サービス化するつながり 3. 「サービスとしての人」を超えて

サービス化したつながりと類似した概念として、「サービスとしての人」を議論に導入し、その対比の中で「サービス化したつながり」の問題点を説明する。

ここでの「サービスとしての人」は、マルクスの疎外論で語られたような、資本主義により変容されられた人間の一形態として定義する。フードデリバリーの労働者や、まるで心のこもっていない挨拶を"発音する"店員がわかりやすい例だろう。もちろん人間であることは間違いないものの、サービスとして機能し、サービスとして扱われる。

サービスとしての人は、資本主義により人間性を喪失させられた悲しい存在ではあるものの、本論ではこの事実は重要視しない。なぜなら、サービスとしての人は特定の場面、条件において、いわば"演じている"だけの存在であり、その人本来の人間的な性質を根本から変容できないからである。したがって、人間的なつながりそのものは、資本主義の枠組みにおいてはサービス化してきたものの、それ以外のつながりは元のままである。

実際のところ、たとえば、資本主義の成立から時間が経ったはずの20世紀後半の日本社会に目を向けたとして、人間関係も含めて人間らしさが喪失しているといえるだろうか。少なくとも現在の日本社会から見れば、そのようなことは言えないだろう。

一方で、つながりのサービス化は、人間的な、ある意味で動物的な、本来的な人間関係の在り方を崩壊させ、手段的で刹那的な関係性を"当たり前"に置き換えるという、根本的な価値倒錯をもたらす危険性をはらんでいる。つまり、「サービスとしての人」は、資本主義の文脈において社会的見地から見た人間のいち側面でしかないが、「サービス化するつながり」は人間的なつながりそのものが"サービス"という資本主義の枠組みのいち部品に成り下がることを意味する。

そして、すでにこの倒錯は、個々人による合理化を通じて現実化している。つながりを一度でもサービスとして消費してしまうと、人がサービスに見えてくることもあるだろう。翻って、自分自身もまた、他者からサービスとして見られうることを自覚しなければならない。最初はそういったつながりの在り方に違和感を覚えたとしても、合理化によってその不協和はいつしか消え、それが当たり前であるとしか感じられなくなる。かくて、サービス化したつながりは社会に正当化され、友情は社会から淘汰された後、"絶滅危惧種"になるだろう。

とはいえ、こうした個人の認識の変化はまったくもって異常なことではない。現代の社会構造上、つながりがサービス化するのは当然であって、それが社会的に受容されることは必然である。では、つながりがサービス化する社会的な背景や要因は何か。複雑な因果関係から特に重要と思われるものを抽象し、説明する。

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