恋する季節を過ぎた僕らは何を歌うのか
2022年12月3日(土)🌓9.2 ☁️6:33-16:28
24:小雪 72:橘始黄(たちばなはじめてきばむ)
いちょう並木のセレナーデ。
東京では16:28が、いちばん日没の早い底。
今日は養生と全然関係のない、音楽のことについて書きます。
知り合いがよく見ているTwitterなどでは書きにくいことなのことなのだけれど、私は今の小沢健二のことが好きではない。90年代を渋谷系に呪われて過ごしたからこそ、2010年以降の彼には落胆し続けている。
単純に近年の作品に、あまりいいと思える曲がない。よい作品を生んでいればあとはどうだっていいのだけど。
あまりよい作品がなく、数も生み出せていなさそうだ。溜まっていた思いを吐き出すと、私は、今の彼は過去の作品と過去の盲信的なファンと、過去のルックスにしがみついている、裸の王様だと思っている(もはや王様でもないけれど)。我が子のビジュアルを利用するだけならまだしも、若いミュージシャンにうっすら圧力をかけ力を借り利用してもいるように見える。利用するしかないのだろう。
と同時に、あれほど青春と恋のまぶしさ、切なさ、かけがえのなさを歌った人が、40代以降何を歌うべきかは、今の彼を見ていると本当に難しいテーマなんだなと考えさせられる。私にだってわからない。今のオザケンが何を歌えばいいのか。恋する季節を過ぎた年代が何を歌えばいいのか。
過去への悔恨や、子供たちへの目線、もしくは人生讃歌か、世界平和か。どれをテーマにしても、あまりバリエーションがなさそうだ。
若い時のままの気持ちになりきって、現在進行形のラブソングを歌うのか。それともストーリーテリングに徹するのか。
どのミュージシャンも恋する年齢を過ぎたら、これらのテーマをぐるぐるとローテーションで歌っているような気がする(よく聴いているところでは、今、曽我部恵一や田島貴男や堀込高樹の最近の歌詞を思い浮かべている)
本来ならば、「天使たちのシーン」みたいな、すさまじいほどの、生きることの名シーンたちを、いや、『犬は吠えるがキャラバンは進む』のすべてのような歌を、40すぎて紡ぎ出すことができたなら、それが一番美しく、素晴らしく、時間をかけた甲斐があるものなのだろう。
でも残念ながら、そういう音楽家は少ないし、小沢健二はそれを、25歳で成し遂げたきりになってしまった(と私は思う。まだわかからないが)。ラブソングに限らず、生の瞬間を美しく鋭く切り取る眼差しは、若くなければ真っ直ぐには持てないのだろうか。
そんななか、ふと聴いた真心ブラザーズの新譜『TODAY』に、その答えの一端を見た気がした。特に「Boy」。
心の奥底に 涙をつれてくる
決して眠らない 子供がいる
何にもなれなくて ひとつも解けなくて
消えてなくなるのか 見つけるのか
君にまた会えたら 話せるような
おもしろい明日を今日も手探り
この曲の歌詞全体、いやアルバム全体にうっすらいえるのだけれど、たくさんの過去があって、いろいろな思いをしたことで、切なさや悲しみや懐かしさを抱え込んで、ただただみずみずしいままの人がそこにいると思った。そして、終わりは見え始めているというのに、未だに何も答えなんか出ていないのだと。
歌うべきことはなんなのだろうと迷う、時を経た私たちの姿は、そのままで切なく、美しいものだと信じたい。
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