで無人島に避難、義秀兄さんはパラオ島の海軍病院で左手の上膊部より切断した。あまりの激痛に「殺せー、俺をここで殺してくれ!」と叫んだと言う。
 
兵役を免除され、海軍水兵長の位を貰って昭和23年、奄美大島へ帰島した。再会した母は義秀兄さんの失った左腕に縋って泣いた。弟の高吉さんの乗る潜水艦がハワイ沖で撃沈された事を知ったのはその後の事であった。
 
帰島してからの生活は、片腕で農業をし、地域では町内会長や民生委員として活動した。町内会長のころ、市長へ嘆願書を提出して地域に公民館や防火用水タンク、教員住宅や幼稚園をつくり、集落をかこむ道路も整備した。
 
夏の盛りに片腕で自転車に乗り、数キロ離れた私の家へ「元気か?」と訪ねて来たりした。もう一度仏教を学び直したいからと書物の購入を私に依頼したのは90も半ばに差し掛かろうとする頃だった。大事なのは心だよ、と義秀兄さんは私に言った。初対面で「兄さん」と私が呼んだ時、弟の高吉さんが帰って来たような気持ちになったのだと言う。可愛がって貰った。
 
若い人のためにと義秀兄さんが原稿を書いて私がパソコンで清書してあった戦争の体験談を、告別式で読み上げさせて頂いた。親族も初めて聞くような話であったと言う。

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