20 「レインツリー」からの卒業
「指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけ」た樹木は、私にとってすべて「レインツリー」である。学生時代に大江健三郎の『「雨の木」を聴く女たち』を読んでからこの方、ずっとだ。
植物の名を知らない。目に留まった草花や樹木の名を、人に聞いたりGoogleレンズで調べたりするのだが、すぐに忘れる。だから、「指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけ」た樹木は、私にとってすべて「レインツリー」なのである。牧野富太郎が聞いたら多分腰を抜かす。
牧野は「雑草という名の草は無い」との言葉を残したそうだが、NHKの朝ドラで話題になるまで、私はまったくそんな事を知らない。もともと植物に関心が無かったのだろう。そんな私が先日、書店で『琉球弧・植物図鑑』なる書籍を購入して来た。税込で4,000円以上もする。電子書籍で買えれば良かったのだが、地方出版社のものなので紙媒体しか無かった。
なぜそんな買い物をしたのかと言えば、先々月に関東地方からの客人を迎えた際、つまりは名前を知らなければ人に語る事が出来ないという事実を切に感じた事による。人に説明するとき、樹木を全部レインツリーで済ますわけには行かない。
「様々な花が開花すると、奄美の人々は梅雨入りの近いことを知る」と語るよりも、「スダジイの花の匂いが森に満ち、月桃が薄桃色の花序を垂らし、道端にコンロンカの白が散りばめられると、奄美は梅雨に入るのです」と語った方が、はるかに豊かで五感に訴える。記憶にも残る。
私の所属するNPOの主催イベントで、とある大学の教授と繋がりを持つことが出来た。今年度の入学式で、学部長としての式辞を述べられたとFacebookに投稿されていた。式辞の趣旨は、
・大学で学ぶことは、広い意味での多様な言葉を学ぶことである。
・言葉を学ぶことは、異なる世界の文化や価値観を理解し、対話することにつながる。
・言葉を学ぶ方法や身につけ方も大切である。
・言葉を学ぶことは、世界市民として育っていくことに直結している。
・市民であることの条件は、「他者と対話」できることである。
といったものだった。全文を読めば鳥肌が立つくらいに迫力があり、人を行動に駆り立てる力に満ちていた。言葉を学ぶことは人として成長する事なのだと自覚した。
ニュース番組でインタビューを受けた子どもが「楽しかった」としか言えないのは言葉を知らないからだ。SNSで朝日や夕陽、薄明光線の写真をアップしたけれど殆どのキャプションやコメントは「神々しい」「キレイ」であり、あと一歩の踏み込みがない。「どのように神々しかったのか」「どのようにキレイだったのか」「何に似ていたのか」と奥へ奥へと踏み込んで言葉を探して行く事で、表現は豊かになる。
言葉は人そのものである。何を語るかが、その人の在り方に直結する。草花を雑草としか言えない人の心の中は、雑草だらけである。私にとっての樹木がすべてレインツリーであったように。言葉を知り、それを人に伝えることが出来るようになる事は、自分自身が豊かに育っていく事である。
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