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23 最適化原理と満足化原理

2020年6月28日、東京・将棋会館では棋聖戦の第2局が行われていた。対戦したのは渡辺明棋聖(当時)と藤井聡太七段(当時)。
中継する画面上では、将棋AIが局面を解析してリアルタイムの互いの勝率や次に有効な5手までが表示されていた。
事件は藤井七段の58手目で起こった。
「3一銀」
藤井七段はこの手を打つために23分もの時間を費やした。将棋AI(水匠2)が4億手を読み込んでも5番手にも上がらない一手だった。画面上での藤井七段の勝率は一気に下がった。しかし、藤井七段はこの対局で勝利を得ている。
将棋AIが4億手まで読んでも5番手にも上がらない一手は、6億手まで読ませると突如最善手として現れる手だった。

経営学に「最適化原理」「満足化原理」という言葉がある。将棋AIのように、すべての手を網羅して比較し、実行後の結果が予想出来る状況で最適な手を打とうとするのが最適化原理であり、限られた時間と情報の中で今できる判断を下すあり方が満足化原理だ。意思決定のアプローチの違いである。

現実世界というのは相関関係の総体であり、境目の無い曖昧なものである。自分は自分、と言ってみても呼吸する空気にはどこかの工場が吐き出した煤煙が含まれているかも知れず、下着一枚だって繊維の生成から自前で賄っている人なんていない。モノゴトは相関性の中にある。
そんな境目の曖昧な現実に対し、人が何かの計画を立てる時には時間とお金と、どこまでやるかと言う範囲、境目を決めなくてはならない。そのように予算と期限と実行範囲に合わせた落とし所を決めてパッケージングする作業が満足化であるとも言える。

現実社会ではスピーディな決断と行動が迫られる局面がほとんどだ。そこで必要とされるのは満足化原理である。今入手出来る情報と予算、限られた時間の中での決断。言ってみれば「腹をくくる」と言う作業であろう。

ときに、コンピューターが数億のデータを分析しておこなう計算にも勝る判断が出来るのが人間の力である。それは「腹をくくる」瞬間に訪れる。あらゆる人間関係や残り時間、手持ちの資産を見渡して「よし、こうしよう」と決める。「あの人には私が謝っておく」と。そういった判断はコンピューターでは出来ない。

藤井聡太が3一銀を打った瞬間、多くの観戦者が「あっ!」と思った。負けるんじゃないかと。しかし、この一手のために費やした23分の間に、藤井は腹をくくっていたのだった。これで流れが変わろうとも、この一手に賭けると。コンピューターによる最適化では乗り越えられない現実の壁を、人は超える事ができるのだ。

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