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1月17日26年前のハタチの記録

26年前の1月17日。

成人式の数日後、神戸のワンルームマンションで被災した。
16日の夜は冬なのにやたらと飲食店のゴキブリが目につく日だった。
前日から飲んだくれて、友人の始発を待つために朝方まで三宮にいたわたしは徒歩で元町の部屋に戻りシャワーを浴びていた。

水の音が掻き消されるほどの轟音が響き、頭を洗ってたわたしは驚き手を止めた。同時にガタガタガタとユニットバスがおかしな音を立て、身体が跳ね上がりバスタブの中であっちこっちシェイカーの中にいるように舞った。どのくらい身体をぶつけたかわからないほど長く続き、ぶらーんぶらーんとゆっくりした揺れで我にかえる。頭はすすぎ終わっていないのにお湯の出たシャワーを止めた。
もう何が何だかわからない。

全裸の状態でバスタブに座り込んでいると、隣の部屋から外へ出る扉の音がする。続いてあっちこっちの扉が閉まる音がした。
どうやらこの状態はわたしの部屋だけではないようで、パタパタと外を走る音がする。

外に出なきゃ。

タオルはお風呂の前に置いたはず。
真っ暗な中、扉を開けて手探りでタオルを見つける。ガシャっと音がして目の前のキッチンではいろんなものが割れているのだとわかった。
拭いたかどうかは覚えてない。ガラスの破片で手や脚に傷があることを知ったのは数時間後だったから、拭いたのだと思う。下着は部屋の奥のタンスだったから、さっきまで着ていたスウェットパンツ上下をそのまま着て飛び出した。

マンションの下で男性から「危ないから靴を履いてきたほうがいい」と言われて靴を履いてないことに気づいた。
部屋に戻ってもユニットバスがある玄関までしか入れない。
素足にスニーカーを履き、また外へ出た。

誰かの叫ぶ声。
パジャマの老夫婦がボー然と立ち尽くす。
あっちこっちから火の手が上がりはじめ、近くの人たちの話し声によると地震じゃないかということだったが、爆弾が落ちたのか、地震なのかもはや誰もわかっていない。

薄っすらとあたりが夜明けはじめ、わたしはなにが起きたのか知るために鯉川筋から元町駅のほうへ歩いた。
高架は崩れ、見えるはずもない頭上の線路がこっちを向いてる。
もう少し海のほうへ歩くとマザームーンカフェのある路地にある父親の店の向こうから火が見えた。
記憶はとても断片的で、火を見た後どっちに歩いたのかもわからないが次の記憶は鯉川筋を上がった生協あたりの木造住宅が密集している場所に移る。
木造の民家から大きな男性がもう動かなくなった人たちを担いで銀行の軒下に助け出した人たちを寝かせていた。

「どうなってるんや!救急車はどこや!」

男性が叫んでも怒っても誰も助けにはきてくれない。
数人の男の人たちは折れてささくれた木材を素手で掻き分け、声のするほうから折り重なった家の破片をめくり上げていく。あっちこっちで人手を探す人の声がするのに、その木材を持ち上げられそうな人はいない。
ボー然と立ち尽くすわたしに助けを求める人もいないし、自分から走り寄る正義感もなければ恐怖で凝視もできずにいた。

また記憶は飛んで、今度はBALの前にいた。
ショーウィンドウに何かをぶつけガラスを破り、中に数人の男の人が入っていく。人のいないのジュエリーショップで何かしている。

身体の震えが止まらず声が出た。
カタカタと震える手を自分の手で止めながら走って逃げた。見たことのないことを目の前に大声を出して泣いて走った。

明るくなった街で起こることを認めることができずまたマンションのほうへ走った。
途中無人になったコンビニから食べ物を持って走る人。
倒れた自販機からお金を取り出す人。
誰かを助ける人の横を通り過ぎる盗人。
さっきよりも銀行の軒下の人は増え、重ねていくしかもう置き場所がない。

あれは揺れが起きてから何時間経っていたんだろう。
寒かったはずなのに、上着も着ず何時間も彷徨っていたんだろう。

気がついたらマンションの前の小学校に座っていた。目の前で下を向いてる小さな女の子に声すらかけることもできず、数日前に大人になりましたと言われたわたしはただ何もできずにいた。
ポケットに手を突っ込んでみたけど飴すら出てこない。毎晩飲み歩いてたわたしは家に帰っても食料と呼べるものはない。夕方やっと実家の母に連絡を取ろうと県庁の公衆電話の着の身着のままの人たちの長い列に並んだ。

数回チャレンジしてようやく繋がったが後ろに並んでいる人が気になり「生きてるよ、怪我もしてないから大丈夫」と短くそれだけ報告した。
金髪でベリーショートだったわたしは県庁のトイレに入ろうとして「男性用はあっちよ」とおばさんに言われてようやく自分がどんな姿でいるのか理解し、いや女だしとちょっとだけ本来の関西人らしくツッコんだ。

父親の店は燃えてしまったのかと辺りまで行ってみた。
わたしの生死に興味のない我が父は、迫り来る火の手からなんとか自分のお店が燃えずに済むようにずっとそっちを見たままでこちらを見ようともしない。生きててよかったとか怪我はないかとかひとことでも欲しいわたしを再び絶望させてくれた。

その心を救ってくれた人もいた。小学校の運動場で派手な水商売風の女の人にわたしともうひとりの女の人が拾われたのだ。
北野の綺麗なマンションで、昨晩その人が入ったであろう入浴剤入りの水をコップに入れて飲んだ。冷凍庫に入っていた凍ったおにぎりももらった。3人で手で温めながら食べた。どっちも味はしなかったけど、ありがたくいただいた。
余震が続くので1人ずつ寝る。いつでも危なくなったら声をかけられるようにしたんだと思う。状況は覚えてない。

数日後、母の旦那さんの運転で姫路から迎えがきた。
ずっと家に戻っていなかったわたしは家に鍵をかけようとしばらくぶりに部屋の扉を開けた。玄関にいつも置いてある大切な腕時計がなくなっていた。こんなところまでかよ。
もう悪事は見慣れた。
次に引っ越すまで戻らなかった部屋の鍵をかけた。

母が持たせたおにぎりがあるから食べなさいと言われて、突然残していく人が心配になった。いや、いい顔をしたかったのだろうか。そのまま例の父親と、先日女を作って別れたばかりの元彼におにぎりを渡し母の元へ出発した。

道が陥没して走れない場所が多く、やっと明石に入るくらいのところだろうか、その景色に息が止まった。
2号線にカーネルサンダースが灯りに照らされて営業している。
電気は明るく、道に穴も空いていない、死人も横たわってないし、悪そうな人もいない。
その光景を目にしてはじめて「自分たちだけがこんな目に遭った」ということを知り吐きそうになった。明かりを見てホッとするでもなく、暖かそうな灯りに嫉妬とも違う気分だ。何をのうのうと幸せそうにしてるんだという恨みのような気持ちだった。
車から目に入る灯りを眺めながら、柔らかく凍ってない母のおにぎりを食べながら2回目泣いた。

普段全く心配もしない泣かない母が大泣きで玄関先まで走ってやってきて、わたしを抱きしめた。
わたしは何ももたず、あの日のままのノーパンスウェットパンツ上下で気が済むまで抱きついて泣かせてあげた。わたしは泣かなかったと思う。


今ならSNSでスマホカメラで映された画像や動画で知ることができるだろうことは、わたしたちの目や耳にしか焼き付いていない。
捕まることもなかった盗人のことも、全力で壊れた家から助け出していた人が賞賛されることも、あの時代にはない。たくさんの人が目にした、悪行も善行も、あの惨事の前ではなんのスクープにもならなかったんだ。

わたしは生きて残ってしまった。
母くらいしか泣いてくれないような人間なのに、もっと生きたかった人たちがいたはずなのに、無傷で生き残ってしまった。

多くの被災者のように「残された命を精いっぱい生きたい」なんてわたしには言えない。ただ、生き残ったから今も生き続けています。
あれから26年経ったわたしは、20歳の時よりもずっとずっと誰かの役に立ちたいと思いながら生きているはずです。でも、大きな声でそんな宣言はできないでいます。

だから、はじめて震災の時のことを思い出して書きました。
どこにも誇れることのない、わたしだけの震災の話です。


カバンには甘いものと飲み物を入れておいてね。
家には食べられるものを少しでいいので買っておいてね。
寝る場所にはできるだけ棚や重たいものを置かないでね。
今ならモバイルバッテリーも持っておこうか。

わたしは迷惑はかけたけど、誰も助けられませんでした。
今でもそんな自分が大キライです。
あの時、シーソーに座っていた女の子に飴を渡して「だいじょうぶだよ」って言ってあげたかった。できなかったことを26年後悔しています。

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