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介護生活:団地の方々へのお礼の手紙

亡き妻の葬儀と火葬は、亡くなってから9日目、8月28日(日)に執り行った。

こんなに時間を空けたのは、私自身のわがままによるものだ。すぐの葬儀に堪えられないと思って、「1週間後にお願いしたい」と息子に頼んだ。それで葬儀場が空いていたのが、この日だった。

土曜日搬入・設営、日曜日の一日葬であった。

葬儀はごく少数の参列者だけの家族葬にした。妻が親しくしていた方々には、妻を安置していた自宅に弔問に来ていただいた。また、出棺の時には、30人近くの方々が見送って下さった。

みなさんのご厚情には感謝しかない。
私はと言えば、涙にくれ、「ありがとうございます」という感謝の言葉しか言えなかった。ただただ泣いていただけである。

だからこそ、お礼の言葉は丁寧に書いて伝えなければと思った。
お礼の手紙を掲示すると同時に、その手紙を配布する必要があると思った。

妻の死をどう知らせるのか

妻が亡くなったのは、20日(土)の正午前である。名古屋から彼女の長姉が娘さんと駆けつけて下さった。1泊されて、日曜日の早朝に帰られた。日曜日は、いろんなところへの連絡や掃除や片付けなどで忙しかったという記憶しかない。

「つぶやき」への投稿を見返す元気がないので、確かなことは何も分からない。

とにかく息子と話し合ったのは、妻が30年間住み、親しくつきあっていただいた近隣住民の方々やボランティアグループの方々に、その死をどう伝えるかということであった。と同時に、「コロナのことがあるので、葬儀はわずかな人数の家族葬にします」ということも伝えなきゃいけない。みなさんが気分を害されないように伝えるにはどうすれば良いのか分からず、あぁでもないこうでもないと長い時間、話し合った。

結論は、住んでいる棟の掲示板に文書を掲示することであり、その文書を、何度もお見舞いにきていただき面識があった人の元に持参し、配布してもらうことであった。

彼女のことが少しでも頭をかすめると涙にくれていた。

息子から「明日の午前中には掲示しないとやばいよ」と、脅かされかされて何とか書き上げた。

なぜお礼の手紙を書いたのか

妻が親しくおつきあいをしていただいてきた団地の方々からは、是非葬儀に出たいというお申し出があった。

しかし、コロナが再び蔓延していることもあり、それも身近な人まで罹患している現実をどうしても無視出来なかった。それで、ごく少人数の家族葬にすることにした。

そのことを理解してほしいという願いを込めての、「ご挨拶」の文である。

私のわがままで葬儀の日程を延ばしたので、月曜日から土曜日の午後の出棺までは、彼女の部屋に安置しているので是非会いに来てくださいとお願いした。その趣旨は、ちゃんと伝わった。

彼女がラインでやり取りしていた人たちには、「〇〇の夫です」と名乗り、彼女の死を伝えた。その方々も含め、本当にたくさんの人たちが毎日焼香に来てくださった。

家族葬にしたことのお詫びと、弔問と出棺時のお見送りのお礼の手紙は、とにかく早くに書かねばと思った。

葬儀が終わった日曜日中に何とか書き上げた。
月曜日の早朝に棟の掲示板に掲示した。

それが、以下の文である。


御 礼

令和4年8月28日(日)
matoiba keiichi

このたびは、妻〇〇の死去にあたり、ご弔問、出棺の見送りなど大変お世話なりなりました。彼女に成り代りまして御礼申し上げます。

本日、南多摩斎場にて無事に妻〇〇の野辺の送りをすることが出来ました。昭和27年(1952年)2月13日の生まれですから、70歳と半年の生涯でした。

友人知人、そして、出身地熊本の親族や知人からも是非葬儀に参列したいという連絡を受けました。しかし、コロナが再び蔓延している状況をかんがみ、出席者わずか数名での家族葬とさせていただきました。そのこと、誠に申し訳なく思っています。

皆さまには、私たち家族の意向を汲み取っていただいたこと、本当に感謝しております。

ありがとうございました。

葬儀を出席者数名の家族葬で行う代わりに、妻〇〇を1週間近く、彼女の書斎兼寝室に安置しました。毎日、本当にたくさんの方々に会いに来ていただき、また、いろいろと彼女の思い出を聞かしていただきました。私は、ただただ泣き濡れていましたが、本人はとても喜んでいたと思います。

妻は、自立した人でした。依存とはほど遠く、精神的につよい人でした。家事だけでなく家計や生活のあらゆる面を取り仕切っていました。私はすべてを任せっきりでした。

他人の悪口を言ったことも愚痴を言うこともありませんでした。それは亡くなるまでそうでした。自分の運命を嘆いたり呪ったりすることもまったくありませんでした。それが、彼女の矜持きょうじであり、美意識だったのでしょう。

彼女は関わった人みなに優しい人でした。そのことは、弔問に訪れていただき、お話をお伺いする中で改めて確認することができました。

彼女は私と違い、視野が広く柔軟な思考の持ち主でした。それに対して、私は短気で狭量です。直情径行なところがあります。だからこそ、大学行政のことや学生さんのこと、そして、最後まで上手にできなかった講義についてなど、何かと相談にのってもらっていました。最後の最後まで彼女からいさめられていました。

帰ってからお喋りするだけでなく、毎日のように電話でも話していました。研究室からも、旅先からも、そして海外からも電話で話していました。相談していました。
彼女は人生のパートナーであるだけなく、私の良き相談相手でした。その彼女が、突如、この世から消えたこと、お喋りができないことに、全然心の折り合いがついていません。毎日泣き暮れています。完全に涙腺が崩壊しています。

出棺に際し、たくさんの方々にお見送りいただいたこと、本当に感謝しております。彼女もすごく喜んでいたと思います。
当の私は、上記のような状態でしたので、見送っていただいた皆さまへのお礼の挨拶ひとつできなかったこと、誠に申し訳ありませんでした。

まだ彼女がいない現実を受け入れることができない有様です。

四十九日の法要が終わりましたら、改めて皆さま個々にご挨拶に伺わせていただければと存じます。

取り急ぎ、葬儀のご報告とお礼を述べさせていただきました。


最後に

月曜日の早朝、上記の文を棟の掲示板に掲示した。

20日(土)からずっと滞在し、食事を用意してくれていた息子が、ブランチを一緒に食べてから帰宅した。

一人になり、部屋の片付けと清掃を行った後で、彼女からずっと話を聞いていた数名の方宛にそれぞれ手紙を書いた。また、彼女の若い時からの写真を10数枚、コピー用紙に貼り付け、セブン-イレブンに出かけてカラーコピーした。

手ぶらはまずいだろうと思って、およそ2ヶ月ぶりに渋谷まで出かけた。虎屋の羊羹を買うためである。

夕方、一軒一軒、廻って挨拶し、手紙と羊羹を渡した。お会いして優しい言葉をかけていただくと何も言えず、ただ涙だった。だからこそ、ちゃんと手紙を書いて良かったと思った。

付記

多分、ここまで読んでいただいた方は、私のあまりの饒舌じょうぜつぶりに驚かれているのではないでしょうか。

なぜ団地の棟の掲示板に文書を、それもかなりパーソナルな文章を書いて掲示し、なおかつ配布したのか。

リアルな世界の私は、つまり、生身の私は、実の兄や弟にも電話でも話せないのです。弔問に来ていただい方とも、ただただ話を聞くだけで泣いていました。みなさんへの感謝の思いをちゃんと言葉で伝えることができていないのです。

これを書いている今も涙を流しています。

しかし、涙を流し泣いていても、キーボードを叩くことは出来ます。だから、感謝の思いは、とにかく文字にして伝えなきゃと思って書きました。

そう、それは、noteの読者の方に対してもそうです。
私のごく私的な文、特に、繰り返しが多い「つぶやき」への投稿もたくさんの方に読んでいただいていて、そのことにすごく支えられています。

有難うございます。

だからこそ、今日の投稿も、何とか私のみなさんへの感謝の思いはちゃんと伝えようと思って書きました。

本日も最後までつきあっていただきありがとうございました。


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