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映画『ノルマル17歳。 -わたしたちはADHD-』:”普通”って何だろう?

僕は神経発達症(以下、発達障害)のASD(自閉症スペクトラム)当事者です。
つい先日、以前からXで見かけて気になっていた『ノルマル17歳。 -わたしたちはADHD-』という映画を観てきました。感想をシェアします。

発達障害の当事者からあまり詳しくない人まで、人生のどこかで「あるある」と体験したことのある内容だと思います。気になったらぜひ観てみてください。

あらすじ

以下、簡単なあらすじです。

絃(いと)は進学校に通う真面目な学生であるが、ADHDによるひどい物忘れに悩んでいた。

ある日、重要なテストに寝坊してしまい、落ち込んで登校せず街をさまよう。そこで、同じくADHDを持つ派手なギャル女子高生・朱里(じゅり)と出会い、意気投合する。
朱里との出会いは絃に新しい世界を見せ、二人は友達になる。しかし、絃の母親は朱里との交際を禁止し、朱里も家庭内で孤立していく。

やがて、二人の距離は次第に広がり、元の日常に戻りつつあったが…。

タイプの違うADHD(注意欠陥・多動性障害)を持つ女子高生ふたりの友情物語です。
このふたり、一方はギャルで一方は進学校の真面目な生徒と、性格としては正反対。ひょんなことから出逢ったこのふたりが、ADHDという共通項から紡いでいく友情が見どころのひとつです。

”普通”とは?

この映画を観ながら(そして観た後の今も)「”普通”とは何か」を考えさせられました。

発達障害を持つ我々には常日頃、「自分は世の中の”普通”から外れているんだ」と思わされる体験が多くあります。
この映画も例にもれず、ADHDを持つ人々が日々感じているそれらの体験をふんだんに詰め込んだものとなっています。ADHDの診断が降りていない僕でもグサグサと心に刺さるものがあり、身につまされる思いがしました。

発達障害を持つ人には脳の特性上、どうしてもできないことがあります。

でも、パッと見では判別できないから理解してもらえない。
何でもないように立って歩いていますが、本当は”脳の車いす”が欲しいのです。

理解者の重要性

よくSNS上で「発達障害あるある」を見かけることは多いです。近年は認知も広がっており、なんとなく知っている人が増えたように思います。しかし、発達障害は難しいです。
現代の医学、神経科学ではその原因も、特性の消し方もわかっていません。当事者および周辺の人は特性と付き合っていく必要があるのですが、発達障害自体が難しいがゆえにそれもまた難しいのです。

では発達障害を持って生まれたら、「”遺伝子ガチャ”に外れてしまった」と絶望するしかないのか。僕はそうは思いません

障害を持っている人が希望を持って生きるための重要なファクターのひとつが、理解者の存在です。
僕自身、発達障害をカミングアウトできる友人らの理解があって、助けられていまこうして生きています。この”助けられている感”が無かったらと思うと怖くてゾワッとしますね……。

この映画でも、ふたりの主人公がお互いの一番の理解者として精神的な支柱となることでそれぞれの困難に立ち向かう描写があります。
家族や同級生から無遠慮な言葉を投げられて傷つき、悩み、絶望する。
そんな状況を打破する力が理解者の存在にはあると、改めて思いました。

また、この映画では「理解者」が当事者でしたが、必ずしも当事者である必要はありません。
周囲の人が可能な限りで発達障害の知識を持ち、十人十色である特性に個別に向き合うことこそが重要だと思っています。

色眼鏡で見ず、特性を把握し、できる範囲でいいので寄り添ってあげてください。

発達障害の当事者から皆さんにひとことお願いできるとすれば、こんな感じになるでしょうか。

#夏に観たい映画


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