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幼少期の思い出

自分の過去振り返りシリーズ。
今回は保育園の思い出。

私は結構保育園の思い出が鮮明に残っているほうだと思うので、自分がどんな子供だったかを思い出してみることにします。

①お兄ちゃんが保育園の迎えに来てくれた
両親が共働きだったので、お兄ちゃんが自転車で迎えにきてくれて2人乗りして帰ったことを覚えています。ある日、後ろに座っている私が誤って後輪部分に足をつっこんでしまい、当然走行中なので足がストッパーになって、車輪がとまり、痛みで大号泣した記憶があります。今も想像するだけでゾワゾワしますが、この事故によって私のすねあたりの骨にくぼみが入り、大人になった今でも少し骨が凹んでいるのが触るとわかります。笑

②組で1番帰るのが遅いことがしばしば
両親が共働き+お兄ちゃん2人も中学生になって部活が始まり、迎えが夜遅くになって、1人で先生と遊んで待っていた記憶があります。今思うと保育士の皆様に感謝です。ただ、その時に心の中で「私ってお母さんが遅くても駄々こねず健気に過ごしているでしょ」ってどこか自慢げというか、自分って偉いよね、みたいな謎のマインドになっていた記憶というか感情を未だに鮮明に覚えている。その時の情景とかも。不思議です。

③男の子の髪の毛をひっぱって泣かせたこと
お兄ちゃん2人ということもあって、なかなか女の子と遊ぶのが苦手だった私。男の子たちと戦隊モノごっこてきなものをして戦っていた時に、私がある男の子の髪の毛をモサっとする攻撃(引っ張ったつもりはなかった)をしたら、その男の子が大号泣してしまい、私もごめんねを連発しながら大号泣。組のみんなも私たちの周りに集まって、プチ騒動みたいになりました。心の中でそんなことで泣くなやと思いながら、反省の意を示すために大号泣していた感情を鮮明に思い出せます。もう二度とモサっと攻撃はしないと誓いました。

④どうしても手を繋ぎたくなかった
保育園ではどこ行くにしても男女で2列になって、隣同士で手を繋がせるっていうのがあります。私はいつも隣の男の子と手を繋がないようにしていて、でも繋いでなかったら先生に言われるから、袖とかを掴んでいたような気がする。なんか彼の手が湿っぽいのが嫌だったような…。でも今思い返すとその子はフィリピンと日本のミックス(ハーフは差別用語に当たってしまうのかなと思ってこちらの表現にしました)だったような気がしていて、子供ながらに私はもしかしたら偏見を持っていたからそんな行動をしてしまったのかもしれないとも感じています。

⑤3年間お昼寝で一回も寝れなかった
これは本当に困っていました。みんなぐっすり寝てるけど、私はいつも寝れなくて、でも寝れてないことを先生に気づかれたくないから、先生が見回りに来た時は寝たふり。なんで私はみんなと同じようにお昼寝できないんだろう、むしろみんなはなんで家以外の場所でそんなに気を許せるのだろう、とかずっと考えていた記憶があります。寝てしまったらなんかあった時に対応できないとか考えていたんでしょうか。スパイの血が流れ過ぎてたみたいです。

⑥先生にジャンプサーブやってってお願いしてたこと
私が保育園の頃、8つ離れた長男がバレーボールをやっていたのですが、家でジャンプサーブというワードを何回か聞いていたこともあり、先生に「ジャンプサーブやって!!!」と頼んでいた謎の記憶があります。先生困ってたなあ。本当に申し訳ないです。ジャンプサーブ、というワードを知っている自分を自慢したかったんだろうなと今は思います。

⑦目立つことが嫌で後ろに隠れていたこと
お遊戯会?かなんかで舞台で演技したりダンスしたりしなきゃいけないのが当時は嫌すぎて、お父さんお母さんに自分の姿をなるべく見られないように、他の子の後ろに隠れてポジションどりをしていた記憶あり。その時の情景は今でも覚えています。何が嫌だったんだろうか。天使の格好をしていたからなのか、馬鹿にされると思っていたのか、とにかく目立ちたくなかった。

他にもまだまだ記憶はあるけれど、代表的なものが以上。こうやって考えると4,5歳にしてHSS型HSP気質が爆発している出来事が多くて少し面白い。当時から今と変わらない立派な「私」が出来上がってたのかもしれないと思うと、なんだか不思議。

そう考えると私も子供との接し方を考えなきゃいけないなと思う。いくつであろうと立派な1人の人間である、という事実を忘れちゃいけない。というなんとも当たり前なことを言いました。

当時大好きだった坂本先生。元気にしてるかしら。

以上、誰得でもない、自分語り幼少期編でした。

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