見出し画像

【旅行記】令和初ビールをヒヴァで飲む - 時代の変わり目をウズベキスタンで迎えてみた(その8)

2019年のゴールデンウィーク、平成と令和の変わり目に最近注目のシルクロードの国、ウズベキスタンを訪ねた旅行記です。
城塞都市、ヒヴァで元号が変わった話。

■ 旅程

4/26 成田→韓国→北京
4/27 北京→アルマトイ→★タシケント→★サマルカンド 
4/27 サマルカンド→★ブハラ 
4/28 ブハラ    
4/29 ブハラ→夜行列車でウルゲンチ
4/30 ウルゲンチ→★ヒヴァ     ←今ここ
5/1  ★ヒヴァ→タシケント
5/2  タシケント→アルマトイ→北京
5/3  北京→仁川→成田
(★:主要都市)

■ 深夜特急(ブハラ発ウルゲンチ行)

4月30日未明、平成最後の日のことである。
ひた走る列車のコンパートメントで私は一人PCを叩いていた。

ブハラからめざす目的地、ウルゲンチまでは鉄道で約6時間。
前回ハンマム(蒸し風呂)※リンク参照 で汗をかき、たらふくビールを飲んだ我々は一度宿に戻って荷物を整え、まさしく丑三つ時に駅に到着。

4人乗りの真っ暗なコンパートメントに通されると、風呂と深酒と深夜というコンボで、すぐさま深い眠りに落ちていった。

私以外は。

なるべく見ないように努めてきた仕事がいよいよ切迫してきたので、移動時間で仕事せざるを得なくなったのである。1時間の仮眠のキーボードを叩きまくること数時間、夜が明けてきた。

完全に自業自得なのだが、なんで自分は中央アジアの深夜特急でパワポ作っているのだろう、と自問する。毒づいてはみるものの、日ごろと全く異なる環境で仕事したのが奏功したか、あるいは隣で爆睡する同行者への(まったく正当性のない)怒りのためか、ものすごいスピードで仕事を完了させることができた。

終わったころには日も明け切っていたため今更眠る気にもならず、草原をひた走る列車の窓から風景をぼんやりと眺めていた。

ウズベキスタンの車窓から

■ ウルゲンチでの出会い

午前10時過ぎ、ホラズム地方の中心地、ウルゲンチに到着。ウルゲンチは首都タシケントから1,000km以上離れており、トルクメニスタンにほど近いオアシス都市だ。

我々が目指すのはウルゲンチから車で30分ほど離れた城塞都市、ヒヴァ。
直接ヒヴァに行く鉄道や空港がないため、まずは鉄道駅からバスで町の中心部をめざす。

駅は地元民、欧米のバックパッカー、日本人旅行者が混じって雑然としていた。以前別の町で出会った日本人観光客とも再開し、一緒にヒヴァを目指すことに。その方は女性ながら世界一周を経験した剛の者で、ヒヴァからトルクメニスタンに抜けると言っていた。すげぇ。

ウルゲンチ駅

両替のため銀行に立ち寄り、銀行の隣にあるバス乗り場からヒヴァ行きのマイクロバスに乗った。バスはそこそこの頻度で出ているのだが、15人ぐらいの乗客が集まらないと発車しないため、タイミングによってはそこそこの待ち時間も発生する。

バスの中で現地の女性2人組が英語で話しかけてきた。2人は学生で、うち1人は大学で観光を学んでいるとのこと。ヒヴァに向かうという我々にレストランや宿の場所を教えてくれたばかりか、わざわざ途中でバスを降りて、宿まで案内してくれた。

このシリーズでもたびたび紹介してきたことだが、とかくウズベキスタンは親切な人が多い。それが日本に対する好感によるものなのか、旅人に施すべしというイスラムの教えによるものなのか、はたまた風土が育む国民性なのかわからないが、人に元々備わっている共感と優しさに触れたような気がする。

なんかいい話っぽく書いたが、現地女性に話しかけてもらえた我々男性陣は鼻の下伸ばしっぱなしだったことは、公正を期すため書き添えておく。


■ 城塞都市、ヒヴァ

ヒヴァは2重の城壁に囲まれた城塞都市で、1920年代の赤軍革命で破壊されるまで同地の王朝における堅固な要塞として機能していた。

「内城」を意味する「イチャン・カラ」内部がまるまる博物館都市としてユネスコの世界遺産に登録され、モスクや霊廟などの建造物が往時をままに残されている。外側の「ディシャン・カラ」周辺にも宮殿跡などが点在する。
できれば1日かけてじっくり見て回りたい街だ。

チケット売り場がある西門(オタ・ダルヴァザ)

街を象徴するのが2つの高い塔、イスラム・ホジャ・メドレセのミナレットとジュマ・モスクのミナレット。らせん階段は狭くて薄暗く、急なので上るのが大変だが、上から街を一望することができる。風に当たりながらぼんやりと地平線まで眺めているととても心地よい。

ジュマ・モスクのミナレットからの眺め

カルタ・ミナル

イスラム・ホジャ・メドレセとミナレット

ジュマ・モスクは内部の建築も有名で、細かい彫刻の施された木の柱が一面に立ち並ぶ。中には10世紀に作られた柱もある。光が十分に届かないため、薄明かりの中に柱が浮かび上がる光景はとても荘厳だ。

また、イチャン・カラのモスクやメドレセ(神学校)は内部が博物館や美術館になっているものも多い。そのうち1つの博物館で、シャム双生児のような体が1つで頭が2つある胎児のホルマリン漬けが無造作に展示されていたのだが、あれはいったい何だったのだろうか。展示室の壁に満面の笑みを浮かべた夫婦の写真が貼ってあったのもめちゃくちゃ怖かった。

これは普通の博物館。現地の高名な歌手らしい

メドレセ中庭

■ 時代は令和へ

夕方、バスで乗り合わせた日本人の方と屋外レストランで合流。レストランは先の現地女学生に教えてもらった場所だ。綴りがわからないためGoogleで探すこともできず、うろ覚えの音だけを頼りに遺跡の警備員に聞いてみたのだが、辿り着けてよかった。

ウズベキスタンの食事情は別にご紹介したいのだが、ここの羊の串焼き(シャシリク)は絶品だった。

ウズベキスタンと日本の時差は4時間。日本の方が進んでいるので、ウズベキスタンの夜8時ごろ日本は日付が変わる。

そしてこの日は4月30日。4月の、そして平成最後の日だ
平成生まれの自分は元号の変わり目に立ち会うのは初めてだ。よもや令和を海外で、それも中央アジアで迎えることになるとは思わなかった。

新天皇即位だろうと何だろうと周りのウズベク人にとっては普通の1日の終わりでしかないわけで、そんな中で改元を迎えること自体、とても不思議な感じがする。ただ単に盛り上がる理由を探しているだけなのかもしれないが、今のところはそれでもいいやと割り切って、4人で乾杯して談笑した。

宿に戻ってFacebookで後輩たちが平成駆け込み婚やら令和婚やらの報告を相次いでしているのを見て、勝手にショックを受けたりもした

令和になってはじめて撮った写真。猫に夢中かよ。

ここまでお読みくださりありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?