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14日間飲まず食わすで生きてくれた愛猫から教わったこと

こんばんは。
マトリョーシカです。

下書きを整理していたら、お蔵入りの記事を見つけ読み返してみた。
やっぱり涙が出てしまう。

愛猫がこの世を旅立ってから半年経ちました。
未だにいなくなったことが信じられないけれど、
わたしなりにこの経験で得た気づきを、
共有できたらなと思い投稿します。

新しい年を迎え、
コロナ渦が続く中、
急にわたしの身の回りの当たり前が消失してしまう出来事があった。

ご長寿猫チロのことである。

新年も当たり前に家族と迎え、
空気のように居て当たり前だった愛猫が、
突然倒れた。

父がその現場を1番に見つけ、
もう長くはないと思ったそうだ。

餌を吐き戻し、力尽きて倒れ、
身体の半分が変に痙攣していたそうだ。

すぐに家族全員に、
チロが危ない状況であることが知らされ、

心配になった私たち兄弟は、
チロとの時間を過ごそうと実家に集まった。

わたしが帰った日は、
だいぶ身体が憔悴していて、
わたしが帰る夜に間に合うか微妙な様子であったそうだ。

実家に戻ると、
茶の間の1番暖かい場所で、箱ずわりをして待っていてくれたチロ。

ちょっと前までは、
夜中階段を駆け上がって夜鳴きしたり、朝はのっしのっしと、家中パトロールしたり、
あんなに元気だった愛猫。

そのチロは、もういなかった。

ぐったり寝床に身体を預けて、
かろうじて息をしている様子。

御行儀よく、長い尻尾を身体に巻きつけて、
箱ずわりすることも、
大好きなグルーミングも出来なくなって、
ただ横たわる疲れたモップのようだった。

そんなチロを見ていたら、
きっとチロがまだちっちゃな赤ん坊だった頃、お母さんにグルーミングされていたように、
して欲しいんじゃないか?

と思い、
猫用のブラシで、

いつもチロが自慢げにお披露目していたグルーミングの通りになぞって、

毛をとかす。

ここは、チロが気持ち良さげにしていたところだったなと思う場所は、

念入りにとかす。

頭のてっぺんから、尻尾まで溶かしたところ、

チロにとって心地よいマッサージだったらしく、

急にアオーンと鳴いて、立ち上った。

その様子に、母が驚いて、

あんなに憔悴しきっていたのに、
立ち上がる元気もなかった様子だったのにと教えてくれた時は、

私も驚いたし、もしかしたら良くなる兆候ではないのか?と前向きに思った。

時間が許す限り一緒に過ごし、
グルーミングをしながら、
チロとの楽しかった思い出を語り、
ありがとうの気持ちと、
また元気な姿見せてねと励まし続けた。

その夜、

また不思議な事が起こった。

少し席を外し戻った時、

大きな声でアオーンアオーンと鳴き、

寝床から立ち上がったと思うと、

私の膝の中に入り丸まった。

あの、抱っこするのも、膝に来るのも嫌がり、
いつも逃げてばかりのツンデレ猫が、
自ら甘えた声で来てくれたことにとても驚いた。

満足いくまでわたしの膝の中で休んだ後、
また、しっかり足を踏ん張って立ち上がって、

ヨロヨロと台所の方へ進んだ。

その先には、猫砂がある。

トイレに力強い足取りで向かう後ろ姿を母と2人眺めていて、

無事、猫砂に到着。

最後の関門、
前足、後ろ足を一歩ずつ跨ぎ猫砂に入る。

ここからはいつものポーズで、
尻尾をピーンと伸ばし、

そのあとは砂をかける。

用が済んだ猫砂から出て戻ってくる。

でも、真っ直ぐ歩けずその場を何度も右回転したり、壁にぶつかって困惑するチロ。

もう目が見えないんだね。

そう思って、

チロこっちだよと、何度も何度も励ますように呼んだ。

そしたら、
声を頼りに軌道修正して、歩きはじめる。

途中、力が抜けてその場にしゃがむこともあったけど、

また立ち上がって進む。

しゃがむ。

立ち上がる。

を繰り返し、

チロが次に行きたかった場所。

それは餌場だった。

1週間以上、何も受け付けなかったのに、

餌をくんくん匂いを嗅いだり、水を飲もうとしていた。

その様子は、
帰ってきたわたしに、
まだわたしはこんなに元気でしょ?

とパフォーマンスを見せてくれていたのだと、
後々になって理解した。

そのトイレに行って餌場に行く。

ちょっと前までは、当たり前の行動だったことが、

今のチロにとっては、重労働で、思うように身体を動かせない状況で、

だから、戻ってくるとまたペタンと身体を横たわらせ、疲れた顔をしていた。

母が言うには、
倒れてからこんなに長い距離歩けない状態であったし、
まして、自分でトイレ行ったり、餌に興味を持つなんて奇跡のようだと。

そんな奇跡的な瞬間に立ち会えたわたしは幸せ者だとそう思った。

その日は、チロと一緒に眠った。

枕元に、チロの寝床であるチグラを置いて。

仕事の都合で、少しの時間しか一緒にいられなかったけれど、

チロとたくさんお話ししたり、グルーミングしたり、抱っこして一緒に散歩したり、

いつお別れが来ても思い残すことがないように時間を過ごした。

お別れの時、
また春に戻ってくるから、
また元気な姿で待っててねと、
無理なお願いをしてしまったが、
アオーンと
チロは答えてくれた。

だから、
またチロに逢えると信じて仕事に頑張っていたけど、

お迎えは待ってくれなかった。

チロはきっと、
頭の良い猫であったから、

倒れてから、
自分の命が終わることを受け入れていたのだとそう思う。

歩けなくなり、
食べれなくなり、
飲めなくなり、
目が見えなくなり、

すべてを受け入れて、
引き換えに家族と過ごす残りの時間を選んだ。

飲まず食わずで2週間。

人間でも生命活動を維持するのは困難である。

16歳の老猫が、
家族ひとりひとりとお別れするために、生きながられてくれた時間。 

それは奇跡に匹敵する。

チロがはじめて来てくれた日。
家族になった日。

チロと過ごした毎日が、
当たり前で空気のようで、
いつまでも続くものだとそう感じていた。

当たり前が当たり前じゃなくなった時、

それを受け入れる為に私たち家族は努力しなければならない。

その当たり前の小さな存在が、
家族を束ね、1つにし、癒す存在であったことに改めて気づく。

そう気づいた時、
わたしを含め、すべての生命体は、
存在することに価値があるのだと思った。

周りと比較して優劣つけたがり、
周りと同調して自分を誤魔化したり、
他人にすがり自分を見失ったり、

人間は、無駄なことに頭と時間を使いすぎてきたんだなと、猫を見て学んだ。

『自ら選び、どんな運命も受け入れる。』

今私たちが、時代の変化に翻弄するとき、

歩いたり、話したり、自由に動かせる身体が今あるなら、

変化を受け入れ進む時ではないのだろうか?

身体の機能が停止するその時まで。



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