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6 プリントゴッコと社会的責任

プリントゴッコ、と聞いてピンと来る人はそれなりの年齢である。理想科学工業が販売した家庭用簡易印刷機だ。これで年賀状を作った思い出のある人は多いに違いない。発売されたのはもう40年以上も前のことだ。それまで印刷屋さんに任せるしかなかった「印刷」という作業が家庭で出来るようになったのだから、どこの家でも年末にはボムッ!とフラッシュを光らせて原版を作りインクを垂らしてペッタンペッタンと年賀状を刷った。
 
さて、時代が若干進んだところでワープロが登場し、人は自前で活字のような文字での文書作成が出来るようになった。さらに時を経てパソコンが普及すると画像を取り込んで、一般家庭ではやはり年賀状をつくり、ちょっと出来る人はホームページを立ち上げ、これまで外部メディアに依存するしかなかった表現の場を自前で調達出来るようになった。次にはブログが登場し、HTMLコーディングの知識がなくともウェブ上での表現活動が可能になり、YouTubeが普及してからは動画コンテンツを公開し、テレビ局のものであった番組づくりを自前でまかなえるようになった。
 
理想科学工業がおこなったイノベーションは印刷のエンパワーメント(権限移譲)であり、パソコンはコンテンツの製作やコミュニティづくりに関するエンパワーメントをもたらした。道具は人に力(権限)を与える。しかし権限には必ず責任が付いて来る。
 
自動車は人の移動力を増幅する装置で、今では国産の一般的な乗用車でも時速220kmくらいまで発揮する権限がドライバーに与えられるが、危険なので法律によってその権限は制限されている。しかしその制限もドライバーによっては容易に破られてしまう。社会的責任を理解し遂行できる成熟した大人だけが、権限を正しく行使することが出来る。未成熟なまま高級車を手に入れて権限感覚だけを得てしまった者が、社会的責任の意味もわからずに煽り運転などをすることになる。

SNSなども発言力の権限移譲であるが、ここは暴走車だらけである。10年ほど前、私がSNS講座などを開いた時に必ず言っていたことは「現実生活でやらない事はインターネット上でもやらないようにしましょう」と言うことだった。身の丈を忘れるな、と。力の増幅装置によって出来るようになった事と、自分の身の丈は別物だ。増幅された力は身の丈では制御できない。

昔の文士の中にも、表現の場が与えられているという権限感覚によって身内の恥をさらしてしまい、親族から絶縁されるものがあった。これもまた暴走車であり、問題の根は昔も今も変わらない。政治の世界でも同じだ。権限には責任がある。権限を正しく行使できる者は、社会的責任を理解した成熟した大人のみである。人の成熟度の尺度とは、自分の中にどれだけ多様な人を、どれだけ多く住まわせているかだ。心の鏡にあの人この人の顔が浮かぶなら、迂闊な事などできないものだ。

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