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「寂しい」をそんなにも素直に表現できるなんて

あなたは、ふとしたときに「さみしいな〜」って感じることはありますか?


電車に乗ってるとき、家までの帰り道、寝る前のベッドで。 


誰かといるときでさえ、そう思うかもしれません。 


でも、そう感じたところでどうにもならない。 

どうにもできないから、なんとなくやり過ごして生きている。










そんな大人たちに比べて、子どもは素直だ。





もちろん、「寂しい」を直接言うとも限らないけれど、素直に行動としてあらわれる。 



「ママ〜、抱っこしてよ」 

『ママここにいるから自分でおいでよ』 

「いやだ」 

『じゃあ抱っこできないよ』 

「やだ」 




『これ食べる?』 

「食べない!」 

『あぁ嫌なのね。わかったわかった。食べたくなったら言ってね』 

「やだ!」 

『わかってるよ、無理に食べなくていいから』 

「食べるの!」 

『なによもう、じゃあ、食べよー』 

「やだ!」 





イヤイヤ期みたいな行動。




この頃の子どもは、私が見てきた中だけでいうと、宇宙人であり、怪獣であり、ジャイアンだ。 


もちろん、彼らがどんな感情でどうしてほしいと思っているのか、正確にはわからない。 



でも、こういう言動をするときの10回に1回くらいは、「さみしい」を全力で出しているんだと思う。



「さみしい」のサイン。


さみしいから
「親が自分から自分を抱っこしに来てくれる」ことを求めている。



「こっちに来たら抱っこするよ」なんて、親からの愛情が(本人からすると)見えなくて、なんか虚しい。


抱っこしに来てくれることでしか「抱っこ」の意味がない。





食べる、食べない、もそうだ。


「はいはい、食べないのね」
とあっさり返されるとやっぱりさみしい。


自分の考えを理解してもらったというより、あしらわれた感じ。


もっと、「どうして?」「どうしたの?」って、自分に関わってほしいんだ。


スマホにも食事にも目を向けず、自分を抱っこしながら自分だけと向き合ってほしい。

親の視線を独り占めしながら。 






街中で、親子のこういうやりとりを見ると、なんだか自分の普段隠している気持ちが、子供に投影されているように見える。 

共感できる。 

と同時に、子供みたいに素直に表現できずに平気なフリをする自分に息苦しさも感じる。 




みんな本当はつらいことを抱えているのに、ちゃんと仕事して、すました顔で電車に乗っている。 

あの行動ができたら…。

みんなにも、そう素直に表現できる相手がひとりでもいたら、いいだろうな。

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