中絶の権利を制限するということ

骨折をしたのなら、病院に行って手術してもらう。
感染したのなら、抗生物質を飲む。
自らの健康を保つために、原因となっているものの治療、排除を行う。

WHO憲章では、健康に恵まれることはすべての人間の基本的権利であると謳われている。
健康を目指すことは権利なのである。

つわり、高血圧、糖尿病、貧血…と、妊娠に伴い、体に様々な変化が起こることは余りにも有名だろう。

自らが望んだ妊娠であっても、これらの苦労を乗り越えるのに、大きな苦労を伴うことは想像に難くない。

それが、全くもって望んでいないものであればどうだろうか。
例えば、強姦で不運にも妊娠してしまった場合、日に日に大きくなる胎児は、被害者にとって日に日に大きくなる傷あるいはそれよりも忌々しいものでしかない。
そこには愛も神秘も美も存在し得ない。

冒頭にもどる。
妊娠中の体の変化は、これから生まれてくる我が子のために乗り越える。自ら望んでいるから受容する。
しかし、望んでいない場合、他人から見れば、尊い命なんて軽い言葉で表されるかもしれないが、体調不良の原因を抱え続けているだけなのである。

体調不良が起こっているのなら、その原因の排除を行う権利がある。
中絶の権利を認めないということは、この健康を保つ権利を制限するということと同義ではないだろうか。

それでもなお、尊い命が…等言うのなら、金銭的支援や養育支援等を、加害者か公共部門が行うのだろう。
そんなこともなしに、「身籠ったのなら産め」ということは、犯罪被害を受けて障害を負った人に、自分でなんとかしろ、金はやらないと言っているのと何が違うのだろうか?