やさしい大乗仏教入門

やさしい大乗仏教入門

・日本は特別

 日本は特別な国だ。

 世界の中で大乗仏教国と言えるのは日本とブータンだけだ。

 ということはブータンも特別な国なので日本とブータンは友好を維持すればいい。

 ネパールは知りませんが、チベット、モンゴルなども大乗仏教国ですが侵略されたり共産化したのでまともな大乗仏教国は日本とブータンだけ。

 ブータンは小国過ぎで実質大乗仏教国は日本だけだ。

 日本が世界の大乗仏教の運命を握る。

・大乗仏教は特別

 大乗仏教は特別な宗教だ。

 そもそも大乗仏教を知っている人は大乗仏教を宗教と見做さない。

 大乗仏教は哲学と見做される。

 鎌倉新仏教でも禅宗は確実に大乗仏教だ。

 日蓮宗も開祖の日蓮が「仏教は三諦論と法華経だけ」と言っている。

 法華経、きちんと言うと妙法蓮華経は狭い意味の大乗仏教と関係ない。

 狭い意味の大乗仏教とは開祖のナーガールジュナ=龍樹の空論と中観論を指す。

 三諦論は狭い意味の大乗仏教だ。

 三諦とは3つの真理を指す。

 三つの真理とは空と中と仮=戯だ。

 空とは龍樹の空論の空で中とは龍樹の中観論の中観を指す。

 仮=戯とは悟ってない人の普通の認識方法だ。

 また認識方法とともに事物の存在についての考え方だ。

 三諦論とは中国仏教の中興の祖、天台智顗の言葉だ。

 狭い意味での大乗仏教を踏まえているので日蓮宗は大乗仏教だ。

 妙法蓮華経はカントで言う所の実践理性批判や判断力批判のようなものだ。

 つまりどうでもいい。

 カントが偉いのは純粋理性批判だ。

 あとはどうでもいい。

 純粋理性批判こそそれまでの近代哲学の集大成だった。

 これはニュートンの力学がそれまでの数学や天文学、物理学の集大成であったのと同じだ。

 逆に言えば妙法蓮華経こそ日蓮宗の特徴かつ生き方の規範や価値判断だ。

 三諦論は生き方の規範ではない。

少し価値判断と言えるかもしれないがメタレベルな意味で一般的なレベルの意味でではない。

 浄土宗、浄土真宗は特殊だ。

 三諦論が重要なのは変わらない。

 ただ「三諦論は難し過ぎるので理解するのは諦めよう」

 からスタートしている。

 三諦論の「諦」の字と諦めるの「諦」の字がかかっている。

 これは洒落かもしれないがなかなか小粋な洒落だ。

 空と中=中観というのは理解するのを諦めなければいけない程難しいという見事な掛詞になっている。

 実際空はめちゃ難しい。

 現代哲学の構造主義と同じものだ。

 構造主義は難しい。

 現代人をもってしても高偏差値の頭のいい人をもってしても高IQの人をもってしてもだ。

 この難しさは物理で言えば量子力学を理解する難しさに似ている。

 変にニュートンの古典力学を勉強して身について執着してしまう程に量子力学の理解は困難になる。

 古典力学と矛盾するからだ。

 矛盾した事も整合性を持たせようとすると精神疾患を発症する事すらある。

 統合失調症の有名な症状の4A、連合弛緩(思考障害)association loosening、感情障害(感情鈍麻)affect disturbances、アンビバレンス(両価性)ambivalence、自閉 autismの中の「両価性」をさす。

 学問領域によってはベイトソンの「ダブルバインド」という言葉が使われる場合もある。

 ダブルバインドな環境を与える家庭は統合失調症の急性期の再発、再燃リスクが高まる。

 これは科学的に実証された。

 昔の実証研究で現代にどれくらい通用するか分からない。

 ダブルバインドは統合失調症の再発に関係するのなら発症にも関係するかもしれない。

 ということで研究しようとしたら家族会に反対されて頓挫した。

 日本で一番偉大な精神医学者の一人である故木村敏京大名誉教授はこのことを残念がっておられた。

 学問や科学は政治や社会に関係なくそれ自体として研究されるべきだと。

 話は戻って浄土系大乗仏教は真理は理解できないから諦めようから出発する。

 その代わりに阿弥陀如来信仰を置く。

 「人は信仰によって義とされる」

 という驚くべき考え方だ。

 どう驚くべきかというとプロテスタントと同じ考え方だからだ。

 しかもプロテスタントより早い。

 外国人の研究者はびっくりする。

 いろんな意味で。

 そしてこう結論する。

 「浄土(真)宗は仏教ではない」

 これは的を得ている。

 浄土系仏教をディスる意味ではない。

・日本の仏教は天台宗が始まり

 日本の仏教は国家仏教として奈良仏教、平安時代からは天台宗と真言宗が強まった。

 真言宗は初期から中期密教の輸入でこれはヒンドゥー教、バラモン教テイストをまぶしたもの。

 チベットの影響は知らない。

 世界を仏に見立てるような考え方だが大乗仏教の本質である空論や中観論、三諦論とは関係ない。

 これを見るに資料くれ、いややらないで喧嘩した最澄も空海も特に悟っていなかったのだろう。

 空海はワンチャン悟っていたかもしれないが。

 この場合悟るとは精米意味の大乗仏教をきちんと理解している事を指す。

 天台宗からは様々な新しい大乗仏教の宗派が生まれてた。

 鎌倉新仏教が有名だが全て大乗仏教の本質を踏まえている。

・大乗仏教という言葉の定義

 ここでは空論と中観論、三諦論、狭い意味の大乗仏教、大乗仏教の本質という言葉を同じものを指す意味で使う。

・世界の宗教の中での大乗仏教

 日本は特殊だと書いた。

 特殊な理由は大乗仏教国だからだ。

 ブータンもそうだが小さいのでおいておく。

 私はブータン好きだが私のブータン愛を語っても仕方がない。

 大乗仏教を知る、勉強して理解した人は「大乗仏教は哲学だ」という。

 「大乗仏教は宗教ではない」ともいう。

 哲学や宗教の定義にもよるがこの見解は当たってる。

 大乗仏教以外の宗教は覚えるものだ。

 大乗仏教だけが理解するものだ。

 因みに仏教にはもう一つの流れがある。

 南伝仏教、上座部仏教、小乗仏教など日本では呼ばれる。

 これはミャンマー、タイなどの仏教だ。

 これも悟るものだが悟の意味が違う。

 大乗仏教の悟るは理解することだ。

 南伝仏教の悟は神秘的な感覚に到達するためのものだ。

 そういう意味では世界的宗教の中では南伝仏教は覚えるものでも理解するものでもないという意味でちょっと違う。

 大きな所だと世界的大宗教はキリスト教、イスラム教だ。

 ユダヤ教を入れて旧約聖書を共通の聖典とする敬典宗教という。

 これらの共通点は神との律法を通じた契約だ。

 律法を覚えて、律法に従う、律法の言うように行動する、律法を破らないように行動するのが基本だ。

 因みに宗教は変化する。

 一般にはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の順で成立したと思われている。

 しかし聖典だけ見れば成立年代はキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の順だ。

 しかもユダヤ教の旧約聖書以外の独自経典ミシュナ、タルムードは変化していった。

 キリスト教の新約聖書の方がユダヤ教のミシュナより早い。

 ということはキリスト教の方がユダヤ教より古い宗教と考えられる。

 またキリスト教はユダヤ教の一宗派という考え方もできる。

 一番資料が残っていないのはユダヤ教ではないだろうか。

 ユダヤ教の超保守派や正統派と呼ばれる黒いスーツに帽子に髭でイメージされる人たちは中世後半から近代初期にウクライナのあたりで発生した当時のユダヤ人からすれば異端宗派だった。

 ここら辺は異端のプロテスタントの方がカソリックより世界で力を持っていそうに見えるのと似ている。

 宗教は変わるのだ。

 神道は不思議な宗教だ。

 日本倫理思想史では古来、古代から日本人が大切にしていたのは清き明けき心で生命真という。

 日本人の清潔好きやハレとケの考え方はここからくる。

 その後中世の正直、幕末の誠や誠実の思想につながっていく。

 日本人が後ろ暗いのを嫌うのはここからくる。

 純粋で世間知らずな国民性もここからくる。

 ケチやだましや裏切りや妬みや嫉みなどネガティブな感情を嫌う。

 本音と建前というものがあって日本人は嫉妬深い人が多いと思うがそれでも嫉妬深さは嫌われる。

 神道は何かいろいろなものがくっついている。

 東北アジアのシャーマニズムも南海のアニミズムもアイヌやアメリカンネイティブでみられるトーテミズムもある。

 原始的な要素が盛りだくさんだ。

 むしろ原始的な要素を残そうと必死で頑張ってくることこそ神道の本質かもしれない。

 その上に平田篤胤などの江戸の神道や明治の国家神道が重なっても古いものを残そうという気持ちは変わらない。

 保守思想中の保守思想と言える。

 本質という言葉が何を意味するのか定義が必要だが保守自体が目的のような宗教だ。

 もはや目的も保守、手段も保守だ。

 どっちが先とかもはや関係ない。

 鶏が先か、卵が先かと一緒だ。

 儒教は要するに血縁重視の思想だ。

 道教は天地人は同じシステムからなっているという思想だ。

 天の神様の官僚組織と地の人の官僚組織は同じものだ。

 それが正しいからだ。

 道教は老荘もある。

 諸氏百家の色々なものの宗教的な部分は部分的に残っているかもしれないが中国の場合には焚書坑儒のようにしばしば前時代の文化や国家を徹底的に破壊し後の時代につごうっよく作り直す習慣がある。

 捏造や改竄といってもいいが悪い意味ではない。

 中華文明とはそういうものだ。

 インドのヒンドゥー教はインドヨーロッパ語族やアーリア人の直系宗教だ。

 輪廻転生もあるし神様もいっぱいだ。

 歴史にはじめも終わりもない。

 はじめや終わりがあるのはセム語系統のセム系思想、セミティズム、セマイティズムの古代ユダヤ教系の宗教でこれは古代中東の宗教がもとだ。

 ヒンドゥー教の親戚はギリシア神話やローマ神話とその神々と宗教だが滅んだ。

 部分的に星座や占星術などに残っているかもしれない。

 まとめると大乗仏教は特殊だ。

 そもそも宗教ではなく哲学だ。

 信仰や暗記ではなく勉強や理解を求める。

教えではなく学問だ。

・大乗仏教の簡単さと難しさ

 何であれ学問は難しい部分と簡単な部分がある、といえるかもしれない。

 大乗仏教で難しいのは空の思想だ。

 大乗仏教で簡単なのは中、中観、仮や戯(や偽)の思想だ。

 狭い意味の大乗仏教は開祖ナーガールジュナの三諦論だけだ。

 (広い意味の大乗仏教)−(狭い意味の大乗仏教)=(ほかの宗教と一緒)

となる。

 三諦論だけ維持していれば何であれ大乗仏教だし、三諦論がなければ仏教でも大乗仏教ではない。

 南伝仏教、すなわちスリランカやタイやミャンマーの仏教は大乗仏教ではないが仏教だ。

・原始仏教と大乗仏教の違い

 最初に正直に書くとお釈迦様の原始仏教がナーガールジュナの大乗仏教と同じか分からない所がある。

 お釈迦様自身が自分の教えが正しく理解されていないと思っていた。

 あるいは正しく理解されていても、正確にお釈迦様の言ったとおりに一字一句表現されて伝えられても、それでも自分の教えは正しく伝わらないとみていた。

 お釈迦様の原始仏教の核心が、お釈迦様のお悟りになられたことの核心が龍樹の大乗仏教と同じだとしたらこれはお釈迦様の予言通りになった。

 お釈迦様と龍樹の間には根本分裂、枝葉分裂というのが起こり部派仏教の時代になった。

 色々な宗派が出た。

 有名なのは説一切有部でこれを反論する形で龍樹は大乗仏教を作った。

 部派仏教の時代の仏教は大乗仏教と同じ部分はないと思う。

 ということはお釈迦様の教えの核心が大乗仏教の核心と同じであったとすればお釈迦様の教えは部派仏教時代は理解者がいなかったことになる。

 これはどの時代の歴史を見てもそうだ。

 中国の禅にせよ日本の禅宗にせよ高僧たちを見ると本当に悟っていたのか、三諦論を理解していたのか怪しい。

 怪しさ満載なので全と言えば芸術、座禅、禅問答を指すものになってしまった。

 日蓮宗にしてもなぜ三諦論だけでなく妙法蓮華経をつけたのか怪しい。

 立正安国論など政治に立ち入らず教育や教育方法の開発に従事するのが穏健なやり方だった。

 あるいは国の教育制度を作りそれに三諦論を必修科目にするので良かった。

 よくわからないので浄土宗は「南無阿弥陀仏」、日蓮宗は「南無妙法蓮華経」になってしまった。

 それに比べれば浄土宗、浄土真宗は潔い。

 「わからんものはわからん」を前面に押し出している。

 これは中観論や中道、中の思想と同じだ。

 中や中観は恐ろしく簡単だからここまでは分かったのかもしれない。

 問題は何が解らなかったかもっと前面に出すべきだった。

 「私は自分が知らないことを知っている」とソクラテスは言った。

 「分からないことは沈黙すべきである」とウィットゲンシュタインは言った。

 それに似て立派なことではあるが違いがある。

 何が解って何が解らないかはっきりさせることだ。

 阿弥陀様や「信仰のみが義」が解ることなら、分からないことも明記すべきだった。

 「分からないのは空の思想」としっかり主張すべきだった。

 だから政治化して忌み嫌われたり根切や族滅にあったりした。

 生臭いものとされてしまった。

 顕如みたいな怪僧が出て治安を悪化させるから織田信長それ以上のエスタブリッシュ上層武士や公家なども怒るかいい顔しないし蔑む。

 江戸時代には門徒嫌いの徳川家康に骨抜きにされてしまった。

 大乗仏教自体が役所や学校や葬儀会社に気付かぬうちに実質を変えられ大乗仏教の本質は益々空洞化した。

 空洞化するのは空論の空とは関係なく悪い意味だ。

・原始仏教と大乗仏教は同じもの

 いろいろ異論はあるとしてもここでは大乗仏教と原始仏教の核心は同じとして説明する。

 龍樹の理論と仏陀の悟りは同じものだということだ。

・中観論は簡単

 中観はお釈迦様が中道と言ったものだ。

 よく中庸や老荘の虚や無為とかと混同されているようだ。

 違いを説明する者もいるが違いを説明する者自体が中道を分かっていない場合が多い。

 空論も狭い意味と広い意味がある。

 狭い意味は空論以外認めない場合、広い意味は空論以外も認める場合だ。

 空論以外、空以外は何かというのが問題になる。

 空という場合何を意識して空なのか。

 大雑把に言うと空に対置されるものは実になる。

 または仮や戯、偽と言ってもいい。

 実は実体や実在の実だ。

 実と空、これが対蹠、対象的に扱われるのが大乗仏教だ。

 実の反対は虚ではないかという感じがするかもしれない。

 虚実という。

 虚々実々という。

 孫子や老荘を知っているとその先入観が干渉を起こす。

 また無とも混同される。

 有と無が混同されそうだ。

 有は実と近い感じがする。

 「無為にしてなさざるなし」

 これが老荘で一番有名な言葉ではないか。

 無と空と中、全部ごちゃごちゃになりそうだ。

 「中は空っぽで何も無い」

 一文で無も空も中も入れられる。

 概念の定義をしっかりして独立なものは独立とはっきり区別し、相互関係を改めて観耐えられる整理力、メタ認知力、マルチタスクやワーキングメモリーが必要になる。

 論理的な思考もできないといけない。

 記号操作だ。

 レトリックや人文的な言葉の使い方ではなく論理的な言葉の使い方。

 記号論理学のように志向できないとパラノイドでシミュレーション、シミュラークル、フェイクニュース、捏造、改竄、ソフィスト、レトリック=レートリケー、アンチ・ロゴス、提携発達症候群的なものになる。

 世界文学ではシェイクスピアのジュリアス・シーザーのブルータスに対する民衆の煽情暴動、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟のドミトリーの裁判シーンが有名だ。

 第二次世界大戦後はB級C級裁判と呼ばれたものがアジアで行われた。

 そこでは鈴木や佐藤といったメジャーネームは危険だ。

 憲兵の佐藤ではなく砲兵の佐藤であるということが立証されても有罪となる。

 別人であろうが関係ないのだ。

 民衆の気分が晴れればそれでいい。

 こうして冤罪だらけの民衆裁判がアジア各地で行われた。

 これがロゴスなき世界だ。

・中観はメタ認知

 中とは中立的に見ると考えてよい。

 客観的、第三者的、冷静に見ることだ。

 メタ認知を使用してみることだ。

 裁判を想像するといい。

 裁判官が中観だ。

 民事裁判の原告、被告の関係だ。

 刑事裁判では起訴する検察官と起訴される被告人の関係でこれが空論と実在論の関係になるのが三諦論だ。

 裁判官は両者の陳述、意見を冷静客観的、中立、第三者的に聞き考える。

 判決は下るが冤罪もある。

 可能性としては4パターンある。

①    Aが正しくBが正しくない
②    Bが正しくAが正しくない
③    AもBも正しい
④    AもBも正しくない

可能性を考えると①~④全ての可能性は考えられる。
が空論と実在論になる。

・イデオロギーの問題

 思想をイデオロギーと呼ぶことにする。

 空論も一つのイデオロギー、実在論も一つのイデオロギーだ。

 人の思いなしを思想と言ってよい。

 思想を研究するのが倫理学だ。

 全てのイデオロギーが正しいかどうかなんてわからない、というのが中観論だ。

 実証なんてもってのほかだ。

 ある前提に基づけば真偽が決定できる、というような論理学上のルールを設定することはできる。

 その場合はある前提、ある仮説が成り立つならば正しいか正しくないかは決定できる。

 しかし仮説や前提が正しいか正しくないかは決定できない。

 究極的に決定できないものがある。

 あらゆるイデオロギーはそれを正しいか正しくないか決定したければ何かを前提、仮定、仮説を作りそれを正しいとした場合のみ正しいか正しくないか決定できる。

 なぜを質問し続ければいずれかならず最後の砦となる前提、仮定、仮説に行き当たる。

 その最後の砦を正しいか正しくないか知ることは人間にはできない、というのが中観論だ。

 中道も中も同じだ。

 これはソクラテスの無知の知やポスト構造主義と同じものでもある。

 正しいか正しくないかは分からないが形式や論理の規則を作ることが出来るというのが人間にできることだ。

 人間に出来ないことは形式だけしか作れず、前提や仮定や仮設の真偽は決定できないものがあるということだ。

 ものがあるというか必ず決定的ないようにできる。

 ゲーデルの不完全整理と見かけが似ているがそれとは別問題と考えてもらってよい。

 もっと単純で簡単なことだ。

 なぜを繰り返すと必ず分からないことが出てくる。

 「なぜ人を殺してはいけないのか」

 人間は人を殺していいか悪いか答えられる人はいない。

 ただ根拠、つまり仮定や前提や仮説やルールや規則を上げることが出来るだけだ。

 「聖書に書いてあるから殺してはいけない」

 「神が殺すなと言っているから殺すのは正しくない」

 この場合聖書や神が前提や仮定や仮説やルールや規則だ。

 啓典宗教の場合にはルールの内容を律法という。

 神がいるいない、聖書が正しいか正しくないかは分からない。

 それが中観であり現代哲学のポスト構造主義だ。

 それが分かるというならバイバイだ。

 議論はそれまで、話し合う余地はない。

 お互い関わりあわなければよい。

 神は存在すると信じる根拠を持つ者もいる。

 聖書で言えば預言者がそうだ。

 エリヤは神の声を聴き神の存在を感じた。

 だからエリヤにとって神は実在するといってよい。

 私も神の実在を感じたことがある。

 こういう体験はしばしば起こりうる。

 アイルトン・セナはレース中神の存在を確信し「神がいた」と叫びまわったそうだ。

 宇宙飛行士で神の存在を感じ牧師や神父になった人もいる。

 ラインホルト・メスナーという有名な登山家は登山中神の存在を感じた。

 素潜りのジャック・マイヨールをいう選手は100mの深海?に素潜り中神の存在を感じたそうだ。

 ティモシー・リアリーというハーバードの研究者はドラックで超常体験、神の存在を感じるなどを目指しサイケデリックムーブメントという文化活動を流行らせた。

 LSDなどを使い神秘体験から特殊な精神体験による人間の超越を目指すものでヒッピームーブメントの一つの核となった。

 後期のビートルズの曲にはLSD体験が歌詞になっているものがある。

 ジョン・C・リリーという学者は人間を比重が同じ25%硫酸銅水溶液に浸からせ温度も体温と同じにし物理的無刺激状態を作ったうえでLSDを投与したり、イルカのタンクの隣に設置したりした。

 結果としてイルカと意志疎通ができるようになったり人間を超えた存在たちを感じたりしたそうだ。

 私も神の実在を感じたことがある。

 統合失調症もしばしば神の存在を感じる。

 しかしそこ迄だ。

 個人的な体験に過ぎない。

 神の存在を感じてもそれは本人が神の存在を信じる根拠にしかならない。

 他人に伝えることはできないし、ましてや実証できない。

 このルールの上に現代社会は成り立っている。

・空以外のもの

 空と比較すべきは空でないものだ。

 これを仏教では仮や戯という。

 また「色」という場合もある。

 偽というひどい言葉を使う場合もある。

 偽や仮という場合には現代思想のボードリヤールのシミュレーションとシミュラークルと同じ意味だ。

 実という場合には現代哲学のジャック・デリダの「現前」という言葉と同じ意味になる。

 元数学者の現象論ではなく現象学の創始者フッサールや弟子のハイデガーが使い始めたニュアンスをデリダが大幅に変えて使った。

 我々の認識は実とともにある。

 我々は発達の過程で実を感じるようになる。

 実を感じられるようになる発達心理学や認知科学での脳の発達段階を直感的思考段階という。

 我々は実を直感する。

 直感によって生じるものは何かというと実は実だ。

 これ以前は実を感じない。

 これ以前の段階を感覚運動期という。

 生後一か月以内の新生児はこの段階だ。

 世の中実だけで成り立つのだろうか。

 実以外のものとして機能や関係を感じる時がある。

 医学では形態と機能という。

 形態は解剖学、機能は生理学などで勉強する。

 実がなくても世の中成り立つのだ、というのがお釈迦様の最初の悟りだった。

 これを空という。

 五蘊皆空という。

 空だから輪廻転生もない。

 実が生成する仕組みも分析し理論化した。

 これを十二因縁生気という。

 精神機能の表層に最後に浮かぶのは実だ。

 有とか生とか老とか病とか死とか苦しみなども実だ。

 しかしこれは空と考える事が出来る。

 現代哲学的にいうと脱構築できる。

 逆に実を作ることもできる。

 構築、あるいは構成という。

 構成主義心理学というのがあるが構造主義の影響を受けている。

 実でないものは機能や関係などの空だ。

 空でないものは形態や色などの実だ。

 しかしこれは反対とか逆とか裏とかの必然的な関係を持ったものではない。

 実と空は独立だ。

 実だけで世の中説明できる。

 代表的な哲学はプラトンだ。

 プラトン哲学はイデア論という理論だ。

 空だけで世の中説明できる。

 構造主義でこれが可能だ。

 例は現代数学の形式主義や功利主義だ。

 前者は2000年以上前にすぐにできて、後者は100年前にようやくできた。

 後者の方が大変難しい。

 それに比べて仏教はお釈迦様の後に空が失われたが500年後には龍樹があっという間に再建した。

 龍樹以降はおそらく保持された。

 瑜伽行唯識派や中国に仏教を伝えたインド人や中央アジア人は空も中観も分かっていた。

 中国でも天台智顗は分かっていた。

 しかし分からない人が変なものを作り出す。

 分かっていて作り出したのかもしれないから断定はできない。

 密教であったり禅宗であったり浄土宗であったりする。

 分かっている人と分かっていない人の混在のまま現在へ。

 その間西洋は全く空も構造主義も分かっていなかった。

 むしろ否定した。

 実を否定すると神や聖書が否定されてしまう。

 これは実は大変なことなのだ。

 実も空も両方存在するとすればいいのだが人間はなかなかそれができない。

 オッカムのカミソリで叩き切ってしまうかもしれない。

 最近のポリコレ問題やマルクス主義のようなイデオロギー絶対主義者がでるのはこれが理由だ。

 中観がない。

 実と空どちらもあってもいい。

 独立事象だ。

 「独立」という概念を理解できない。

 高校数学で習うが確立統計を選択していないと習わないかもしれない。

 教養に論理学、数学、現代哲学、記号論(言語)が必要な理由だ。

・空は構造主義

 大乗仏教は現代哲学そのものだ。

 空は構造主義的存在論と認識論になる。

 中観はポスト構造主義になる。

 色や仮、戯は実在論になる。

 西洋哲学で言うと構造主義が構造主義的精神分析を通して哲学に導入されるまで構造主義による存在論や認識論しかなく実在論しかなかった。

 これが日本と世界の大きな違いだ。

・日本と世界

 日本は大乗仏教国だから常に空、構造主義があった。

 欧米をはじめとする世界には構造主義はなく実在論しかなかった。

 日本には中観、ポスト構造主義が歴史の初めからあった。

 欧米にはなかった。

 歴史とは文字に書かれたものからなる。

 日本は歴史の最初から仏教と漢字という文字がもたらされた世界でも稀有な国だ。

 そういう国は昔はあったかもしれないが今は日本(とブータン)しかない。

 ブータンは大好きだがいちいちブータンを書かないといけないのはめんどくさくはあるがブータンもすごい国だ。

 だから最近まで鎖国していたのだろう。

 お陰で大乗仏教、現代哲学が保存された。

 日本も鎖国していたが(これは最近は歴史学で否定的)鎖国を辞めた途端世界の大国になってしまった。

 訳の分からない国だ。

 だから日本異質論、日本特殊論が流行った。

 日清日露戦争まで日本は外資を入れず資本主義国になった。

 実は江戸自体や戦国時代から資本主義だったが。

 良くも悪くも日本は金銀銅などの希少金属が取れる資源国で豊かだった。

 これで中国から貨幣を買えた。

 本当に変な国だといえる。

・世界と大乗仏教と現代哲学

 変な話だが世界は大乗仏教化している。

 柄谷行人によるとフランスの思想家コジェーヴが、

「ポストモダンの世界はアメリカのようにではなく日本のようになるだろう」

と言ったそうだ。

 当たり前だ。

 現代社会は現代哲学から成り立っている。

 現代哲学は大乗仏教と同じだ。

 つまり現代社会は大乗仏教を基礎に成り立っている。

 流石に中世のようにどんなにキリスト教国が多く力を持とうがキリスト教から成り立っているという人はいまい。

 むしろ脱宗教化が近現代のトレンドだ。

 しかし現代社会はポスト構造主義と構造主義から成り立っているとはいえる。

 自由や平等や多様性や主体性の基礎はポスト構造主義にある。

 ポスト構造主義はイデオロギーではなくイデオロギー使いだ。

 傀儡ではなく傀儡師で人形ではなく人形遣いだ。

 傀儡や人形はイデオロギーになる。

 傀儡師や人形遣いはメタイデオロギーやメタ認知となる。

 イデオロギー絶対主義を認めないのがポス後構造主義だ。

 これをイデオロギー相対主義という場合もある。

 多文化共生の基礎はここにある。

 社会学で言うと法の支配と消極的自由と自由権を認める。

 個人と主体性を認める。

 ここのイデオロギーはどうしても集団主義になる。

 積極的自由を認めるものになるが誰かの自由は誰かの不自由になる。

 差別をなくすと別の差別が必ず生じる。

 そもそも大乗仏教や現代哲学を知らないと差別の定義がない。

 現代哲学を知らないということは論理学や数学を知らないということだから定義の意味も知らないのかもしれない。

 大乗仏教は究極に論理的なインド人が作った思想だ。

 理系的だし数学的だ。

 現在のITは現代数学から成り立っているが現代数学は現代哲学の一部に過ぎない。

 まあ現代哲学は現代数学から生まれたのだがより洗練し全ての分野に一般化し拡張したのが現代哲学でありそれは大乗仏教と同じものだ。

・教養と大乗仏教

 かつて教養課程は言葉と数学と論理学から成り立っていた。

 現代的に言えば記号、言語と現代数学や数学を基盤にした理論軽化学、記号論理学と現代哲学だ。

 2000年ごろ教養主義の没落という本が書かれた。

 教養勉強しても金にならない。

 当時はアメリカの上位の大学卒業した人はトレイダーかコンサルタントになるのが流行っていた。

 金になるからだ。

 ビジネス始めるのもファミリービジネスを継ぐのにも役に立つ。

 金のためには基礎も教養もいらずいきなり専門でよかった。

 あとは非ロゴス的な相手を言いくるめる方法と物事に形をつける方法があれば金を稼げた。

 時代が変わり、現在はまた教養が必要になっている。

 ICTが道具のレベルを超えてきた。

 AIの進化だ。

 どんな時代であれ基礎は腐らない。

 陳腐化しない。

 専門や応用は容易に時代遅れになる。

 昔は

「芸は長く人生は短い」

といった。

 今は

「芸は短く人生は長い」

時代になった。

 長い人生を耐えうるものは変わらないもの基礎だけだ。

 基礎と教養には必ず現代哲学が含まれる。

・大乗仏教がないと世の中混乱する。

 大乗仏教、現代哲学がないと世の中混乱する。

 逆に混乱させたければ教養も現代哲学も無くせばよい。

 世の中は共通の基礎と基盤をなくす。

 現代哲学から作られているのは数学、記号、科学、技術だ。

 ある日人類から自然科学も工学も産業も無くすことを想像すればよい。

 少なくとも中世には戻る。

 今は人間の数が多すぎる。

 人間の数は数十億単位なら少なすぎるより多すぎる方がはるかに大問題だ。

 整理整頓清掃清潔習慣躾の6Sが必要だがそれがないと多様性や多文化共生は維持できない。

 すでに第三次世界大戦が起こっている。

 数学も物理もできない人がエコや持続可能エネルギーや電気自動車を語るのは片腹痛いし傍ら痛い。

 インフレやサプライチェーンの断絶や銀行倒産や不景気、戦争、ドル基軸通貨の終了が始まりつつある。

 欧米のキリスト教やユダヤ教を裏返したイデオロギー絶対主義に世界が辟易しているからだ。

 辟易している方もイデオロギー絶対主義に直ぐに観戦してしまいそこから離れられなくなる。

 大乗仏教と現代哲学の基礎教養がないからだ。

 人類、多文化、多人種、多民族、多宗教どころかAIとも共存しないといけない現在現代社会の基礎も教養もAIの基礎である数学、言語、記号、論理、自然科学、技術の気を教養を知らないと話にならない。

 日本だけが大乗仏教を基礎に持っている。

 ブータンもだが。

 大乗仏教=現代哲学をこれからの新教養主義の基礎教養科目にするしか仕方がない。

現代哲学を広める会という活動をしています。 現代数学を広める会という活動をしています。 仏教を広める会という活動をしています。 ご拝読ありがとうございます。