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おっさん暮らしにおける「余白」の意義

おっさん暮らし、つまり人生後半から終盤にかけての暮らしを少しでも意義あるものにするためには、何をどうすれば良いのだろう?色々あるだろう答えのヒントをひとつでも多く残してみたい。
これがnoteにおける私のテーマである。

ヒトがおっさんになることについて語るとき、自分自身がおっさんに至るまでのことしか語ることが出来ない。しかもそれは、記憶の再構成にすぎないため、厳密な事実とは相当離れている可能性が高い。記憶のエエとこ取りと言い換えても良いだろう。なので、おっさん暮らしのこれからを、自分が今まで歩んできた暮らしの道のりを土台にして考えることは、非常に危ういと思っている。おっさんがそれまで相対した社会の「現実」とは、社会が幾重にも重なっている「層」の組み合わせのごく一部にしか過ぎないからだ。今まで対峙してきた「社会」とは、それのごく一部にしかすぎず、隠れている、見えていない「層」は必ず存在しており、おっさんの「これから」に何らかの様相を呈して現れてくるはずである。その時におっさんが、それまでの暮らしで得た経験のみを持って対峙するだけでは足りなくなる場面が増えていく。
なぜなら、それまでに得た経験は新たな知恵を生むかもしれないが、おっさんの身体は老いていく一方だからである。このスピードが時を追って上がっていくのだから手ごわいのだ。そのスピードの先にあるのが「死」なんだけど、ただただそれを指くわえて待つだけでは面白くない。少なくとも私はそう思っている。では、どうすれば良いのだろうか?

私の答えはただ一つ

漸進せよ。

この一言に尽きると思っている。

今までの暮らしの「当たり前」は、本当に「当たり前」なのか?という懐疑を常に心の中で持ち続けることだ。自分の人生の「今まで」は、自分がただそう思っていただけの「今まで」ではないだろうか?という懐疑を持ち続けることだ。
技術は向上している。社会は成長している。人類は進歩している・・・
ホンマか?
確かにそう見える面も無くはないと思うけど、かと言って世界が平和に満たされたわけではない。むしろ、各地できな臭い出来事が増えているではないか。技術の向上で我々の生活は便利になったように見える。しかし、その便利に慣れた人々が増えたことで、便利がないと暮らしてゆけない人が増えてしまった現実を、どう捉えたらよいのだろうか。

この現実は、私の前と他の方とで別の様相で現れる。
ゆえに、捉え方も対処方法も異なる。それは各々の現場で見つけざるを得ない。
しかし、その対処方法に共通点はある。それは自分の暮らしと現れた現実との均衡を保つことのできる点なり面なりを探して確保することだ。
もうひとつは、その作業は必ずしも暮らしの普段で賄い切れるものではないであろうということだ。
そのため、おっさんの暮らしでは、どうしても持っておかなければならないものがあるように思う。

それは「余白」だ。

具体的に申せば、時間の「余白」、経済の「余白」、心身の「余白」である。

効率化の名の下に削って良いものではなく、仕方がないと他人に差し出しっぱなしでよいものでもない。

おっさんは「余白」に何も詰め込むことなく「余白」を「余白」のままも暮らしの中で持ち続けなければならない。もし暮らしの中で「余白」がないとか足りないと感じる人がいるならば、暮らしの第一目標に「余白」を持つことを据えるべきだと思う。

このことを行動に移そうとしたとき、私たちの多くは、いつの間にか「余白」を「余白」のまま持っておくことが、とても困難になっていると気づく。
この気づきが、おっさんの暮らしを愉しむ一つの大きなきっかけになるのではと思い、ここに記録することにした。

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