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4月、石巻に行った話

「なぜ」「いま」「石巻」

私は19歳の春まで神戸で、それから今までは福岡で2年間過ごした。
いつのことか覚えていないが、誰かがこんなことを言っていた。
「海外へ行く日本人は結構多いけど、他国の人に日本とか東日本大震災のことを尋ねられたとき、ちゃんと説明できないのは恥ずかしくないですか?」
この言葉を聞いた時、「行かなきゃ」と思った。現地へ行って、自分の目で見て、何があったのかを知る必要がある。それがきっかけだ。

どうして今になったのかは、金銭的な問題とタイミングの問題がある。
本当はできるだけ早く行く必要があると感じていたが、大学受験をしていた私には金銭的余裕も時間的余裕もなかった。また、大学に入ってからもコロナの影響などが重なり、結局このタイミングになってしまった。もう少し早く行きたかった。

記録

前日(4/8)

仙台へは夜行バスで向かった。北陸旅行を終え東京にあるインターン先のオフィスで一日を過ごした私は、週末を迎える東京の夜を抜け、新宿から仙台への夜行バスへと駆け込んだ。連日の夜行バス移動となったため3列独立の車両にしたのは正解だった。東京〜仙台間の移動時間は6時間と、ただでさえ睡眠不足が懸念される夜行に追い打ちをかけるようなものであったためだ。
翌日バスを降りて気づいたのだが、案外旅行客は少なかった。朝5時の仙台駅は寒く、東北の春をその時に初めて知った私はとりあえず駅のトイレで歯磨きをし、二日間洗っていない髪を軽く整えホテルへ向かった。しかしチェックインはその日の14時ということだったので、一旦荷物をそのままに、ホテルに一番近いコインランドリーで洗濯をした。普段一人でコインランドリーを利用をしたことがなかったので驚いたのだが、ほんの少しの洗濯と乾燥で1,000円も取られる。洗濯を待つ間、久々の休息となったので、少し思いを巡らそうとしたが、妙に思考が鈍い。明日私は石巻に行くというのに。本当にこのままでよいのだろうか、このまま感性が整わないまま、感性を刺激するために向かう被災地へ行ってよいのだろうかという不安。これは、自分自身の心を試す旅だ。12年前に起こった震災だけでなく、自分自身の心にも向き合わなければならない。眠い、などと言っている場合ではない。

その日は結局、夕方まで仙台を歩き回っていた。まずは腹ごしらえとして、立ち食いそばで、一番安いかけそばを食べた。貧乏旅行とはこのことかと、腹5分くらいの体で適当に歩いていると、北三番町公園の桜が目に入った。金沢と同じく、ソメイヨシノとシダレだった。シダレはまだまだ満開、ソメイヨシノはピークを終え、哀愁のある姿だった。ふと見ると、梅の木があった。もうすでに花は散り、花弁は足元にさえ落ちていなかった。桜は梅を追い続けているのである。二つの花が同時に存在することがもしないのであれば、それは彼らにとって少し悲しく、見る我々にとっては少し嬉しいことのような気がした。
そのまま東北大学の三つのキャンパスを散策し、川内キャンパスで学食を食べたのちに図書館へお邪魔することにした。最近建て直され美しい現代建築の中で学ぶ東北大生の姿が少し羨ましく感じた。学外者である私は閲覧席の利用は認められなかったが、本を読むのは自由ということで、東日本大震災に関する書籍及び資料のある部屋に入った。

東日本大震災を経験した現地の人に取材をした本があったので、試しに表紙を開いてみた。
女性が、慰霊碑に向かい、手を合わせていた。
涙が滲んだ。
彼女が祈りを捧げる姿に、圧倒されてしまい、私はその先を読むことがためらわれたが、続けた。
こんなことが、数ページめくるたびに起こり、どうしても行かなければという思いに変わっていった。実際、その本を読み終えることなく図書館を後にしたのだが、本を閉じるまで30分ほど立ち尽くしていた。この東北大学に通う生徒の中にも多くの被災者がいるのだと思い、その事実に力をもらってしまったことに少し悔しさを感じながら、明日への準備を始めようと思った。

その後ホテルに戻ってシャワーを浴び、牛タンを食べようと仙台駅の近くまで歩いていった。お店では牛タン定食と共に石巻の日本酒「墨廼江」を頂いた。「このお酒が作られた街に明日行くんだな」と心の中で唱えながら、味わった。

仙台〜石巻

昨日に引き続き、少し寒い朝だった。本来は始発で行く予定だった。しかし、宿泊先がカプセルホテルのため早い時間にアラームを鳴らすのが躊躇われたこと、夜寝るのが少し遅くなってしまったことを踏まえ、勝手に目が覚めた6時に準備を始めた。
仙台駅から石巻駅まで、各駅停車で約1時間半。休日の朝だからか、石巻に近づくにつれて乗客は少なくなっていった。仙台駅、私の右に座っている高校生は、小学生低学年の時に震災に遭遇しているかも知れない。私は、知らない。この電車に乗る人の何人が震災に遭遇したのだろうか。ここは仙台なので、おそらく人の流出入は比較的多い。しかし、私がこれから向かう先は「陸の孤島」とも呼ばれる街である。今、そこに住む人のうち、どれくらいの人が震災を経験したのだろう。この考えに至った時、今日の行き先がとても恐ろしい所のように感じた。

多賀城駅に来た。電車のドアが開いた時、冷たい空気が車内に入り込み、少し鳥肌が立った。ふと見ると、城壁はソメイヨシノが満開であった。昨日見た北三番町公園とは違い、まさに見頃といった様だった。しかし、人気は少なかった。もちろん、朝7時52分ということもあったかもしれない。

塩釜まで来た。宮城に来て、初めて海を見た。漁港だった。これが宮城の海かと思った。漁港では船の手入れをする漁師や荷物を運ぶ軽トラがあった。街が、海と共に生きているんだと感じた。「この海が、」という言葉のその先は、あまり考えないようにした。
電車でしばらく進むと、人も減り、海が近づいてきた。川や海では護岸整備が海と陸とを隔てていた。この時も、塩釜と同じように、海はとても綺麗だった。

石巻の街

石巻について最初に驚いたのは、石巻が漫画の街だということだ。正直、津波被害が大きかった街という印象しかなかったので、不勉強を恥じた。街には沢山のオブジェがあり、伝統には有名な漫画のコマが装飾されていた。
駅前にあった地図を参考に、門脇の方へと向かった。門脇には現在、石巻南浜津波復興祈念公園がある。高校生の頃、私がテレビの中で見た公園だ。近くには門脇小学校遺構があるらしい。
それまでの道を、旧北上川の整えられた河辺を一人歩いた。歩いている間、落ちているクルミの殻を蹴りながら「復興とは何か」ということにひたすら想いを巡らせていた。今私が歩いているこの真っ白なアスファルトの道を見て、何が復興なのか、本当にわからなくなった。

今までは、「住んでいた人々が現在の生活に満足できること」という、安直でそれゆえに残酷(かつ失礼)な認識を持っていた。しかし、この道を整備した人、今までこの道を歩いた地元住民、観光客。私の想像の中の彼らから、どうしても、「満足」などという言葉が出てくるようには思えなかった。どうしても、呪いに似た感情がそのアスファルトに刻まれているようにしか感じられなかった。だから、この道を歩きながら想いを馳せた「復興」の正解は、遠い先にあって見えないもののような気がしてしまった。事実、こんな結論を出すために石巻にいったのかと少し後悔も残る結果になったことに後悔と申し訳なさを抱きながらも、まだまだこの先も石巻を訪れる口実として自分の心に留めておかなければならないように感じている。

今まで経験したことのない突風(海風)に何度も体を吹き飛ばされそうになりながら、門脇小学校遺構に来た。周りにはいくつも墓地があり、目に映る墓石の幾つかは倒れたまま放置されていた。遠くから見た小学校はそれだけで地震と津波の恐ろしさを体現していた。表面は火傷を負ったようにただれ、壁が無惨に無くなっている部分では、もはや震災前の子どもたちの生活を想起することができない。

門脇小学校遺構

校舎向かって右側には新しく増設された建物があり、そこで入館の受付や資料の閲覧ができるようになっている。受付を済ませて展示ルートに入ると、目の前には津波に飲まれてまさに「ぐちゃぐちゃ」になった消防車を見た。隣には、東日本大震災の被害状況を表すパネルがあった。

石巻の被害
死者:3,187名
行方不明:415名
最大浸水深:17.5m

石巻市震災遺構 門脇小学校 展示より

石巻の地理を知っている人で、これら数に驚かない人はいないと思う。一度しか行ったことのない私がいうのもおこがましいが、もしこの数にピンと来ないなら、一度訪れてみてほしい。
パネルの最後にあった言葉がとても印象的であった。

ここでは、震災をとおし語られる記憶に
皆さんの人生をそっと重ね
生きるとは何かを考えるきっかけにしていただけたなら幸いです

石巻市震災遺構 門脇小学校 展示より

小学校遺構の展示は豊富で、そこには多くの衝撃的な事実が詰め込まれていた。正直、被害にあった小学校遺構の一部を展示と呼ぶのは適切ではないと感じるが、ご容赦いただきたい。

まずはじめに目に入るのは、海側の校舎端にある校長室である。津波火災と津波の被害に遭った1階の校長室では、ソファや机がかき乱された様子が伺える。中に倒れている金庫が特徴的であるが、この中には卒業を目前に控えた当時小学6年生に渡される予定の卒業証書が保管されていた。その金庫は津波と火災の被害を受けた後をその表面に強く焼き付けているにもかかわらず、中の卒業証書を全くの無傷で守った。濡れも焼けもせずに金庫に入っていた証書は、その後延期されて行われた卒業式で卒業生に手渡された。

3階の図工室では、当時小学3年(当時の私と同じ学年)の生徒が授業を受けていた様子が残っていた。彼らが揺れと周りからの悲鳴に小さい体を震わせながら不安と対峙していた時、私は何をしていただろうか。圧倒的な経験の「違い」に目を向けないわけにはいかなかった。

被災者の言葉が展示されている場所があった。その言葉の一つ一つ、すべてに衝撃を受けた。特に『長靴と歌』という題の展示にあった言葉には、涙を滲ませずにはいられなかった。

津波を見ることもなく無邪気だった私たちは
卒園式で歌うために練習していた歌を歌った
お母さんは泣いていた
みんなのお母さんも泣いていた

石巻市震災遺構 門脇小学校 展示『長靴と歌』(抜粋)

どの展示も、普通に「平岡俊輔」を生きている中では知ることのできなかった事実を教えてくれ、その度に打ちのめされる感覚があった。

新鮮で、温かくて、暗くて、明るくて、
リアルなようで、ファンタジー色もある。
東日本大震災を経験した同じ世代が
12年をどう生きてきたか、これからどう生きるのか、
私には何ができるか、今までできていなかったことは何か、
考えるきっかけとなった。

震災のこと、自分のこと、周りのこと。
学び続けたい。考え続けたい。

門脇小学校遺構を出て、石巻南浜津波復興祈念公園へ向かうとき、交差点の赤信号で立ち止まった。その時ようやく、「今、あの場所にいる」という実感が湧いてきた。

石巻南浜津波復興祈念公園

「『はやく逃げろ』ではなく『はやく一緒に逃げよう』と言ってあげるべきだった。」
「心臓の鼓動ですら、地震に感じた。」

震災当時の人々の記憶をまとめた本『あの日、何をしていましたか』が公園内の施設にあった。訪れた人が綴るその本は、一冊の厚さが4cmほどもあるにも関わらず、3冊目に至っていた。中には家族や友人を失った人の生の声も多くあった。この本1ページ1ページに、一人一人の人生の欠片が詰まっていた。中には2011年3月に取り残されてしまった人の人生もあった。しかし多くは、今後に対して前向きなものだった。
少し救われた気がした。ここにいてもいいよと、許されたような気がした。

公園があるところは、震災前は住宅地だった。園内のベンチに座った。目の前には、家の跡があった。跡といっても、家屋の土台となる四角い木の枠が地面から少しだけ見えているに過ぎないのだが。
この家に住んでいた人はどんな生活を送っていたのだろう。その人は今、どうしているのだろう。あるいは、この世にはいない可能性だってある。当たり前のことだが、私がその人だった可能性もる。こういうことを想像して、自分の人生に重ねられることは、幸せなことだ。そうやって、少しでも優しくなれれば、もっと幸せなことだと思うし、平和への道だと信じたい。

日和山公園

帰り道、日和山公園に立ち寄った。門脇地区に住んでいた人々が、津波から自分たちの命を守るために向かった場所だ。日和山公園からは、門脇地区が見渡せる。人々は当時、自分たちの家が海に飲まれる光景をどう見たのか。4月の桜を見て、何を感じたのだろうか。
本日の日和山公園は、花見をするカップルや家族で賑わっていた。子どもたちが嬉しそうに階段を上り下りする姿、カップルたちが楽しそうに写真を撮る姿、春の匂いを纏って花を咲かす桜、どれも素晴らしかった。

最後に

東日本大震災は今も続いている。それは東日本だけでなく、日本全体、世界全体の問題として。関連死はこれからも増えると考えられており、復興・防災への挑戦はこれからも続く。
それぞれの人生があり、世界中の多くの人の人生に「東日本大震災」がある。もちろん、一つの災害に過ぎない。これ以外に、世界中の多くの人々の人生に大きな影響を及ぼしたイベントが数え切れないほどある。
しかし、「東日本大震災」を通して多くの人の人生がつながったのは事実だ。私たちはこの大きなイベントを通して、周囲に、世界に、そして自分の心に深く触れることができる。実際、この旅の中で人の暖かさ、冷たさ、強さ、弱さ、その全てを垣間見ることができたように思う。
ちゃんと知って、感じて、考えること。これが唯一の希望で、その逆はさらなる悲劇と言っていい。これからも、私の中で「東日本大震災」は生き続けるし、対峙するたびに自分の無力さや申し訳なさに打ちのめされると思う。その度に、知って、感じて、考え続けたい。

太平洋は ひろびろと
望みをきょうも 思わせる
たのしく若い このゆめよ
光れ ひかれ
美しく

北上川は 生きていて
命を深く 思わせる
明るく 高い この歌よ
ひびけ ひびけ
どこまでも

さあ 手をとって 手をとって 進もうよ
小学校は 門脇

門脇小学校 校歌


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