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3 インクの話

インクとインキは語源の違いで呼び方が違っているのだそうだ。インクは英語のink、インキはオランダ語のinkt。印刷業界ではインキと呼ぶのが正式らしい。ちなみに筆記具メーカーの雄、パイロット社ではインキ、セーラー万年筆ではインクと呼ばれている。
 
ここにインク沼という沼がある。昨今の万年筆ブームに呼応して各社が様々な世界観のインクシリーズを発売した。ノートに染みる多様な色彩の虜になった人たちをインク沼の住人、もしくは沼人と呼ぶ。万年筆用に開発されたインクたちは一人歩きを始め、純粋にインクだけを楽しむためにガラスペンが注目を集め、ガラスペンブームが派生した。そのガラスペンブームに目を付けた筆記具メーカーが、今度は高価で繊細なガラスペンよりも安価で容易に扱える、つけペンを発売した。これが現在のインク沼界隈の様子である。さらに紙沼というのも派生しているのだが、ここもインク沼に匹敵するほど深遠な沼だ。
 
さてインク沼である。万年筆インクの寿命は約2年であり、それを越すと水分の蒸発などにより粘度が増し、インク詰まりなどの原因になる。一般的なインクボトルの容量は40ml〜50mlで、通常の筆記による使用でこれを使い切るには、筆記量の多い人でも半年から1年くらいかかる。インク沼の沼人たちは、これを数十本、数百本とコレクションしている。一生かかっても使い切る事は出来ない。そんな沼人たちのために、ただインクを塗って楽しむインクコレクションカードや、インクを塗りたくるだけで絵が浮かび上がる、ぬりたくり絵カードなどと言うものもある。塗りたくるためには筆が必要なのだが、ここに筆沼などと言うのも派生している。沼人の周辺には広大なマーケットの裾野が広がっているのだ。
 
夏目漱石は主流のブルーブラックのインクが嫌いで、セピア色のインクを使っていた。内田魯庵の『温情の裕かな夏目さん』という随筆にはこうある。「夏目漱石さんの嫌いなものはブリウブラックのインキだった。万年筆は絶えず愛用せられたが、インキは何時もセピアのドローイングインキだった」「夏目漱石さんはあらゆる方面の感覚にデリケートだったのは事実だろうが、別けても色に対する感覚は特にそうだったと思う。『ブリウブラックを使えば帳面を附けているような気がする』と好く言われた」漱石自身も随筆『余と万年筆』の中で「又ペンにすれば余の好むセピヤ色で自由に原稿紙を彩る事が出来る」と書いている。
 


インクの色で気分が変わる。漱石の言っている通りである。私は長らくセーラーの極黒(きわぐろ)というインクを愛用していたが、最近ではバーガンディなどワインカラーのインクにハマっている。インク色を変えるだけでノートの紙面がパッと華やかになり、日々の生活に弾みがつく。
 
私は元来コレクターでは無いのだが、気がつけば机には5本のインクボトルが並んでいる。自分を沼人であるとは思っていないが、インクの色彩は文字通り生活に彩りを与えてくれる。このまま沼の底に沈むのも楽しいのかも知れない。

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