ハンセン病は存在しない病気である可能性大‼︎
ハンセン病とは?
ハンセン病は、抗酸菌の一種であるらい菌の皮膚のマクロファージ内寄生および末梢神経細胞内寄生によって引き起こされる感染症である。
Wikipedia「ハンセン病」
ハンセン病の原因は、「らい菌」という細菌です。
らい菌は、ハンセン病の原因となる細菌である。分類上、結核菌と同様に抗酸菌に含まれる。1873年、ノルウェーのアルマウェル・ハンセンによって発見された。
Wikipedia「らい菌」
らい菌は人工培養ができません。
らい菌を培養して、増殖させられるのは「ヌードマウスの足底」か「アルマジロ」のみです。
ネズミにはハンセン病は感染しません。
ハンセン病に感染するのは「突然変異で免疫不全になったヌードマウス」か「アルマジロ」です。
そのため、らい菌、ハンセン病の治療薬の開発は困難を極めたそうです。
アルマジロを食べてハンセン病に感染するブラジル人
ブラジルではアルマジロは食べる習慣があり、ブラジルのアルマジロの62%が「らい菌」を体内に保有しているらしいです。
アルマジロを食べると、ハンセン病に感染するリスクが高まるという研究が発表されています。
ちなみにアメリカ南部では「らい菌」を保有するアルマジロの割合は約20%だそうです。
女性患者にハンセン病を感染させようとし裁判沙汰になった「らい菌の発見者」
1873年に「らい菌」の発見したのはノルウェーの医者「アルマウェル・ハンセン」です。
彼が1873年に患者から「らい菌」を発見したが、
当時の人々はハンセン病の原因は「細菌」とは考えられず「らい菌の存在」は全く受け入れられませんでした。
しかも「アルマウェル・ハンセン」は「らい菌」の人工培養に失敗し、「らい菌」がどう感染していくのかという仕組みも証明できませんでした。
その上、彼は少なくとも1人の女性患者を「ハンセン病」に感染させようとしたことで裁判沙汰となっています。
「ハンセン病」の歴史はこうして始まったのです。
世界初のハンセン病治療薬「プロミン」の深刻な副作用
結核の治療薬だった「プロミン」が「ハンセン病」治療に効果があると使われ始めたのが1943年。
「プロミン」は世界初のハンセン病治療薬として世に広まりました。
しかし、ハンセン病治療薬「プロミン」の副作用は強力です。
39度の高熱
髪の毛が抜け落ち、
呼吸困難→喉に穴を開け、人工呼吸器の装着
まるでガン治療をしている患者のような症状です。
ハンセン病患者だった詩人「桜井哲夫」も「プロミン」による重篤な副作用で苦しんでいます。
プロミンを投与された桜井哲夫は高熱に侵され、失明。
化膿した左目の眼球は摘出され、両手の指も、声も失っています。
日本で初めてプロミンの合成に成功した「石館守三」は、マスタードガスから日本初の抗がん剤をつくった人物
日本で初めてハンセン病治療薬「プロミン」の合成に成功したのは「石館守三」です。
「石館守三」は日本初の抗がん剤「ナイトロミン」を作り出した人物です。
抗がん剤「ナイトロミン」は、毒ガスである「マスタードガス」から作られています。
ガンは存在しない。抗がん剤というマスタードガスで毒殺されるガン患者。
「抗がん剤」と「ハンセン病治療薬」という毒薬を作った「石館守三」は「笹川保健財団の初代理事長」
石館守三は、笹川保健財団の初代理事長です。
笹川保健財団の名誉会長「日野原重明」
ハンセン病根絶を目指す笹川保健財団の名誉会長「日野原重明」は、日本に人間ドックを普及させ、存在しないガンで多くの人々を殺してきた中心人物です。
RAPT×読者対談〈第131弾〉小林麻央の死は悪魔への生贄である。(悪の巨塔・日野原重明と市川海老蔵の深いつながり)
日野原重明とともに「減塩・高血圧」によって、寝たきり老人をつくりだした「笹川良一」
日野原重明は世界初の家庭用血圧計を、法律を変えてまで創価企業パナソニックに作らせた人物です。彼が家庭での血圧測定普及のために設立した組織に笹川良一は3.6億円の資金援助をしています。
減塩・高血圧は寝たきり老人を作りだす「作り話」です。
1997年のハーバード大学の研究で高血圧気味の人が3年間「減塩食」を食べても血圧に変化はありませんでした。
むしろ、減塩することで体内の塩分濃度が下がり、体液の塩分濃度を一定に保つために骨が溶け出して、骨がスカスカになってしまします。
誰でも年齢とともに血圧があがり、血圧が上がることで血管の詰まりを押し流し脳梗塞になることを防いでいます。逆に血圧を下げると血管の詰まりを押し流せず脳梗塞になります。
高血圧・減塩を普及させることで寝たきり老人が増え、薬が売れるというカラクリです。
日本の高血圧患者は4300万人で、高血圧の薬の売り上げは1兆円です。
ハンセン病の牛耳るドン「笹川良一」
話を「ガン」から「ハンセン病」に戻します。
笹川保健財団の名誉会長「日野原重明」も初代理事長「石館守三」も、毒ガスである「抗がん剤」を世に広めた人物であり、ハンセン病の活動に大きく関与した人物です。
笹川保健財団は、世界のハンセン病を根絶しようと笹川良一が1974年に創設された財団です。
世界で初めてハンセン病のワクチンを接種をした「笹川良一」
1986年12月に笹川良一は、スイス・ジュネーブにあるWHO本部でマーラーWHO事務局長立会いのもと、世界で初めてハンセン病のワクチンを接種しました。
この記事の冒頭にも言ったように、ハンセン病の原因となる細菌「らい病」は、マウスでの人工培養が難しく、ハンセン病の治療薬の開発も困難です。
まして何千、何億本もの供給量が必要になる「ワクチン」の開発するための「らい菌の大量培養」は現実味が全くありません。
そのように笹川良一の息子「笹川洋平」も自身のブログで述べています。
ハンセン病患者が激減して、下がっていく治療薬の売上。そこで予防ワクチンという新しいビジネスを始めようとするが、ワクチン計画は失敗に終わったという風に、私にはそう見えます。
「ハンセン病は存在しない」と考えると辻褄が合う「ハンセン病の特徴」
「らい菌」の発見者ですら「らい菌」の存在証明ができていない。
限られた地域にしか生息しないアルマジロから「らい菌」が見つからない。
ハンセン病治療薬が毒ガスである抗がん剤の副作用と類似していること。
不衛生で栄養失調などで「皮膚が爛れた人」を「ハンセン病」という病名を付けただけではないか。
ハンセン病と同一視された「梅毒」
同様の症状を呈するハンセン病と同一視されていた時期があり、ハンセン病を患ったダミアン神父は、梅毒と誤認されて姦通の嫌疑を受けた。
Wikipedia「梅毒」
梅毒の治療薬ペニシリンによるアナキラキー・ショックで死亡者が多数
ペニシリンを世界中に普及させたのは、コロナワクチンを製造する「ファイザー」
「ハンセン病」と同様に、由来が曖昧な「梅毒」
笹川良一と二人三脚でハンセン病に力を入れる「WHO」
なぜ笹川良一は、わざわざWHO本部でハンセン病のワクチンを接種したのか。
出典元:https://twitter.com/Change_h__/status/1408214958127550464?s=20
笹川良一が世界で初めてハンセン病ワクチンをWHOで打ったのが1986年です。
1980年、WHO第33回総会において「天然痘撲滅宣言」が出されました。
このWHO総会には、笹川良一がマーラーWHO事務局長から特別に招待された。招待された民間人は笹川良一だけで、その他のメンバーは各国の政府代表者です。
1975年〜1979年の間に総計286万1880ドル(当時の通貨レートでは6億8680万円)を笹川良一は日本財団を通してWHOに資金援助しています。
この当時、WHOは笹川良一の支配下にあったと言っても間違いないでしょう。
この1980年の天然痘撲滅宣言をしたWHO総会の一年後の1981年に、WHO事務局長マーラーの立ち会いのもとハンセン病のワクチンを接種した笹川良一。
このように笹川良一とWHOはズブズブな関係です。
現在のハンセン病の治療薬と「創価人脈」
現在のハンセン病の治療法は、薬の耐性が出にくい「多剤併用療法(MDT)」です。
WHOは「多剤併用療法(MDT)」をハンセン病の「標準的治療法」として推奨しています。
この「多剤併用療法(MDT)」を開発したのはWHOの薬剤治療研究グループです。このグループのメンバーだった「湯浅洋」は「笹川保健財団」に所属する医師です。
笹川良一は、創価学会の牧口常三郎、戸田城聖と非常に濃い血縁関係です。
ハンセン病治療薬をWHOに無償提供し続ける「日本財団」
1994年、日本財団の理事長の笹川陽平は、ハンセン病治療薬「多剤併用療法(MDT)」を世界中の患者へ無償で配付するための資金として、WHOに対し5年間で5000万ドルを提供しています。
この活動は日本財団から世界第3位の製薬会社ノバルティスに引き継がれ、現在も続いています。
この製薬会社ノバルティスは、ビル・ゲイツから資金援助を受けて、コロナワクチンを製造する創価企業です。
ビル・ゲイツはWHOにも巨額の資金援助をしています。
ビル・ゲイツは群馬の別荘の地下で、創価・大本教信者と幼児誘拐・虐待し、国常立尊という悪魔に生贄を捧げています。
ビル・ゲイツと創価学会は「群馬」を悪魔崇拝の重要拠点にしています。
ハンセン病治療の重要拠点だった「群馬県」
ハンセン病を治療効果があると聞きつけ全国のハンセン病患者が集まった群馬県の草津温泉
宣教師コンウォール・リーによりハンセン病に効く湯治場としての地位が確立され、草津温泉郷にはハンセン病集落が出来ている。
1931年に「らい予防法」が制定されると、その直後の1932年には「国立らい療養所栗生楽泉園」が開設。
大正期には軽井沢からが草津まで鉄道が開通。
戦後、日本にもハンセン病治療薬「プロミン」が導入されるまでは、温泉療法によってハンセン病の湯治場として賑わいのあった群馬県の草津温泉。
群馬は、ハンセン病治療の重要拠点でもあり、かつビル・ゲイツと創価学会の悪魔崇拝の重要拠点です。
世界遺産に認定された”群馬”の富岡製糸場を設立したのは「渋沢栄一」です。渋沢栄一もハンセン病の中心人物です。
ハンセン病患者を強制収容できる「らい予防法」を成立させたのは渋沢栄一と北里柴三郎
1907年、「癩予防に関する件」という法律を制定された、日本全国でハンセン病患者を隔離・収容が始まりました。この法律は、1931年に成立した「らい病予防法」でもハンセン病の隔離政策は引き継がれました。
「らい予防法」を成立には、「渋沢栄一」と「北里柴三郎」が大きな力が働きました。
「渋沢栄一」と「北里柴三郎」の2人の当時の立場をみると、明治時代の「ハンセン病」の中心人物であることが分かります。
経済・政治の世界で莫大な力を持っていた渋沢栄一は「らい予防協会」の会長。
当時、世界の最高峰のドイツ医学を学び、感染症研究の世界的権威だった北里柴三郎。
北里柴三郎は伝染病研究所の所長。
1909年にノルウェーで開催された第2回ハンセン病学会に、北里柴三郎は招待され、集合写真には「らい菌の発見者:アルマウェル・ハンセン」の隣に座る。
聖公会の伝道者「ハンナ・リデル」の頼みに応じ、北里研究所の内田三千太郎を、ハンナ・リデルのハンセン病病院の研究所長にさせた。
またハンナ・リデルの病院の募金活動の文章にも発起人として北里柴三郎の名をある。
感染症の権威である北里柴三郎の発言は、感染症の「ハンセン病」の国の対策「隔離政策」に大きく反映されました。
ハンセン病患者を隔離政策を進めた天皇家と渋沢栄一
1931年、貞明皇后(大正天皇の妻)からの資金提供で「財団法人らい予防協会」が発足。
※ハンセン病は、当時「癩(らい)病」と呼ばれていました。
「財団法人らい予防協会」の会長は「渋沢栄一」
渋沢栄一が成立させた「らい予防法」を成立をうけて、ハンセン病患者を各都道府県で「0名」にするハンセン病患者の隔離運動「無癩県運動」が全国に広まりました。
「無癩県運動」の主な参加組織
日本MTL:賀川豊彦→日本基督教団の牧師、イエスの友会の主催者、世界連邦運動
三井報恩会:三井財閥
光明会:真宗大谷派(真言宗の一派)
※光明会
総裁:大谷智子(香淳皇后の妹)
相談役:渋沢栄一
渋沢栄一と北里柴三郎をつなぐ「ハンナ・リデル」
北里柴三郎は「日本近代医学の父」と呼ばれる細菌学者ですが、留学先のドイツから帰国した後、東京・芝公園に開設した伝染病研究所や東京・下目黒にあった慰廃園で熱心にハンセン病患者の診療にあたったことが知られています。
一方の渋沢栄一は実業家として「日本資本主義の父」と称されますが、社会福祉の面でも数々の功績を遺しています。東京市養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)の初代院長としてハンセン病の診療にも関わり、熊本に「回春病院」を設立したハンナ・リデルらの事業を応援したことでも知られています。
引用元:社会福祉法人ふれあい福祉協会HP
ハンセン病問題を全国的に訴えて日本のハンセン病政策を大きく動かした宣教師「ハンナ・リデル」
ハンナ・リデルは聖公会のイギリス人の宣教師です。日本に来日して1895年に熊本県にハンセン病病院である「回春病院」をつくった人物です。
ハンナ・リデルは渋沢栄一だけではなく、大隈重信とも強いパイプがあり、ハンセン病病院の「回春病院」の設立にも、ハンナ・リデルのハンセン病問題を訴える活動にも積極的に支援しています。
ハンナ・リデルが日本の有識者にハンセン病問題を訴えることで、日本のハンセン病の政策に多大な影響力を与えました。
大隈重信は以前から回春病院の園内美化のために桜、楓を寄付した。
リデルの経済危機に際し、全国的にハンセン病問題を訴えた方が効果的であると忠告した。
また、渋沢栄一は、代表的な実業家であり、ハンセン病に積極的に関心を持った。リデルが最初に来た時は僅かではあるが1万5600円の金を寄付したと書いている。
大隈重信の相談にのり、銀行会館で全国的なハンセン病の会議を開いた。経済的危機に陥ったリデルの経済的支援のため、1905年に銀行会館で、有識者の会議があり、同時に日本のハンセン病問題が討議された。
公的なハンセン病対策が開始されたが、リデルは公的にも補助を受け、経済的にも一息ついた。この会議を機会にリデルはひのき舞台に上がったのである。
回春病院を非営利の団体と認められ、非課税となった。
引用元:Wikipedia「ハンナ・リデル」
ハンナ・リデルは姪のエダ・ライトとともに、熊本の回春病院でハンセン病患者の介護に尽力したとあります。
ハンナとエダの二人は毎年7,8月の夏の休暇で募金活動し「軽井沢」に行くことを恒例としていました。軽井沢では卓球のトーナメント大会を開催して資産家から募金を募っていたそうです。
この当時、軽井沢には日本全国からも、中国からも何百人もの宣教師が集まっていたそうです。
お金持ちと宣教師が集まる「軽井沢」では何が行われていたのでしょうか?
宗教施設だったハンセン病療養施設
日本のハンセン病の歴史に大きく寄与したハンナ・リデルは、聖公会の宣教師です。ハンナ・リデルはハンセン病療養施設をつくりハンセン病患者に布教を進めています。
日本のハンセン病療養施設には、宗教家にとっては慈善活動ができ、ハンセン病患者を伝道できる「伝道拠点」という側面がありました。
キリスト教:カトリック教会は全ての療養所に存在し、また以前は医師なども信徒が多かった。日本のハンセン病の歴史上、キリスト教系の病院も多く(中略)。聖バルナバ (St.Barnaba) 医院を中心とした草津のミッション、熊本は回春病院の聖公会、神山復生病院、奄美和光園、熊本待労院などのカトリック、宮古島の甦りの会(キリストの教会ともいう: 南静園ではカトリックを含めてキリスト教だけで現在も3つの教会がある)、キリスト教徒が設立に関わった沖縄愛楽園などがある。他の園でもキリスト教の意義は大きい。
仏教:深敬園が日蓮宗という日蓮宗僧侶が設立したが、他の仏教系はない。しかし他の療養所では、多くの宗派からの働きかけがあり、お寺が建立され、行事は頻繁に行われた。九州療養所では大きな寺が建立され、当時祭壇が7つあった。
(中略)
また天理教が熱心であり、一時は独自の集会所を数か所の療養所に設立していた。
宗教者としては仏教で綱脇龍妙、小笠原登、山中捨五郎、キリスト教者としてはテストウィード神父、ハンナ・リデル、コール神父、コンウォール・リー、太田国男、青木恵哉、ゼローム神父が知られているが他にもいる。
ある入所者は「療養所に入ると、かならずどこかの宗教に入るように言われます。それはここで死んだ時、お葬式を出すからです。」と書いている。
当時、各宗派の宗教がつくったハンセン病療養施設の数は以下の通りです。
真宗(報恩会) - 757
真言宗(真愛会) - 85
日蓮宗(報国会) - 89
天理教(同友会) - 11
金光教(求心会) - 9
日蓮正宗(創価学会) - 51
カトリック(暁星会) - 124
聖公会(黎明教会) - 95
療養施設に入所するハンセン病患者は、ピーク時には1万2000人いました。
元731部隊の北里柴三郎とハンセン病患者と隔離施設
北里柴三郎と渋沢栄一によって成立した「らい病予防法」によって、ハンセン病患者の隔離が始まりました。
ハンセン病患者は家族に迷惑をかけないよう、実名を隠して、偽名を使う人が多かったそうです。
また外部から隔離されたハンセン病患者の様子は、外部からは分かりづらい状況になっています。
ハンセン病患者が触れた通貨から感染が広まらないように、ハンセン病療養施設の中でしか使用できない特殊通貨が流通していたぐらい当時の隔離政策は徹底しています。
北里柴三郎は、満州国で人体実験をしていた元731部隊です。
731部隊は、人間のことを「丸太」と呼んで、ペストや梅毒の菌を混ぜた飲み物・饅頭を食べさせ人体実験をしていました。
ハンセン病患者は外部から完全に隔離され、名前も偽名を使っているので、たとえ死亡しても病死と言えます。
元731部隊の北里柴三郎にとっては、ハンセン病患者が絶好の実験体のように見えたことでしょう。
「軽井沢と群馬を結ぶ東急グループの鉄道」と「渋沢栄一」
ちなみに、持ち運びできるカメラ、ライカが登場したのが1925年です。
ハンナ・リデルの姪エダ・ライトがハンセン病療養施設で働き出したのが1923年です。
この時期からハンナ・リデルと姪エダ・ライトが毎年「軽井沢」に行っています。
なぜハンナ・リデルがお金持ちから資金を集められたのか?
ハンセン病療養施設での人体実験の様子を収めた写真を売買していた可能性も無きにしも非ずだと思います。
少なくとも、卓球をするためだけに熊本から軽井沢まで足を運ぶとは考えにくいです。
草津温泉の治癒効果を聞き、日本全国からハンセン病患者が集まった「群馬の草津」から「軽井沢」までの鉄道の路線が1915年〜1926年にかけて順次開通したことも繋がりがあるように感じます。
草軽電気鉄道とは長野県北佐久郡軽井沢町の新軽井沢駅と群馬県吾妻郡草津町の草津温泉駅を結ぶ鉄道路線(軽便鉄道)を運営していた鉄道事業者(廃止時は東急グループ傘下)。
草津温泉は古くより名湯として知られていたが、明治終わりの頃になっても交通機関が未発達であった。草軽電気鉄道はスイスの登山鉄道に着想を得て、軽井沢から草津や浅間山麓の高原地への輸送を目的に着工されることとなった。大正期の1914年 - 1926年に順次路線を開通させた。
この軽井沢と草津を結ぶ「草軽電気鉄道」を運営していたのは「東急グループ」ですが、東急グループの設立に大きく貢献したのは「渋沢栄一」です。
東急グループの公式Twitterで「東急グループは渋沢栄一のDNAを継ぐ企業」と書かれています。
渋沢栄一は、草軽電気鉄道を通してもハンセン病との繋がりが深いことが分かります。
【閲覧注意】この先はグロテスクな内容になりますので、ご注意ください。
「人間の脳」がハンセン病の特効薬と信じられていた民間療法
1933年、当時日本が統治していた朝鮮で幼児の変死体が見つかる事件がありました。
内容がグロテスクので気分を害される方がおられると思うますので、詳細は省きますが、ハンセン病とカニバリズムはつながりがあります。
韓国独立運動家の金九は、割股して病気の父に食べさせている。
この民俗療法の風習は、元々梅毒の治療のために行われたと推察できるが、後にこれらの病に留まらず不治の病とされるもの全般に行われるようになり、日本統治時代の昭和初期に至っても新聞記事の中にも長患いの夫に自分の子供を殺して生肝を食べさせる事件や、当時は不治の病とされたハンセン病の薬として子供を山に連れて行って殺し、生肝を抜くという行為が散見される。
Wikipedia「カニバリズム」
インドのヒンドゥー教の一派である食人族「アゴーリ」は、村にハンセン病隔離エリアを作り、2.5万人のハンセン病患者の面倒をみているそうです。
インドも池田大作が創設した「BRICS」に属する創価の国です。
コロナとハンセン病の類似点
コロナは存在しません。
コロナパンデミックは大本教の計画を、創価学会が実行したものです。
①ハンセン病の関係者が創価とズブズブな関係(笹川良一、WHO、製薬会社ノバルティスなど)
②感染予防のため非接触の通貨「電子マネー」と「ハンセン病療養施設内で流通する特殊通貨」
③軽井沢と群馬人脈(毎年、軽井沢にいくハンナ・リデル。ハンセン病治療に効くとハンセン病患者が集まった群馬県の草津と軽井沢を結ぶ鉄道の開通)
④人との距離を取る感染症対策
⑤治療薬・ワクチンの重篤な副作用
⑥政府、民間が結託して「ハンセン病は恐ろしい」「コロナは恐ろしい」という洗脳と言論弾圧。
⑦コロナウイルス、ハンセン病のらい菌の存在証明がされていない
これらのことから「ハンセン病は存在しない可能性が極めて高い」と言えます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?