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守旧

1:雑談から

今通っている韓国語教室の先生(おb姉様)が、日本の銀行や役所行って手続きをするときの手間について時々話をしてくださる。
曰く、とにかく手間と時間がかかる、とのこと。
窓口→後ろの役付きの人or他の係の人→上役→承認→窓口…といった具合なのが日本の役所や銀行だが、韓国の場合だと、窓口の人の手元の端末でまとめて処理されて手続きがあれよあれよと進むという。
このおb姉様先生の話を聞くうちに、自分は
「日本のホワイトカラーの仕事の進め方は、電子計算機の時代のままだな」と思った。

昔ちょっとかじっていた行政学のテキストに出てきた『稟議制』のことを思い出した。
書類をヒラ役の人から上役に回していく過程で印鑑をついてから回していく、というアレ。



それぞれの役職ごとに電子計算機(かつてのNECのPC9801シリーズ、百歩譲ってWindows95対応機のイメージ)が割り当てられ、計算機は企業や官公庁ごとに組まれた電算システムの子機以上のものではない、インターネットから切り離された時代のまんま。
仕事の仕組みもアナログ時代の稟議制の枠組みのままで、そこに電子計算機を当てはめただけの組織のままで今に至っているのではないか、そう感じたのである。
おb姉様には、アナログ時代のかたちのまま2020年代まできた日本企業や官公庁が珍奇に見えたのかもしれない。

…ということを、最近のマイナカード(個人番号=マイナンバーを役所で使うためのカード)にまつわるゴタゴタや、パンデミック時の保健行政のシステムが運用停止されて過去の枠組み(ファクスや紙ベースの運用)に戻ったとかいう話題を聞くうちにふと思ったのである。

ちなみに、自分は通関士試験('21・'22年受験)と社会保険労務士試験('05年・'06年受験)の受験経験があり、社会保険労務士についてはちょっとだけ実務で関与していたが、
通関業務のシステムも、労働保険(労災保険・雇用保険)のシステムも、旧い電算機のシステムの枠組みの延長にあるように思えてならない。


おまけ:JRの『マルス』についても類似の問題があるようだ。

2:『日本の統治機構について』

統治機構だけでなく、日本の組織というものは、つまるところ『古くなったものを後生大事に使っていく』性格があるようである。
第二次世界大戦時の日本軍は、19世紀末に採用された三八式歩兵銃を武士の刀のようにシンボル化していたのか長い期間使ってきたという話を聞いたことがある。
元々の貧乏性ゆえなのか。


以前読んだ司馬遼太郎氏の随筆『古往今来(こおうこんらい)』収録の『日本の統治機構について』より(『翔ぶが如く』執筆後の随筆)一部紹介しておきたい。

司馬氏は『翔ぶが如く』の執筆にあたり、『日本の統治機構は、政府というべきなのか、それとも「官」といったほうが語感として本質に近いものなのか』考えてきたとのこと。

ある日、司馬氏と友人が酒を呑んでいたときに友人が不意に杯を置いて、
「日本の政府は結局太政官(だじょうかん)ですね。本質は太政官からすこしも変わっていません」
「私ども役人は、明治政府が遺した物と考え方を守ってゆく立場です」という意味のことを司馬氏に語っていた。

司馬氏の思考整理につきあってみる。
『よく考えてみると、敗戦でつぶされたのは陸海軍の諸機構と内務省だけであった。追われた官吏たちも軍人だけで、内務省官吏は官にのこり、他の省はことごとく残された。
機構の思想も、官僚としての意識も、当然ながら残った。太政官からすこしも変っていません、というのは、おどろくに値しないほど平凡な事実なのである』
基本原理だけでなく、仕事の進め方までもが明治時代の『官』の基本思想の影響を強く受けたまま2020年代まで残ってきた、といっても言い過ぎじゃないかもしれない。
マイナカード・旧住基ネット・一昔前の年金記録問題…も、平たくいえば『太政官時代の本質』のあらわれとみることもできそうだ。
ちなみに、司馬氏は『日本の統治機構について』で本邦の野党についても触れているが、回を改めてこのことはnoteに書きたい。

3:日本の産業構造について

野口悠紀雄氏のツイートや『ダイヤモンド』への寄稿を時々拝読させてもらっている。


上で引用した寄稿より野口氏の意見を一部抜粋する。
・円安→企業の利益の自動的増加→技術開発したりビジネスモデルを考案したりする必要はない→産業構造の変化に伴うさまざまな摩擦現象も回避できる
・『このために全要素生産性の伸びが止まり、そして賃金の伸びも止まってしまったのだ』
・2000年代頃から始まった「円安政策」はアベノミクス以降の10年間さらに強化された
・金融緩和と円安によって成長のための基本的なメカニズムは破壊されてしまった
・『日本の産業構造は、2000年ごろから基本的には変わらない。変わったのは、それまで日本の主力産業だった電機産業が凋落したことくらいだ。新しい産業が登場したり、新しい技術が開発されたり、新しいビジネスモデルが使われたりするような変化はなかった。』


野口氏の意見を参考にすると、日本の経済界は
・黒字決算が出やすい円安政策に依存しすぎた
・黒字決算が続くなら『今まで通りでよくビジネスモデルを変える必要を感じない』
・労働者の賃金を上げる必要性も感じなくなった
・『円安政策』を強化したのが『アベノミクス』
ということになるだろう。

野口氏の寄稿と合わせてコンビニエンスストアのオーナー氏の話題を合わせて読むと、日本は平成バブルの栄華に酔い続け、酔いが覚めないまま、いや、若かった頃の己を取り戻そうと『夢よもう一度』をやっているように見えてならない。

コンビニエンスストアなどの小売業のみならず、あらゆる日本の構造が『人口ボーナス』に乗っかってきたにすぎず、明治時代まで遡る『帝国主義』の思考回路のまま就職氷河期や小泉構造改革やリーマンショックや東日本大震災やパンデミックの時代を『なにもせぬほうがよい(参考:小松左京『日本沈没』)』とやり過ごしてきたようである。

日本だけでなくいわゆる『先進国』についての人口予測だけは当たるといわれてきたが、事ここに至って日本は『なにもせぬほうがよい』を続けるのか。
『命は鴻毛より軽し』と日本人はまだ思っているのだろうか。

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