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房総の釣り

今ではヒラマサという魚はすこしでも釣りをする人なら誰でも知っている魚だが、昭和三十年代には幻の魚であり見たことも無いし、巨大な魚であるという位の認識しかなかった頃の話である。当時はカンパチのほうがヒラマサより小型だというのが一般的だったので この話に出てくる巨大魚もカンパチだったのかもしれないが それはさておき。
 或る夏のこと、Uが館山の近くに大沢という小さな漁村があり館山の人に言わせると小熱海の様な所だということで、のんびり釣りにでも行かないかと誘ってきたので二人で出かけることになった。
 当時の内房線は両国から蒸気機関車がトコトコ引っ張る汽車で千葉までは海岸線のすぐ脇を走って行くのだが、今では埋め尽くされてしまい見る影もない浦安の「沖の百万石」と謂われた広大な浅瀬が続いていてはるか沖のほうでも人が立って歩いているのが散見されたのが今でも目に浮かぶ。
 千葉駅に着くとUは大好物の蛤弁当を買い込むと酒を飲みながら昔夏になると行っていた上総湊の子供時代の楽しかった話をしてくれるのだった。
 やがて汽車は内房沿いの岩場の多い場所にさしかかるとトンネルをいくつもくぐらなければならない。煙が車内に立ちこめるのでその都度窓を開けたり閉めたりしていたがそのうちに面倒になり窓を開けっぱなしにしてトンネルを出ると見え隠れする磯の様子に目をこすりながら飽きもせず見入っていたことだった。
 やがて汽車は館山についたが、大沢村の場所はわからない。 町は海水浴客で雑踏を極めており、やっと釣具なども売っている雑貨屋を見つけ麦藁帽子を買いがてら主人に訊くと、バスで小一時間のところであると教えてくれた上、親切にも知り合いのAさんという人を紹介してくれた。
 Aさんは、六十過ぎで元漁師だが女房に先立たれ、子供達は皆東京に行ってしまったので、一人で山の中腹にある家に住んでいた。我々が訪ねると大喜びで、持ち船で明日釣りに連れて行ってくれるとのことであった。
 この家は、大沢の湾の真正面に建てられていて、小さな漁村と湾が一望できるのだが、Aさんの話によると、この漁村の漁師たちは港から見える範囲でしか漁をしないので、
親爺がどこでなにしているか一目瞭然で、女房どもは一日中亭主を監視できるとのことだった。
 全員一本釣りの漁師で、獲物は季節によって異なるが、今はヒラマサだということだ。
Aさんが言うことに、この家から見ていると、大きなヒラマサが掛かると船を引っ張りまわすので、沖を行ったり来たりしているのが手に取るようにわかるとのことだ。
一時間や二時間かかるのはザラで、大きさは二メートル位もあり、小さな舟の中には取り込むことができず、弱ってきた魚にギャフを打ち込んで船べりにくくりつけて港へ戻ってくると、陸に居る人は老若男女全員が浜に出て迎える慣わしだということだった。
 夏の日盛りにも係わらず、この家は風通しも良く、夜になっても蚊など一匹も出ずに誠に快適な家だったので、Aさんがここを離れない理由は良く理解できた。電気は通っていないので、日が暮れたら寝るしかない。朝は、前が海だから明るくなるのは早い。家の周りの狭い空き地に野菜を植えて自給自足の生活。冬は勿論暖かく、南面したこの場所は、後ろに山を背負っているので北風も吹かず、本当に住みやすそうな所であった。
 翌朝小船に乗るとAさんはヒラマサを狙ってみようと言い出し、その餌にまずムロ鯵を釣るという段取りである。ところがムロ鯵も三匹釣るともうそれで充分とのことで、それを餌に泳がせ釣りを始めた。
 しかしその頃から雲行きが怪しくなってきて、結局ヒラマサは影も見せず、鯛でも釣ろうと切り身の餌に切り替えてやったが、私が手のひらほどのを一匹釣ったところで、風も出てきてしまったので帰ろうということになってしまった。
 Aさんはとても残念がってくれたが、我々はもともとそんなに期待していたわけでもなく、Aさんの人柄とAさんの家がすっかり気に入ってしまっていたので、逆にAさんを慰めようと、村の酒屋に行ってビールと酒を買い込んで宴会をやることにした。
 残念ながら本日の肴はムロ鯵三匹と小鯛一匹である。ムロ鯵は今晩のおかずにしたらというと、Aさんは小鯛をとり出して庭の真ん中にしつらえてある台付きのマナ板の上でコトコトやり始めた。小鯛を三枚におろすと包丁の峰で臓物も一緒にして叩いて、それに葱や茗荷などと味噌、酒を加えて練り上げ、鮑の殻に盛ると焚き火で炙るのだ。
 香ばしい味噌の焼ける香りがあたりに漂うと、急に腹が減っていることを思い出した二人は、初めて食べるこのサンガミソを割り箸の先に一寸つまんではビールを呷りながら美味い美味いを連発したのでAさんもすっかり機嫌がよくなり、酒のおかずの足しにと、色も鮮やかな茄子と胡瓜の漬物を大盛りに出してくると、この大沢湾がいかに住みよい所かを、昔の漁の話を交えながらはなしてくれた。
 風の収まった夜は、開けっ放しの縁側から見上げる空は満天の星で、涼しい風がそよそよと吹く。気持ちの良い一晩を過ごした二人は、翌朝Aさんとの別れに名残を惜しんだのだった。


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