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ロンドン滞在記:インペリアル・カレッジ・ロンドン4 ブライアン・メイ

前回の投稿(ロンドン滞在記:インペリアル・カレッジ・ロンドン3)では、見出し画像に使っているプラークの授賞式の話を中心に紹介しました。

クイーンと改名してからの最初のライブが、インペリアル・カレッジ・ロンドンの学生寮があるベイツ・ホールで開催されたのです。それを記念してのプラークでした。

インペリアル・カレッジ・ロンドンで演奏した有名なバンドやミュージシャンは、ジム・ヘンドリックス、ピンク・フロイド、T・レックス、デフ・レバード、フリー、イエス、ディープ・パープル、ドアーズ、デヴィッド・ボーイなどです。

71歳の私にとっては、懐かしい名前ばかりですが、きっと私より若い世代の人にとっては歴史上の人物みたいなものですよね。

ブライアン・メイにとって、こういう有名なミュージシャンやバンドが、その全盛期に演奏していたのを聴いていたので、だからこそ、そこでクイーンとしての最初のライブを行うことができたのは、とても感慨ぶかいものであったようです。

本日の投稿は、このインペリアル・カレッジ・ロンドンで学び、博士課程にまで進学していたブライアン・メイが、音楽活動のために30数年の中断を経て天体物理学の博士号を取得したことについて書きたいと思います。

インペリアル・カレッジ・ロンドンはどんな大学?

インペリアル・カレッジ・ロンドンは、1907年にロンドン大学の一つのカレッジとして創設されました。ロンドン大学のグループの中では遅い方になります。

最初のロンドン大学は、1826年創設のロンドン大学UCLです。それから80年後に創設されました。創立100周年を迎えた、2007年7月に、インペリアル・カレッジ・ロンドンは、ロンドン大学グループから分離独立しました。その理由として挙げられていたのが、ロンドン大学グループに所属するメリットがない、ロンドン大学の低いレベルのカレッジと一緒にされるのはたまらない、です。さすがに名門校のプライドですね。

確かに、インペリアル・カレッジ・ロンドンは、英国でオックスフォード、ケンブリッジに次ぐ三番目のレベルの大学で、世界でも有数の大学です。

専攻や年度によって上下するようですが、毎年同世代の人口で英国の上位1.0%の学生が集まるそうです。典型的な名門校ですね。

上記記事によれば、男女比率は、6対4です。男子学生が多いのは珍しいようですが、それは、理工系の学部が多いからのようです。留学生の比率は、今から10年前は、40%弱だったのですが、2021年段階では、60%近くになっています。

留学生は一大産業?

イギリスの有名大学はどこも、留学生の割合が日本に比べると圧倒的に高いです。留学生そのものを、観光と並ぶ一大産業と捉えているからだと思います。よって留学生ビザを取るのは、非常に簡単です。

これに対して、在外研究の訪問研究員として、たかだか半年や1年のビザを取るのにも一苦労しました。かなりの書類を準備しなければなりませんし、一度では取れず二度三度と日本の英国領事館(?ごめんなさい、10年前のことで名前を失念しました)に足を運んで相談する必要がありました。とにかく煩雑で苦労したという記憶しかありません。

不法移民に対してだけでなく、イギリスで働ける能力がある人の移入をすごく警戒していました。れっきとした職場がある大学の教員に対しても、それも夏の1ヶ月を過ごすための滞在に対しても、厳しかったです。

観光目的だけであれば、もちろんイギリスへの入国は簡単でした。

メジャーデビューまで

前回の投稿でも書きましたが、クイーンの母胎となったのは、ブライアン・メイとロジャー・テイラーの在籍していたバンド「スマイル」です。スマイルは、1969年9月にシングル「Earth]をリリースします。しかし、まったく鳴かず飛ばずで、注目されることもありませんでした。ヴォーカル兼ベーシストのティム・スタッフェルが脱退し、その後任として入ったのが、フレディ・マーキュリーです。

フレディ・マーキュリーの加入とともに、バンドの名称を「スマイル」から「クイーン」に変更します。クイーンというバンドの名称は、推測にすぎませんが、ブライアン・メイが在籍していたインペリアル・カレッジは、ヴィクトリア女王ゆかりの地だったことからではないかと思うのですが・・・。

バンドの名前を変更し、最初にライブを行ったのが、ここインペリアル・カレッジ・ロンドンだったという訳です。1970年7月18日のことです。この時、フレディ・マーキュリーは24歳、インペリアル・カレッジ・ロンドンの大学院生だったブライアン・メイは23歳です。

ベーシストはなかなか固定せず、加入と脱退を繰り返したようですが、最終的にオーディションで加入したのが、ジョン・ディーコンです。1971年2月のことだそうです。ジョン・ディーコンは、1951年8月生まれで、この時まだ19歳でした。

私は、ジョン・ディーコンより1ヶ月前の7月に生まれで、1年浪人して大学に入学したのが、この時でした。クイーンの英公式サイトでは、4人が揃った1971年を正式なバンド結成の年としています。

メジャー・デビューは、1973年です。この年の7月13日にアルバム『戦慄の王女』が発売されます。日本での発売は、翌74年です。

ブライアン・メイは天体物理学者?

なぜクイーンの最初のコンサートが、インペリアル・カレッジ・ロンドンで開催されたのか。
それは、クイーンの創設メンバーである、ブライアン・メイが、インペリアル・カレッジ・ロンドンの学生だったからではないかと思います。在学生であり、そして、ベイツ・ホールの会場で、毎週土曜日に開催されていたコンサートを見ていたので、ライブをやらせてほしいと頼みこんだのではないかと思います。

ブライアン・メイは、インペリアル・カレッジ・ロンドンで学び、大学院では宇宙工学を専攻していました。博士課程まで進み、研究とバンド活動を続け、同時に、バンド活動が軌道に乗るまでは中学校の教師もやっていたそうです。今風にいうと二刀流ならぬ、三刀流ですね。

クイーンの初コンサートが行われた1970年、ブライアン・メイは、博士課程の学生として、博士論文の執筆も行っていました。黄道光ー日没後に西に、日の出前には東に見える三角形の光ーの研究を始めます。

1971年がクイーンの正式発足の年だということを紹介しましたが、その年に、ブライアン・メイは、スペイン領のカナリア諸島の最大の島テネリフェ島のイザーニャにあるテイデ観測所で観測も行っています。

しかし、クイーンの活動が本格化する中で、音楽活動に専念にするために、研究活動と博士論文の執筆は中断します。もちろん中学校教師の仕事もやめています。

ブライアン・メイは、60の還暦を前に研究活動を復活させます。
論文を書き始めて36年後に、遂に博士論文を完成させ、2007年の8月の初めにインペリアル・カレッジ・ロンドンに提出しました。

8月23日に、3時間に亘る博士論文審査会の口頭試問を経て、天体物理学の博士号を取得したのです。下記のBBC Newsでは、ブライアン・メイが博士号を取得し、「これからは、ドクター・メイと呼んでください」と話したということを紹介しています。

下の記事は、英文雑誌だと思うのですが、AstroArtsの記事を要約して、博士号を取得した論文が本になったという話を紹介しています。

終わりに

この原稿は、インペリアル・カレッジ・ロンドンの学生寮ベイツ・ホールの入り口でみかけた、プラークに関心をもったことがきっかけで、書き始めました。

クイーンについて調べていくうちに、ギタリストのブライアン・メイが、天体物理学の博士号を取得していることにびっくりしました。それが、60歳の日本風に言えば還暦の年に博士論文をかきあげていることに、尊敬の念しかありません。すごいです。

身辺雑記として、ブライアン・メイの博士号取得との連想での余話を書こうと思います。

何とも盛り上がりに欠ける話に最後までつきあってくださった皆様、本当に有難うございました。

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