「ちょっとビール買ってくる」が父親との最後の会話になった。



これを書くに至った経緯

僕の人生の転機はいくつかあるが、最も大きい転機が訪れたのは小学校1年生の時だと思う。
今、大学4年生となり、少しずつ曖昧になっていく記憶をこれ以上手離さないために書き起こすことにした。

幼稚園時代

僕の家庭は両親と弟と僕の4人家族で、父親は県庁の教育委員会に勤めており、母親は専業主婦だった。
物心ついた時はマンションに住んでいて、送迎バスに乗って幼稚園に通っていた。
その頃の記憶といえば、人生初のバレンタインチョコを貰ったり、お遊戯会でSMAPの「Dear WOMAN」をマリンバで演奏したことくらいだ。
ちなみに、年中さんの時に人生初のバレンタインチョコを貰ってからはバレンタインデーとは無縁な人生を送っており、大学生になって18年ぶり2度目のバレンタインチョコを貰ったが、それについてはまた別の記事で書く。

マイホーム購入

そして小学校に進学。このタイミングで、両親は大きな決断をする。
とある工場の駐車場の土地を買い取り、一軒家を建てた。
それはそれは大きくて、今思えば中々の豪邸だったと思う。
…まあ、あの頃の自分は身体が小さいために大きく見えていたのもあると思う。

そういえば父親もとても大きかった気がするが、実際何センチくらいだったんだろう。僕の今の身長は163センチ。僕の記憶の中の父親は180センチくらいあるが、それなら僕の身長はもっと伸びるべきだろう。今となっては父親の正確な身長など知るよしもないが。

ヤバい隣人の話

小学校に通うときはいわゆる集団登下校で、近くに住む子たちと仲良くなった。仲良くなると、一人の友達がこう言ってきた。
「お前の家のせいで遊び場がなくなった。」
どうやら、僕の家が建つ前の工場の駐車場は近所の子供達の遊び場になっていたようだ。

それに関連して、ヤバい隣人がいた。
僕の家は車一台分の駐車場があったのだが、向かいの家の婆さんがこの狭い駐車場に勝手に入ってきて孫を遊ばせていた。
別に駐車場が離れているとか、道路にせり出しているわけではない。
しっかりと奥まっているうちの駐車場に3歳くらいの孫を連れてきて、三輪車を走らせていた。
もともと遊び場にしていた場所に勝手に家を建てたんだからいいでしょ?
恐らくそういう論理だったんだと思う。
まだ小学一年生だった僕にはその行為のヤバさはわからなかったのだが、両親が毎回その婆さんに注意するのを見て、良くないことなんだろうなと思っていた。今思うとめちゃくちゃ怖い。
ぱっと窓の外を見ると知らない婆さんが敷地内に入ってきて孫と遊んでいる光景が当たり前になっていたのが怖い。

大きい家だから多少の反感を買っていたのだと思う。
それなりに裕福で、友達もできて、地元のサッカークラブに入って。
本当に何一つ不自由ない生活を送っていたと思う。

※ここから本編

最後の会話

その日は、父親の帰りが遅かった。
ドアを開ける音がして、僕は父親を出迎えるために玄関に向かった。
しかし、父親は僕に目を合わせずに荷物を玄関に置くと、踵を返しながらこう言った。

「ちょっとコンビニにビール買ってくるわ。」

僕と目を合わせてしまったら、覚悟が揺らいでしまうと思ったのだろうか。
と、今になってそう思う。

携帯電話も、財布も、身分証も。
全ての荷物を置いて出ていったことに気が付いたのは、あまりに遅い帰宅を心配した母親だった。

2時間経って玄関の扉が開いた音がしたが、駆けつけてくれた母方のおばあちゃんだった。
やがて次々に親戚がやってきて、自宅周辺で父親を捜し始めた。
それでも見つからず、とうとう警察に捜索願を出した。

発見

それからの数か月はあまり覚えていない。
きっと予想以上に代わり映えのない学校生活を送っていたと思う。
小学1年生だった僕は、事の重大さに気付いていなかった。

そして1年生の冬の朝、起きると母親が泣いていた。
公園で父親が亡くなっているのが発見されたらしい。
あの日から半年近く経過しているし、父親不在の生活にも慣れてしまっていたために、まあそうだろうなと納得に近い感情だった。
しかし、母親は信じたくないようで、号泣していた。
しばらくすると泣き止んだが、次に弟が起きてきて、また同じ説明をすると同じように号泣していた。
そんな母親の姿を見て、可哀想に…とどこか他人事のような感想を抱いてしまった。

葬式

それからは父親の知り合いが訪ねてきて連日忙しかった気がする。
中には、失踪中の父親に会ったが事情を知らず、普通に挨拶したという人もいて、その人に非は無いのに母親に泣いて謝っていた。
葬式では、母親の喪主挨拶の締めが
「どうして逝ってしまったのですか…」
だったことを覚えている。
母親が泣いているのを見たのは父親の訃報を弟に知らせたとき以来だった。
だから、意外だった。
大人は強く、とっくに乗り越えているものだと思っていた。

葬式の後、父方の祖母と話す機会が設けられた。
僕と弟を置いて皆どこかに行き、祖母と僕ら兄弟だけになった。
祖母は、

「ばあちゃんのこと忘れないでね」

と言った。
なんでそんなこと言うのだろうと思ったが、うん。と返事をした。
しばらく話していると母親と母方のおばあちゃんが来て、父方の祖母とはお別れした。
すると、母親はこう言った。

「あのおばあちゃんのことは、もう忘れてね」

僕と弟が、口を揃えて「さっき忘れないでって言われたよ」と言うと、母親は気まずそうな顔をした。
それきり一度も父方の祖母と会っていない。
葬式が終わるとすぐに僕らは苗字を母親の旧姓に変えた。
それが普通だと思っていたが、死別は離婚と異なることを最近知った。
つまり、母親は死後離婚をしたのだろう。
理由はわからないし、まだ聞けていない。

転校

これからの生活はどうなるのだろう、という不安はあまりなかった。
というか小学一年生の僕はそこにまで気が回っていなかった。
そして冬が明け、僕は二年生になった。
ある日唐突に、転校することを伝えられた。
昼間は母親が働き、その間おばあちゃんに面倒を見てもらうために引っ越すことになったらしい。
夏休み明けから別の学校に通うことが決まった。
母親はそれからの一年間勉強し、特別支援学校教諭の試験を受けて就職した。
息子二人を養うための、まさに人生がかかった試験。母親の覚悟と努力、僕たち兄弟を育ててくれたことに本当に感謝している。
それからの人生については、また別の記事に書こうと思うが、転校先の小学校でできた友達は今でも交流がある子も多く、周りの人に恵まれたなと本当に感じる。

父親はなぜ帰ってこなかったのか

高校三年生の大学受験で、国公立しか受験しない背水の陣戦法で見事玉砕した僕は一年間の浪人をした。
そして大学に無事合格し、一人暮らしをすることになった。
浪人は自分の内面に向き合わずにはいられない期間なので、実家を離れる前に父親について色々聞くと決めていた。
しかし、聞き方がわからない。
幸いにもコロナ禍で入居の日は延期し続けたが、父親の話をするだけでも十数年ぶりなので入居前日まで言い出すことができなかった。

真相

父親は県庁内で、ある業務を引き継いだ。
とある画家が小学校に寄贈した絵を、別の場所に移動させるという業務であった。
しかし、絵は小学校に寄贈したものであり、県が勝手に移動させるのはおかしいとして、その画家は猛然と抗議した。
前任者は画家との軋轢を放置したまま、業務を進め、絵の移動が決定した段階で父親へと引き継いだ。
変更しようのない決定事項と、画家とのトラブルとの板挟みになってしまった。そのストレスが原因らしい。
家に訪ねてくる父親の知り合いの中に、一連の業務に関与した上司もいた。
そこで、謝罪の言葉と泣き寝入りの要求があり、母親はその要求を飲んだ。
これが、父親の死の真相だった。

最後に

年々、父親の顔を忘れていく自分が情けない。
写真を見ようにも、母親につらいことを思い出させるのではないかと思うと、言い出せない。
ならばせめて、忘れかけている思い出を書き起こして残そうと思った。
こんな自己満足な文章を読んでくださった方がいれば、感謝いたします。

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