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商店街活性化について2023年当初に思うこと

先日、2015年から私が所属している、神戸市の商店街支援施策「商店街・市場応援隊派遣事業」の「応援隊」。コロナ禍で長らく行われていなかった応援隊の意見交換会が開かれたので出席してきました。

意見交換の場で皆さんの色々な経験に基づくお話を伺いながら、ぼや~っと思い浮かんだことがあったので、思うままに綴っておこうと思います。

商店街・小売市場衰退の問題の肝は?

神戸市で8年ほど「商店街・市場応援隊派遣事業」に関わっているが、活性化に対する取り組みを継続出来ている現場には特徴があると感じている。

ひとつは地の利があるところ。
ふたつめは強いリーダーシップを持った人がいるところ。
あとひとつは組織の世代間コミュニケーションが出来ているところである。

私の仕事目線、つまり「管理の視座」で捉えると、商店街の活性化問題の一番大切な点は最後のやつ。なぜなら、商店街・小売市場は今その時その場所にある地域社会と折り合いながら維持・保全していかなければならないからだ。時が流れれば地域社会も変わり続ける。継続させたいなら、その変化にどう対応するのか、世代をつなげた活動体制を持たなければならないから。いくら優れた仕組みがあったとしても、それが世代を渡って運営出来るものでなければ意味をなさない。

この文章を書いている時点で「商店街・市場応援隊派遣事業」の制度を利用しているのは、神戸市内の商店街・小売市場全体の半数に満たないという現状があるという。言い換えれば、先に挙げた三つの特徴を持っていない、持っていないと思い込んでいる神戸市内の商店街・小売市場が半数以上あることを表しているのかもしれない。

しかし、制度を利用しない現場を、悪いとか、やる気がない、もっと頑張れなどと批判・叱咤するつもりは1ミリもない。むしろ、もう折り合えないと判断したなら無理して続けてはいけない。管理の対象を「店の維持・保全」に置いて捉えるなら、無理なまま続けて傷口を広げるより、いったん組織を分解して別のつながり様を模索するなり、別の場所へ移動するなりして存続・保全を図るべきと考える。
私の思索の肝は「商店街・小売市場」は減っていったとしても、「店」を減らしてはいけないことにある。店を営んでいる人が店を続けるか辞めるかは店主の問題だが、そこに住み暮らす人にとっては他人ごとではない。人口減少で客の分母が減ってしまうから店の絶対数は減るだろうけど、地域人口に対する店の数、町の「店舗率」を減らしてはいけない。

商店街・小売市場に「活性化」は要らない

先程述べた活性化に取り組めていない商店街・小売市場は、淘汰され消え去るのを待つだけなのだろうか?それは、時代の流れだから仕方のないことなのか?商店主たちの自己責任なのか?私たちには関係のないことなのだろうか?
そもそも活性化に成功することだけが、商店街・小売市場の生き残る方法なのか?衰退に歯止めをかけるための施策が活性化なのか?

答えはノー。

商店街・小売市場が今すぐにでも取り組まなければならないのは、持続可能性の追求、つまり商店街・小売市場の「持続可能化」である。「活性化」はそれを目指すための施策にすぎないと捉える。出来れば良いに違いないが、無くても構わないものだと。

併せて私は、町の商店街・小売市場が衰退している状況を、単に当事者である店主たちの問題だけではなく、その町に住み暮らす人々の問題だと捉えている。商店街・小売市場の無い町、おらが町の「この店」が無い町に住んでいて愉しいと思っているのか?という情緒的な問題と、「自分の店」を営む暮らしを寛容に包摂しない町に、個性も魅力も多様性もあったものじゃないという、まちつくり(地方行政)から見た問題の二つの視座があると捉えている。

商店街・小売市場にある商店が衰退した一番大きな要因は、町に住み暮らす人々から求められていた日用品の安定的供給という役割が、スーパーやコンビニにシフトして定着していったこと。これは今となっては覆らない。更に賃料・決済手数料そして税金の上昇など、粗利の低い商品を扱う店にとって事業を継続していくための明るい光はどこにあるのだろう?商店街・小売市場の衰退は当事者だけの自己責任ではない。

「それはそうだ、でも仕方がないではないか。」

確かに仕方がないとは言えるだろう。が、それで済ませてしまえば日々の暮らしの愉しみの幅が狭くなり過ぎはしないか?と、そう言う人たちに私は問い返したい。

冬のある日、仕事が早く終わって晩飯の食材を買いに寄り道する。
鍋でもしようか。
ポン酢を切らしていたので、最初に地元のスーパーへ行って豆腐と一緒に購入してから八百屋へ行く。白菜やら白ネギやらキノコ類に水菜を買おうとすると、おばちゃんが
「鍋するんやったら、今日はホウレン草にしとき。めちゃめちゃ甘い。下茹でせんでもいける。」
ということで水菜をホウレン草に換える。メイン具材の気分は肉だったので豚しゃぶ肉でも、という思いで肉屋へ。豚しゃぶ肉を注文すると、おっちゃんが
「お父さん、しゃぶしゃぶするんやったら、少しだけ色変わってきてるけど鮮度は全然問題ないからこっちの牛肉どないですか?安うさせてもらいますけど。」
とのお誘い。確かに変色も微々たるもの、しかしなかなかのお値段。競馬も外れ続きで奮発する理由など何一つない、むしろマイナスだけど、これも何かの縁。
「ほな、そっちにしときますわ。」
「ありがとうございます。」
で、地元産の牛肉をズドンと半額&増量でゲット。スーパーで換算すると、ざっとポイント70%還元。いや、そもそもこの肉はスーパーで売っていない。でも、次は普通に豚しゃぶ肉買わせてね。
その夜、我が家の食卓は「今日は鍋でも」という気分がきっかけで、訳の分からん不思議なしゃぶしゃぶになり、愉しい時間を過ごすことが出来た・・・

みたいな出来事が起こり得ない町に住んでいて何が面白いのか?

「そりゃ、面白そうやけど仕方ない、」

そう思う人たちが多く住み暮らす町では、商店街・小売市場は継続できない。
また、面白いと感じている人(実はこれが大半)が多く居たとしても、行動に出る人が少なければ、やはり継続できない。
この問題を情緒的に捉えた活性化施策は、人々の気持ちは捉えることが出来ても「持続可能化」には繋がらない。気持ちから行動を起こすことまでは出来ても、行動が持続出来るかどうかは施策ではなくその町に住み暮らす人々の行動力にあると考えている。自分の暮らしにある「余白」を誰かご近所さんのために使うチカラと言い換えてもよい。数値として測れる類のものではないし、数値にすると意味合いが逃げていく類のチカラかも知れないけれど。
言い換えれば、町の生命力なのでは、と。

となれば、町の生命活動にとって「店」が必要でなければならないことを挙げねばならない。

店が町にとって必要である重大理由

地方創生、地域振興、まちおこしなどのスローガンが掲げられて久しいが、必ず語られるのが「地域ならではの魅力」即ち、町ならではの個性・魅力だ。

町の個性・魅力を語るとき、地理的な特徴や町の主要産業や独自の伝統・文化があって、住む人たちの「暮らし」がある。その暮らしの一部を担うのが「店」である。まず、「店」は町の個性であり魅力を表す存在であることは多くの人が納得するところであろう。ならば、言い方を換えれば「店」を営む人は、町の個性・魅力を表す存在たり得るということだ。町の主要産業など大きな経済活動の部分を考えると同時に、その地理的足元で小さく動く「店」の小さな経済活動の歯車を合わせた施策を作って管理していかなければ、地方創生は成り立たないのではないか。

一方で「店」や「店を営む人」が増えることは、その町に住み暮らす人たちにとって働き方の多様性の豊穣化へ直結する。
若いとか年寄りとか、正規とか非正規とか、スキルを持っている人いない人とか、そんなものだけで働き方の選択肢が狭められてたまるものか。
しかし、繰り返すが、今の時代では地代や決済手数料、税金などの増加で「店」を継続することが昔以上に厳しくなっているのは事実だ。

なので、町に住み暮らす人は、自分の町にある「店」がどんな店なのかを、最低三回は店の中に入って熟視してほしい。もしあなたとその店が合うのなら、暮らしにおいて無理ない程度に利用してほしい。
それが、町の個性・魅力を豊穣させる確実な方法の一つなのです。

では、「店」の側はどうすればよいのか。

管理の視座で見れば簡単だ。
方法を立てることだけは、というだけなのだが。

それは、「店」の在り方を変えることだ。
これまでの方法で「店」の継続が厳しくなったのであれば、向き合う現状に対応した方法に変えることです。継続していける「店の新しい在り方」を模索し試行錯誤を続ける。その町その時流に乗るか乗らないかは分からないけど、その「店」を営んでいる人の「背中を見た人」が、「わたしもこんなコトをやりたい」と思いたつような「店の在り方」を

言葉にするのは簡単、でもこれが難しい。
形態を変える発想は、今まで沁みついている価値や世界観を一旦分解することでしか起こり得ないから。これが自分でも出来ているのか分からないくらい難しい。
なので、今この時に店を営んでいる人が、なんとか事業を続けながらそれをするのは更に難しいと思う。でも、やらなきゃならないぞと、私はエールを送る。

商店街・市場の人たちは知ってるじゃないか。店を営む暮らしが満更でもないってことを、誰よりも。なら、そのことをもっと多くの人たちに伝えるべきだろう。私は、その手伝いを惜しまない。それが私の内にある「商店街・市場応援隊」だ。

一方で、店を営んでいない人たちが自分の新しい働き方を模索する途中経過で、「店の新しい在り方」が具現化されることも予想する。それは突然新しく現れるものではなく、現在ある物事の配列を変えたものだ。そしてウイルスの如く細かな変異を遂げて他の地域へ広がっていくだろう。その先で、店を営む人と出会ったとき、「店の新しい在り方」は時折、更に深みを得て地域に根付くことだろう。

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