4 去り行く「昭和」- 「目指すだけ」の生き方から、一歩を踏みしめる生き方へ -

朝はテレビでNHKのニュースを流しながら食事や仕事の準備をする。その中で「沈む中流」と題する特集が組まれていた。「中流」とはもはや昭和の死語である。なんとも時代錯誤で違和感だらけの特集を、耳だけで聞いていた。大手電機メーカーを定年退職した男性が取材対象であった。年収800万円だったという。それが収入減で思うにまかせない。「定年後は趣味のカメラを楽しみながら暮らして行けると思っていた」「住宅ローンが数百万残っている」自家用車と思しきイタリア車と一緒に写った若い頃の家族写真も映し出されていた。ただただ男性の見通しの甘さだけが際立つ内容で、ネット上でもNHKに対する批判が沸騰している。NHKはネットで「あなたの“中流の暮らし”のイメージは?」の質問で始まるアンケートをおこない、2000件を超える回答が集まったのだという。そもそも平成の半ばにはすでに霧消したはずの「普通」や「中流」が存在するものとして当たり前に問いが立てられている所から感覚のズレを感じてしまった。
 
ここで私が考え込まざるを得なかったのが、いまだにこんな「昭和」な人たちが存在すると言うことだ。大過なく会社で定年まで過ごしたあとは、マイホーム(これも死語)で好きな趣味を楽しみながらのんびりと、とはいかにも昭和の経済成長期を過ごしたサラリーマンらしい。昔はこんな人が当たり前だった。私が高校生だった頃までは。平成に入り、バブルが崩壊して様相は変わった・・・はずだった。しかも今は大震災を経験し、コロナ禍を経ている。それなりに人の価値観も変容した・・はずだった。
 
「エネルゲイア(活動)」と「キーネーシス(運動)」については、ここでも何度か書いた。登山は山頂を目指して一歩一歩、歩を進めることも「登山」であり、その過程を経て登頂したという事実もまた「登山」である。これがエネルゲイア的(活動)である。対して、「キーネーシス(運動)」は「一定の目的に向かう末完了的な過程を持つ行為」で、例えれば建築がそれにあたる。「建築している」と同時に「建築してしまった」ということはない。「建築してしまった」という、達成状態に至るには「建築する」という未完了な、手段としての努力の過程が必要である。朝のNHKニュースから私が感じたことは「昭和とは何とキーネーシスだったのだろう」という実感だ。目的に向かって昭和のお父さんたちは夜も寝ずに働いたのだ。思えば明治維新からバブル崩壊まで、日本はキーネーシスな状態を過ごして来たのかも知れない。
 
キーネーシスは目的以外のすべてが手段になる。エネルゲイアは「今」「ここ」が常に達成の瞬間である。NHKから取材を受けた男性がガッカリしていた事の本質とは、「達成を目指してあらゆるものを犠牲にして来たはずなのに、達成できなかった」というキーネーシス的生き方への後悔である。
 
東京大学弥生キャンパス前で、大学入学共通テストの受験生ら3人を傷つけてしまった少年はキーネーシス的な価値観の犠牲者ではないかと私は思ってしまう。「頑張って来たのに達成できなかった」、これがキーネーシスの結末である。
 
悠々自適なセカンドライフを夢見た男性や、件(くだん)の少年が救われる道は、「これだけやったのだから他にも自分が役立てる場所があるはずだ」というエネルゲイア的な価値観や視座が涵養されることである。自分を取り巻く背景に気づくこと、人の縁に気づくこと。もしも今、「これだけやったのに」と不遇を感じている人が周囲にいるならば、「これだけやったのだから、あなたを必要とする人が必ずいるはず」と激励してあげて欲しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?