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2024年5月 真夜中に曝露療法ができた

2024年5月18日(土)

明け方、目が覚めた。
トイレに起きあがろうとしたとき、のどを痛めないようにいつも首に巻いている手ぬぐいが、どこかにひっかかった。
首がひっぱられたその時ふと思った。私はなぜ死なないのか。
死を選ばないのか。
乗り物にのれず、クルマの運転もできず、移動の自由を失い、一人暮らしもできず、10年以上を無駄にした。何にもなれなくて、ろくに働くこともできない。世の中の役に立ったことなど一度もない。
今後何の希望があろう。以前のような文章も書けなくなった。

とたんに怖くなった。薬だけ飲んだ。
しかし不思議と、「この怖さ、はやくおさまれ」と思わなかった。
早くよくなりたいと、気を紛らわせていろんな音声を聴いたりリラックスを試すのは、つまり「生きたい」からで(堀込高樹のいう「死にたいってのは生きたいってことかい」だ)、この時の私は、不思議とそうしようとすら思わなかった。

直面してみよう、と思った。

私の中の絶望を分解していくと、「パニック障害による広場恐怖」ただこれにいきつくのだった。
それさえよくなれば、私はクルマに乗れなくてもかまわないし、たぶん一人暮らしもわりと平気だし、何より、世界がきらきら輝きだし、ふたたびいろんなことが書きたくなるのだ(以前のようには書けない可能性もあるけれど)。

そして、「これさえよくなればいいのに!」と思っている自分を責め続けてもいた。
「これさえあれば、あれさえあれば、と望むのが不幸のもとです」
と、誰かからの声が聞こえてくる。

私は、地下鉄が駅ではないところで止まってしまったところにいる場面を想像した。
その時は心臓がバクバクして、「出してくれー!!!」と叫びたいだろう。
が、実はその「出してくれー!!!」を実際に声に出した瞬間に、恐怖はけっこうおさまるのである。実際、電車の中で人に助けを求めた瞬間に怖くなくなった経験がある。
では、「出してくれー!!こわいー!!」を口に出せなかったとしても、それを自分で全肯定してはどうか。
怖い!怖い!怖い自分はおかしくない!私の脳はこうなっちゃったんだから。こうして自分を守ってきたんだから。
そして、わかっている。最初の過呼吸発作が、救急車に乗り込む頃にはもうおさまっていたように、それは必ず、おさまるのだ。今こうして、希死念慮っぽいものが、薬でいつの間にか消えていくように。

何より、電車に閉じ込められても、死なない。
みんなが不安だけど大丈夫だよ、しぬこたないよって顔しててくれる。
叫ぶと他の人も怖くなるかもしれないから、うずくまればいいんだ。そしたら大丈夫?って誰かが声をかけてくれる。
かけてくれなくても、自分がその声を全力できいてあげればいい。

こわいのは、おかしくない。
あなたが感じることは何も、おかしくない。

いま脳内で、曝露療法をしたのだ、と思った。

なぜこんなことが自分の中でできたのか、それが神田橋処方の漢方のおかげか、日々ちょっとずつやっている瞑想のおかげなのか、わからない。
いや、ふたたび私は書きたい、そう思い始めているからゆえかもしれない。

さっき、とあるカフェで、安達茉莉子さんの『毛布-あなたをくるんでくれるもの』をようやく読み終えた。
自死が何度も彼女の中をよぎった描写が出てくる、最終章は怒涛のように赤裸々だった。

『毛布-あなたをくるんでくれるもの』安達茉莉子 玄光社 刊

生産的でないと無用のものとされる社会を、多くの人が内面化して生きている。無用であることは、罪であるかのような社会。そのためにいつしか、善き人達は自分が世界にとって意味がある存在であればと願う。善き労働者に。善き夫・妻に。善き息子・娘に。善き友人に。善き同僚に。正しく見えるのに、狂った数式のように、どんなに足しても、どこまで努力しても幸せにはなれない。それはなぜか? 良いかどうかを判断する権威が、いつも外部にあるからだ。いつまでも、自分のことを取るに足りないとすることが正しく謙虚な姿だと考えて、いつまでも自分のことを善きものとしない姿勢こそが「向上心」だと信じられているからだ。

Free at Last-これから生まれてくる「私」への、今の「私」からの手紙

私は世の中や人の役に立たないで生きてきた。
「猫は役に立たなくてもそこにいればいい。だから役に立たない私が生きていけなくなったら、日本の終わり」
そんなことを冗談めかして何度も口にしてきたが、内心では、役に立たない自分に反論しないでは、とてもつらくて生きられなかったのだ。
けれど私は今、本当に役に立たなくてもいいから、ただ、自由に、自分のやりたいことをやりたい、見つからなければ見つけるまでやってみたい、と思っている。

縛るものは己の恐怖心、ではなく、己の恐怖心を否定する己のみだ。
幸せになってもいいのだ。それを許可していいのだ。
逗子に住んだって鎌倉に住んだっていいのだ。
自分はそれに値すると信じていいのだ。
夫だってそんな私のほうが好きなのだ。

はじめてのカフェで入ったトイレで、私はいつものように鍵がちゃんと開くか、閉じ込められないか確かめようとして、やめた。
いや、いいのだ。それは必ず、おさまるのだから。




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