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身辺雑記:最初の東京の住まい

引っ越した。
人生の大半を過ごしてきた東京を離れることにした。

彼女が亡くなってから半年ほどはとにかくいろんな残務処理が残っていて大変だった。それを一つひとつ片付けていかなければならないので、ある意味気が紛れていた。しかし、それが一段落した途端に悲しみと寂しさが襲ってきてへたり込んでしまった。

毎週1本は書こうと思っていたnoteからも完全に離れてしまっていた。書く気力も、また他の方の原稿を見る気力もなくなっていた。

先日のつぶやきで書いたように「学生結婚」についての文章を読んでくださる若い方が「スキ」を押していただけるのに気づいた。メールが届いたからである。

何だか若い方に「爺、頑張れ」というエールをもらったような気がして励まされた。元気を出さなきゃという気にさせられた。

そこで今回は引っ越しにかけて、人生で最初の引っ越し、上京して住んだ下宿やアパートについて書くことにする。

大学受験に失敗して浪人することになったのだが、地元である熊本や予備校がたくさんあった九州の中心都市・福岡で受験勉強する気にはなれなかった。高校時代の友だちが多かったからである。同級生が誰もいなかった東京で浪人生活を送ることにした。

先に書いたように、上京して数ヶ月は先輩のところに泊めてもらった。なぜ長期滞在させてもらったのかの経緯については、下記の投稿に書いた。

先輩と一緒にバイトをしてお金をため、とにかく安い部屋を探した。

そこで見つけたのが、杉並の新高円寺の下宿である。下宿というのは、食事付きの部屋ということだが、私が住んだ家は、普通の民家を改造したものであった。浪人生を対象にした下宿で、広さはたったの2畳である。トイレも洗面室も共同である。

2畳の部屋は、想像以上に狭かった。布団を敷いたらそれでお終いである。その上、下宿人同士の会話禁止などという訳のわからない規則があった。下宿なので夕食が出る。夕食時には他の下宿人(浪人生)と顔を会わせることになる。そこで会話を交わすと「追放」、下宿を出なければならないのである。

私はそのことを事前に説明されていなかった。初めての夕食の時に、隣に座った人から話しかけられ、何のためらいもなく自己紹介をし、少しだけおしゃべりをした。食後、そのことを家主から咎められた。そこで初めて下宿人同士の会話の禁止という謎のルールについての説明を受けた。正直、なんで?と思った。下宿の仲間と言葉を交わしただけのことで小言を言われたその瞬間にこの下宿を出たいと思った、入居してばかりでまだ荷物も片付いていないのにである。

次の引っ越し先は、新宿で探した。
新宿駅の徒歩圏内で探した。
なぜ新宿だったのか。

何よりも都会だったからである。
最初の住まいの杉並の新高円寺の下宿は、地下鉄の駅から10数分の住宅地にあった。鬱々としていた浪人生にとって山の手の住宅地の中を歩くのは苦痛だった。いかにも余所者という感じがしてそれも嫌だった。人がたくさんいれば、人混みに紛れることができる。田舎者の劣等感を紛らすことができる。それでいかにも都会というところに住みたかったのだ。

それにそもそも私の実家は百姓をやっていて田んぼに囲まれて暮らしていた。だからこそ、いかにも都会というところに住みたかった。

新宿は予備校に通うための乗換駅だった。
予備校は、皇居のお堀がある市ヶ谷にあった。
まず丸ノ内線の新高円寺の駅から新宿まで行く。そこで国鉄(今のJR線)の総武線の各駅停車に乗換えて市ヶ谷まで行っていた。

思い出したことがある。長逗留させていただいた先輩のアパートは京王線の調布駅にあった。新宿から16分である。それで新宿には馴染みがあった。

ちなみに高校時代は、電車通学だったが、数時間に1本しかない赤字ローカル線だった。選択肢は、午前7時発の電車だけである。それに乗り遅れたら、次は8時40分の電車、確実に遅刻だった。

それに対して、さすがは東京である。乗り遅れてもすぐに次の電車が来る。待っても10分である。これは本当にストレスフリーだった。

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