かんたん保守主義の現代哲学的基礎

かんたん保守主義の現代哲学的基礎

・保守主義とは

 保守主義とは社会思想だ。

「保ち」「守る」主義だ。

 主義とは考え方と行動規範だ。

 人の思いなしを研究する学問を倫理学という。

 思いなしとは思想だ。

 思想とは「思う」ことと「想う」こと。

 思いなしも人間が思うことの全てだ。

 だから倫理学と書けばあらゆる学問は倫理学になる。

 それでもいいが不便だ。

 だから扱う範囲が限定される。

 宗教、哲学、主義、道徳、思想、狭い意味の倫理などだ。

分類はいろいろ出来るが個人思想と社会思想に分けると便がいい。

個人思想は個人がどうあるべきかで社会思想は社会がどうあるべきかだ。

主義とは言葉からすると「主なる義」となる。

義とは判断することだ。

「正義」というと正しい判断、「義人」というと判断する人だ。

 そうでなくてもいいのだが「義」という場合、何に基づいて判断するかという規範やルールが念頭に置かれることが多い。

 また同じくどうでなくてもいいのだが「義」は規範やルールに基づいて思考したか、行動したかに焦点が当てられやすい。

 規範やルールに基づき考えたり行動したりすることを正義という。

 その否定は不義になる。

 つまり規範やルールに基づいて思考したり行動しない場合が不義という。

 規範やルールに基づいて行動する人を義人という。

 聖人や義人は似た言葉だし、宗教でよく使われるが義人の方が悲壮感がある。

 聖なる人という場合、人はムードで判断しがちだ。

 なんだか神聖な感じがする。

 義人というと規範やルールに基づいて思考や行動することが簡単な場合はいいが難しい場合がある。

 その規範やルールに反対する人や組織に妨害される場合がある。

 迫害されたり拷問されたり矯正されたり殺されたり死刑になる場合もある。

 それでも規範やルールを貫くから悲しいのが義人だ。

 三国志の劉備玄徳は義人と言って褒められているが聖人とは言われないし苦労人だ。

 聖フランチェスコは小鳥と話をしたりして幸せそうで楽しそうだ。

・保守は何を保守するか

 保守主義は「保ち」「守る」主義だと書いた。

 何を保ち守るのか分からないと意味が分からない。

 要するに現状や過去を保ち守るのだ。

 現状や過去を変えないと言い換えることが出来る。

 古いものを守る場合は守旧という場合がある。

 守旧主義とは言わないが保守派という場合がある。

 守旧派と保守派は似た言葉だが保守の場合には保守主義という言葉もある。

・保守主義のニュアンス

 保守主義という場合ニュアンスがある。

 積極的に昔を守るという考え方がある。

 何かを変えたい人には邪魔な考え方と悪くとる事もある。

 もともと革新派や改革派なのに保守主義に戻ったら「保守反動」と言われた時代がある。

 驚くべきことに昔は知識人が殆ど社会主義か共産主義だった時代がある。

 どちらも革新改革派だ。

 そういう人たちは“進歩的文化人”と呼ばれた。

 今ではやや馬鹿にしたニュアンスになるが若い人はその言葉自体知らない。

 19世紀半ばから20世紀後半のソビエト連邦崩壊の冷戦終結まで共産主義、マルクス主義は特に後半隆盛を極めた。

 東大経済学部は東大法学部からマルクス主義を研究するために大正時代後半か昭和前半くらいに作られたと思ってもらってよい。

 「共産主義や社会主義でないと真心がない」と思われていた時代があった。

 司馬遼太郎や堀田兵衛が冷戦が崩壊した時に悲劇的な規範喪失状態、アノミーに陥っていたマルクス主義者に「あなたはなぜ社会主義者にならなかったのか」と聞かれたそうだ。

 社会主義、共産主義、マルクス主義、毛沢東主義、何でもいいがそういうものになるのが当たり前と思われていたのだ。

 大学などのアカデミズム、新聞テレビなどのメディア、日教組や教育委員会などの教育界、労働組合などすべてが社会主義一色だった。

 活字や放送や授業は全て社会主義だった。

 降格となぜ社会主義にならなかったのかと不思議に思われるだろう。

 私も書いていて不思議に思う気持ちもあるが現実を見ると全く現実的ではなかった。

 ソ連も中国も東欧もキューバも北朝鮮も全くうまくいかなかった。

 しかしメディアは大成功と報道したので在日韓国・朝鮮人は北朝鮮に帰還する人たちが大勢いた。

 酷い悲劇だった。

 『血と骨』という小説がある。

 戦前に日本に渡ってきて豪快に生きた在日一世だった父親を在日二世の息子が伝記風に描いたフィクションだ。

 ビートたけし=北野たけしが映画にしている。

 ガルシアマルケスの千年の孤独という小説にラストは似ていて父親は北朝鮮に帰還したことを複雑な思いで振り返る著者の心情で終わる。

 ことほどニュースの捏造や改竄が盛んだった。

 文化大革命など地上の楽園が出現したほど称えて報道された。

 のちに数千万人殺されていたことが分かる。

 殺され過ぎて正確な人数は分からない。

 カンボジアのポルポトに似て知識人やかつてのプロレタリア以外、つまり下層階級以外の中流から階層、階級を皆殺しにするか矯正しようとした。

 この時代中医学の断絶が起こっている。

 医者は知識階級と見られてみな殺されてしまった。

 生き残った中医学の医師は貴重な生き残りとしてかなり後になって厚遇された。

 中国の支配層の住む中南海などで共産党幹部を診るのに往診した。

 流石にこれだけ酷いとどれだけ捏造、改竄しても正確な現状は漏れ伝わって常識のある庶民はついていかない。

 生活と日常が現実にある。

 夢見がちな人や頭がお花畑な理想主義者や感情がおかしくなってしまった活動家が過激な行動を繰り返した。

 そんなのを見ると庶民は益々ついてかない。

 因みに社会主義者たちは昔は主義者と言われた。

 主義と言えば社会・共産主義と同じ意味と考えて間違いないくらい隆盛したからだ。

・冷戦崩壊後

 ソ連は戦後ハンガリー動乱やプラハの春やアフガニスタン侵攻で無茶をした。

 そのため世の中想社会主義者の状態だったが社会主義熱は冷めていった。

 おかしな話だが全ての人が一回は青春の爪痕のように、若気の至りのように、中二病のように、思春期心性や青年期心性の正常な段階のように一度は社会主義に観戦することが多かった。

 感染しないまでも社会主義が正義で真心だという風潮は多くの人に共有された。

 社会主義、マルクス主義、もっと言えばあるイデオロギーを否定する方法が発達していなかった。

 戦後フランス現代思想というものが生まれ世界的に流行していった。

 きっかけは文化人類学のレヴィ=ストロースが構造主義ブームを起こしたことだ。

 あらゆる学問分野に構造主義が適用されていった。

 それが倫理学、哲学の存在論や認識論に適用するに及び近代思想の前提が崩れた。

 マルクス主義と言えど近代思想の中の一つに過ぎない。

 前提が崩れるとなるとマルクス主義の無謬性、言い換えるとマルクス主義は正しい、誤りがないということには根拠がなくなる。

 経済的にも思想的にも評判的にもソ連ヤバいとなったのが1980年代のソ連のアフガン侵略後。

 今でも当時の名残で侵略でなく“アフガン侵攻”と書かれることが多い。

 侵攻と侵略は独立概念だからこの場合は侵攻かつ侵略だからどっちでもよいが左翼はこの言葉の使い分けにこだわる。

 独立という概念がないのと全てのことをプロパガンダの観点で考える習性というか性癖がある。

 これは19世紀の革命運動で発明された習慣だ。

 レーガノミクスやサッチャノミクスやプラザ合意や国際金融の協力や軍拡紛争で力押しししたら経済的に崩壊してしまった。

 問題は冷戦崩壊後だ。

 現実的にも、政治的現実が特に大きいが、思想的にもマルクス主義や共産主義は失敗したのだがアノミーになったり公開したりしながらも長年の習い性になった思考の性癖と習慣は変わらなかった。

 一言でいうと近代主義、モダニズムで、実在論とイデオロギー絶対主義だ。

 その他革命運動していた頃の習慣的思考は意識してか、おそらく無意識に保持された。

 今更変えられない大人の事情もいろいろある。

 経済的既得権益が出来上がっているとそれで食ってる人もいるから主義を変えると職を失う。

 食っていけない。

 信用も失う。

 だから社会主義は相変わらずだった。

 代替この時期に新興宗教が流行り、環境やエコ、自然主義、スピリチュアル、保健福祉、介護、フェミニズム、LGBTQ+、いろいろ清らかなものが流行ったが代替左翼崩れだった。

 やはり資本主義、自由主義、交換経済、市場主義、競争主義、民主主義は汚く見える。

 社会主義を捨てたからと言ってそっちには行けない。                                                                                                                                                                                                                                                              

 保守主義は社会主義の時代には「社会主義以外」を指す言葉でもあった。

別のニュアンスとして保守主義は保守反動と言われることは前に書いた。

冷戦期は社会主義でないものはひとまとめにされる傾向にあった。

「社会主義とそれ以外」の時代だった。

社会党と共産党と民社党と自民党と公明党があった。

公明党は宗教なので別枠。

あとは近代の政治社会思想同士の細かい違い。

社会主義は共産主義に至る過程。

共産主義は生産手段の完全国有化で完全な統制、計画経済で需要と供給には自由がなくなる。

極端な話、貨幣が必要ない。

完全配給制でいい。

戦時統制経済を知っていれば思い浮かべるといい。

戦後の配給制でもいい。

闇市場と物々交換だ。

郊外や田舎の農家に行って衣類、着物などと物と食物、コモディティの交換だ。

物々交換という意味での市場と交換経済は生きている。

物々交換経済はつい最近まであった。

19世紀に高度な貨幣経済を実現できていたのは欧米とその植民地、中国、日本くらいだ。

日本と言えど田中角栄なんかは戦前の新潟の田舎で貨幣経済をよく知らない環境で育ったのではと評論家にこき下ろされていた。

あまりに成金趣味だったからだ。

朝鮮半島は幕末でも貨幣経済ではない。

国際貿易では若干中国の貨幣を使う程度。

中華圏の中国と属国の貿易はちょっと特殊で貿易になっていたのは主に密貿易だったのでは。

欧米もヨーロッパは西欧以外は未発達だ。

南欧、東欧、北欧、など西ヨーロッパから離れるほど未発達なところがある。

ソ連まで行くともはや農奴制だ。

農奴、奴隷に貨幣はいらないともいえる。

・社会思想の分類

 何によらず分類はいろいろな方法で可能だ。

 分類手段、方法を豊富に持っている人が知性が高いともいえる。

 保守主義は個人主義でもあっていいがここでは社会思想だけを扱う。

 思想全般ここでは個人思想は扱わない。

 社会とは人間を集団として扱うものだ。

 反対派個人主義。

 社会主義も共産主義も民主主義も独裁主義も全体主義も全て集団主義だ。

 純粋な無政府主義だけは個人主義でもあるかもしれない。

 社会思想は一から全て人工的に、理論的に作り上げるものとそうでないものがある。

 そうでないものは保守主義を含んでいる。

 純粋な保守主義は何も変えない。

 しかしこれは多くの場合は不可能だ。

 社会も人間も変化する。

 記録や記憶の保存を生かせば進歩する。

 これも自然に変わる場合と人工的に変える場合がある。

 人工的な部分をどのくらい含ませるかがポイントになる。

 社会思想を人工的に作り上げる場合でも0から作り上げるのは大変だ。

 どっかで古い部分を残すことになる。

 一から設計したもので保守的な部分が全くないものをいきなり現実で実行するというのは難しい。

 実験になる。

 たまにやらかすことがある。

 全くは無理だがかなり急進的に新しい理論を現実適用することがある。

 革命がそうだ。

 政権交代が伴わなければ改革というのか。

 カンボジアのポルポトや毛沢東の文革が良い例だ。

 王政復古のような形で昔に戻す場合もある。

 昔が今と接続していなければこれも今を大きく変えることになる。

 イギリスの市民革命もフランス革命も王政復古を経験した。

 これはうまくいきやすい。

 昔それなりに機能した実績や先例があるものは強い。

 明治維新などはほぼ一発で革命を成し遂げた。

 内乱やその後の制度改革など逐次、漸進的な変化もある。

 しかしまあうまくいったといえる。

 まあ明治維新の時点でもう日本は詰んでいたのかもしれない。

 結局アメリカに惨敗した。

 その上今も支配されている。

 先送りしただけともとれる。

 それはともかく明治維新がしばしの安定や日清・日露の戦役の勝利などできたのは王政復古だからできたことだ。

 フランス革命もロシア革命ももっとごたごたした。

・理論は作れる

 大前提として現代哲学では理論は作るもの、という見方をする。

 そうでない見方をしてもよい。

 しかし作れる。

 発見とか、神の摂理として、自然界の法則として存在したとかそういう見方をしない。

 (現実)と(想像=頭の中)と(象徴=記号=言葉)を分ける見方をする。

 例は現代数学の父ヒルベルトのユークリッド幾何学の公理化だ。

 別に公理化されたユークリッド幾何学が先でその後にプラトンのイデア論的、ということは近代までの実在論的ユークリッド哲学を作る順番でもよい。

 後者は実在論を用いるので「点」や「線」などの定理が意味不明なものになる。

 「点とは面積のないもの」

 「線とは幅のないもの」

 意味はないがなんとなくイメージできれば脳的にはそれでよい。

 それで2000年間特に疑いもなくやってきた。

 別にどちらが当っているとか間違っているとかあっているとかの問題ではない。

 どっちも作ることが出来る。

 改良することもできる。

 公理の一つを入れ替えれば非ユークリッド幾何学という理論ができる。

・自然科学の過ち

 ユークリッド幾何学はいろんな意味でよい例になる。

 それはかつてはその方法論、論証過程は論理の手本とされた。

 ニュートンは彼の確立した古典力学をユークリッド幾何学によって記述した。

 同じく彼とユークリッドが作り上げた解析学―微分と積分―ではなくだ。

 微分と積分される関数もユークリッド幾何学的な空間の位相幾何学的な連続を前提に考えられている。

 微分可能な関数は同時に連続可能な関数でもあるからだ。

 厳密にはそれは十分条件と必要条件の関係にある。

 「関数が微分可能」が十分条件で「関数が連続」が必要条件だ。

 ニュートンは彼の確立した古典力学をその著書『自然哲学の数学原理』によってユークリッド幾何学を前提にユークリッド幾何学の立証、証明方法を使って記述した。

 ニュートンは堂々と書いている。

 (「原理」=「プリンシパル」)であると。

 これはすごい言葉だ。

 自然の原理を発見したと主張しているのだ。

 ニュートンが主張しただけでなく実際にそう信じられた。

 「ラプラスの悪魔」という概念は古典力学の全面的な信頼の上に成り立っている。

 原理は分かったのだから万能のハードウェア、無限の数値演算能力を持つコンピュータがあり、ある時点の万物の位置と速度が分かれば宇宙の過去、現在、未来がすべてわかる。

 原理は分かったので限界は無限の計算能力やほぼ無限と思われる物体の位置や形や質量や速度が分からない事にある、と言っている。

 それが正しくないことは今日では我々は量子力学によって知っている。

 ガリレオやニュートンが考えたようなユークリッド空間の上に宇宙は成り立っているのではないことが少なくとも観測で分かったためだ。

 連続ではないが控えめにたとえ空間やその他の色々なパラメータが連続であったとしても量子力学以前に非ユークリッド幾何学がガウス等によって見つかっている。

 平行線公準を別の公準に変えたリーマン幾何学は狭い範囲だけ見ればユークリッド幾何学は狭い範囲だけ見ればユークリッド幾何学と同じだ。

 これは初期のトポロジーの前提でもある。

 つまり古典力学は宇宙の原理ではどういう意味でもなかったわけだ。

 にもかかわらずユークリッド幾何学を構成する要素の定義の曖昧さを除けばユークリッド幾何学は論理の一つの形として完璧と言える。

 ヒルベルトがユークリッド幾何学を公理化した、つまり構造主義化して構造主義で記述するようになった後もユークリッド幾何学と変わらない形で論証できる。

 実在論=モダニズムであろうが、構造主義=ポストモダニズムであろうがやることは変わらないのだ。

・矛盾はあってよい

 矛盾のない理論を作ることがあることが出来る。

 矛盾のある理論を作ることもできる。

 後者が悪いということはない。

 「悪い」の定義にもよるが。

 個人としては人間の脳が納得したり、それを使うことで実用的な利益を得られたり、社会が上手く収まればいい。

 功利主義やプラグマティズム的な理論の捉え方で科学哲学などにも使われる。

 数学や論理学の基礎論はそこの部分を研究する。

 功利ではなく公理主義とはそういうことで無矛盾な理論を追求する。

 自然科学的な理論は無矛盾を求める。

 矛盾のない数学理論や論理理論を基礎とする。

 応用としてはコンピュータサイエンスをイメージしてもらえばよい。

 間違えればバグる。

 デバックが必要になる。

 そもそも動かなくなったり止まらなくなったり同じことを延々と繰り返したりする。

 ケアレスミスではなく設計上の本質的なミスとしたら。

 本質の定義によるが対象に使うのに合わなかったというだけだ。

 別の理論を使う方が実用的ということだ。

 それ以上の意味はない。

 現実や実用で問題なければよい。

・矛盾だらけの理論

 普通人文科学の芸術や文学などは無矛盾など求めない。

 矛盾ではなく感動や感情が問題だ。

 社会科学も流動的だ。

 経済法則は普遍的か?

 人間も社会も時代によって変わる。

 セーの法則が通用する時もあればケインズ理論が有効な時もある。

 人間の欲求も変わる。

 行動パターンも変わる。

 社会も変わる。

 あいまいな部分があるから合理的期待形成学説などがある。

 もしかしたら経済現象の全てを説明する普遍的な説があるかもしれない。

 それは自然科学もそうだ。

 ただし自然科学よりはるかにあいまいだ。

 矛盾があってもおかしくない。

 自然科学でさえ矛盾のある理論に将来行き着く可能性もある。

 現代思想ではこれをスキゾ性とパラノ性といった。

 スキゾは理論に純粋であるため空気を読んだり非論理的コミュニケーションが苦手だ。

 それ故に非論理的理解を押し付けられるとダブルバインド的状況により発症したり再発したりする、のような理解の仕方になる。

 まるで今はやりの発達障害、アスペルガー症候群、自閉スペクトラム症のことを言っているようだ。

 実際自閉スペクトラム症の前身である広範性発達障害はかつては自動思春期の統合失調症だと思われそう名付けられていた。

 過去を振り返るときに我々は神のようになれる。

 知っている事を語るときには我々はやはり神のようになれる。

 往々にして一人で話させると完全で神のように見える論舌により神のように見えても質問してみると急に輝きを失うことがある。

 質問内容が論者の知らないことである場合だ。

 知らないと明確にするか誤った論を語るか胡麻化すかだがどれもみすぼらしいかもしれない。

 そもそも知っていると思われているものだって未来の進んだ知識を知る人々から見れば未熟で誤っているかもしれないのだ。

 人間は傲慢であってはいけない、謙虚でなくてはいけない、みたいなのが頭のいい人や現代哲学を知っている人に見られる。

 これを揶揄してダニングクルーガー効果にイグノーベル賞が与えられた。

 IQと自己評価は逆相関を示す、というものだ。

 理論や論理の拘りとは逆に論理の正しさを堂々と乗り越えていくあり方はパラノ=パラノイド性と言われる。

 感情で話すとき人はこうなる。

 そもそも論理は命題、平叙文しか扱わない。

 言語の機能にある疑問文や感嘆文は論理の範疇外だ。

 言葉は感情や意志や真善美を表現するためにもある。

 そういうのを扱うのが人文科学や社会科学の一面だ。

 ともに個人としての人間や集団としての人間を扱う。

 生物としての人間を扱うのは自然科学である生物学や医学・生理学だ。

 これは究極的には自然科学の基礎科学である物理学に帰着する。

 自然科学の基礎科学は物理学だけで、生物学、化学、地学、医学、生理学などは全て物理学の応用になる。

 物理学は数学や論理学で記述されるので自然科学の基礎は数学や論理学だ。

 言語学は究極的には記号の学問だ。

 論理を扱うのは論理学、統語法を扱うのが文法、知情意を含めた表現や実施用論を追求するのが修辞学となりどれも中世の自由7科、いわゆる教養課程の科目でリベラルアーツと言われた。

 我々の日常言語は論理以外の色々なものを表現したり意思伝達したり使うのに使われる。

 言語が非論理的であっても問題ない場合も多いどころか非論理的に言語を使いこなせなければいけない。

 理論に対する拘りにより非論理的にしか話せないと自閉スペクトラム症のようになるが論理や理論に全く頓着せず話すことを定型発達症候群と揶揄する場合がある。

 これは嘘とフェイクとシミレーションとシミュラークル、偽りに満ちた世界でもある。

 文学作品はフィクションであるのせよノンフィクションであるにせよ定型発達症候群のように語られないとただの論証になってしまう。

 非人間的だ、ということで自然科学に夢中になりすぎたりや自閉スペクトラム症の症状が強まると異常で精神疾患的と見做されてしまった。

 確かに論理、無矛盾性、完全性、独立性などに縛られない言語は大切ではある。

 ただし論理が全く通じない世界がありこれが妄想性障害や妄想型統合失調症に見られるということでパラノイドという言葉が使われるようになった。

 因みにスキゾというのは分裂を意味するギリシア語語源の言葉だが分裂型精神病を昔は精神分裂病と言い今は統合失調症と呼ばれている。

 英語では相変わらずschizophreniaで変わらないが日本語はいろいろいじくりまわされて翻訳が点々としている。

 「統合失調症という言葉に差別のニュアンスがある」ということになったらまた日本の精神科の学会が名称変更するはずだ。

・保守がなぜ大切か

 保守なしでは人間は生きられない。

 純粋に理論だけの思考はできない。

 純粋な社会的なイデオロギーというものはない。

 論理は人間の精神の能力ではあるが人間の精神の能力は論理だけではないからだ。

 人は論理だけでは生きていない。

 ニュートンは巨人の肩に立つと言ったが、フロイトは潜在意識と言ったが、老荘は道とか無とか虚とか言ったが人間の精神は目に見えない部分が膨大にある。

 これは多くのものがそうなっている。

 F1レースはレーサーとマシンしか慣習に見えないし、ゲームやコンピュータはインターフェースしか接触しないが知覚されない所に大部分のものがあり人間は表面しか認識しない。

 逆に表面がすべてだという現象学の現象学的還元の見方や実証主義の考え方もある。

 どちらか一方の考え方ではなく両方の見方をできるようにせよというのがポスト構造主義であり大乗仏教の中、中観、原始仏教の中道の考え方であり、数学や論理学の独立の考え方だ。

 社会思想的には保守だけはありうる可能性がまだあるが、保守無き革新、0から、あるいは1から建設した理論だけで社会を作るというのは可能性は0で全くない。

 だから現代哲学を社会思想に応用しようとすると実際上、現実上、応用上、その他色々な意味で保守を交えざるを得ない。

・イギリス経験論と大陸合理論

 哲学史を勉強したことがある人なら中世進学の唯名論と実在論の議論の延長線上として、近代哲学の初期のイギリス経験論と大陸合理論の対立について習うと思う。

 これは欧米人、或いはユダヤやイスラムを含めた啓典宗教の習性なのかもしれないが、独立を理解せず背反と考える思考の癖がある。

 別に両立しても両方成り立っても共存していてもいいのだがそれを認めない傾向の人が現れがちだ。

 その習性がとんがるとイデオロギーを絶対化するイデオロギー絶対主義の傾向になる人が多い。

 モダニズム思想はその傾向が顕著だった。

 例えば共産主義を絶対化したり、自然科学を絶対化したりする。

 現代哲学の発達の歴史はこのイデオロギーの絶対化を無効化するために相対化する方法を探求する歴史でもあった。

 色々な意味でそうだが社会的にはモダニズムのチャンピオンのような存在と言える共産主義やマルクス主義を相対化することが社会的なテーマとしておかれた。

 変な話ではあるがフランスの当時の大御所的な哲学者であるサルトルが今どきの言葉を使うなら老害化してしまった。

 サルトルは別に間違ったことをしていたわけではない。

 別に彼の理論と矛盾したことを行っていたわけでもない。

 実存主義者として対自とか即自とかいろいろ言われるが個人的には自由絶対主義者であった。

 人間は自由の刑に処せられているとまで表現している。

 個人主義者として自由主義になり、社会思想としても自由主義になりそうなものではあるが、彼の選択は社会思想として共産主義だった。

 社会の共産主義化を目指し活動し現場でビラ配りまでした。

 人間は自由なのでどんなイデオロギーを選んでもよい、というのは現代哲学のポスト構造主義と同じ考え方だ。

 ただサルトルは背反主義で白黒思考、二元論的思考をする傾向があったためか社会思想としては実践上マルクス主義を絶対化した。

 何かの理論やイデオロギーを絶対化しない、という点が現代哲学のポスト構造主義と異なる。

 人間は主体的に自覚的に強い覚悟をもってイデオロギーを選択し実践してもよい。

 しかしそれを人や社会に押し付けることはできない、というのが現代哲学のポスト構造主義のイデオロギー相対主義の考え方だ。

 ポスト構造主義ではイデオロギー絶対主義者のイデオロギーを構造主義を使って脱構築してみせるのが処方箋となる。

 ある意味サルトルみたいな人を治療するために作られたのがポスト構造主義であり現代哲学だ。

 どんなイデオロギーでも必ず脱構築で反論できてしまうから相手も人や社会に無茶なことは言えない。

 個人の信仰や信念、実践道徳にとどめとけよとなる。

 哲学は選択、集中され、別の見方で言えばどうとでも言えることは切り捨てられて存在論と認識論に集中することになった。

 これはカントの段階でコンセンサスができている。

 カントは人間の精神を純粋理性、実践理性、判断力に分けてそれぞれ批評を行った。

 いわゆるカントの三部作と呼ばれる「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」だ。

 この中で純粋理性批判は存在論と認識論を扱うものだ。

 実践理性批判と判断力批判も存在や認識を扱うが扱い方が異なる。

 今でいうと実践理性批判は倫理や道徳や社会思想を扱うものだ。

 判断力批判は真善美に対する判断力を扱うもので芸術論みたいなものだ。

 人間の理論や論理的思考に焦点を当てたのは純粋理性批判になる。

 この思考による認識や存在についての理解がヘーゲルよりあと、あるいはフッサールやニーチェ以降の哲学界のテーマとなり他はオッカムのハサミで哲学の領域から切り落とされてしまった。

 はっきり言ってどうとでも言えるからだ。

 どうとでも言えないものを哲学は問題にしたい。

 哲学も学問として科学としてありたい。

 だから道徳や狭い意味の倫理や人間の感性や感情が問題となることは芸術論や心理学にゆだねてしまえばいい。

 これをエポケーという。

 保留とか留保とか訳す。

 これは事実上オッカムのハサミと同じ意味だ。

 どうとでも取れることは哲学では問題にしない。

 ただでさえphilosophyという言葉は乱用されてきた。

 ニュートンの著作は「自然哲学の数学的原理」であって「自然科学の数学的原理」ではない。

 サイエンスではなくフィロソフィーという言葉を使っている。

 あまり言葉は乱用され過ぎると腐って死語になってしまう。

 ならなくても信用されなくなる。

 現代社会で新興宗教や環境主義やLGBTQ+やフェミニズムや差別や正義論が怪しまれるのと一緒だ。

 くしくもこれらは冷戦崩壊後社会主義者が流れ着いていった先でもあった。

 アノミーになったのか転向したのか若気の過ちを恥ずかしがってか知らない。

 しかし元社会主義者を隠したがるという共通する性癖があった。

 これの理由は知らない。

 一部はいろいろな方面から政治的に利用されたのだろう。

 それにミスや失敗は若気の至りでも許してもらえない場合がある。

 日本のような相対倫理の思考をしている民族には分かりにくいが昔の欧米は絶対倫理で思考する傾向があった。

 「その状況ではそういう行動をとっても仕方がない」とは考えない。

 「ダメなものはダメ」と考える。

 別に好きでやったわけではなくただの公務員として上司に命令されてやったことでも個人的な罪とされる。

 それくらい個人主義と主体性の志向が強い。

 BC級戦犯やアイヒマンの裁判が有名だ。

 そもそもただ上司の命令に従っただけだしたとえ反対でもそれを口にしたり反抗したり辞めたりしても家族ごと殺されるかもしれない。

 だから仕方なくユダヤ人の虐殺に関係した。

 それでも許されない。

 全ての選択肢が死しかない。

 勝ちはなく引き分けもなく降りる事さえできない。

 何をどうやっても殺されるのだ。

 その場合死を長引かせるのが往々にとられる戦略だ。

 状況が変われば死ななくても済むかもしれない。

 ということを許さないのが絶対倫理だ。

 要するに「死ね」「必ず死ね」ということになる。

 変な話だが個人の信念に従って上司に反抗して殺されるようなことを近代人はしない傾向にある。

 強制収容所のユダヤ人だって自分が殺されることに気付いた人はいたが反乱を起こしたことは多かったとは寡聞にして聞かない。

 600万人殺されたのだから反抗や反乱や脱走の話がもっとあってもいいかもしれない。

 近代、モダニズムの思想、人間の考え方というのはそれだけ協力に人間の精神を縛る。

 集団とかシステムとか社会とか制度とか習慣というものは思ったよりは強力に働く場合が多い。

・現代哲学は倫理を語らない

 現代哲学は倫理を語らない。

 道徳も語らない。

 単に無知の知を言うだけだ。

 イデオロギーや理論の相対化を言うだけだ。

 「絶対に正しいと言える社会思想はない」というだけだ。

 「絶対に正しいと言える個人思想もない」ともいう。

 自分が何を原則として選ぶかは自由だ。

 サルトルと同じだ。

 思考し判断し決断し行動するには適当にやるのでなければルールは自分で規則や習慣を決めてそれに従って行動する場合が子供はともかく社会人して人生をいくばくか過ごした大人ならそうすることが多い。

 現代哲学はそれをとんがらせて常に意識化し自覚化し覚悟しようとする。

 正しい理論やイデオロギーはないからだ。

 正しいことがあれば簡単で、外部が共生してくれて従うのも反抗するのも簡単だ。

 オープンクエスチョンや自由にやっていいと言われるのはどうしていいか分からなくなる場合がある。

 社会思想にというのは集団思想だ。

 これは純粋な無政府主義以外おそらく例外はないのではないか。

 マルクス主義も共産主義も民主主義も独裁主義も共和制もみんな集団主義だ。

 民主主義は選挙による多数決により集団の意思決定を行うシステムで少数者の意見を聞かなかったり切り捨てたりするためのシステムとも言える。

 マイノリティーには恐ろしいものだ。

 投票や選挙という手続きによって自分のいくすえ、時に生死が決められてしまう。

 フランス革命は自由、平等、人権で素晴らしいという人がいる。

 そうかもしれないが民主という主体の集団が何してくるか分からない。

 国内では革命後粛清を行ったし外国に侵略も行った。

 多数決の多数派以外には脅威で恐ろしいシステムだ。

 多数派に入らなければ多数派が自分に何してくるか分からない。

 国民にとってもほかの国にとっても同じだ。

 純粋な個人的な自由を認める無政府主義というのも非現実的だ。

 実際実現するとどうなるかは誰も実験していないのではないか。

 国でレベルでは実現していないだけで少数集団においてはロシア革命の前のロシア人の集団や日本の安保闘争世代はともかく全共闘世代は行った形跡がある。

 やはり内ゲバとか殺人が起こる。

 内ゲバとは内内、身内内でのゲバルト=暴力だ。

 あさま山荘事件は有名だ。

 共産党の宮本けんじも治安維持法ではなく内ゲバの殺人罪で投獄されている。

 戦後のどさくさで出所できてしまった。

 というかGHQの意図だったのかもしれない。

 社会思想においては集団主義も個人主義も危険だ。

 だから保守がある。

・アングロサクソンの保守主義

 保守を大事にすると自分や家族の身が守られる場合がある。

 というか保守でないと自分や家族の身に危険が及ぶ可能性がある。

 何が起こるか分からないからだ。

 社会的イデオロギーを設計してそれに基づいて国つくりや改良をする。

 うまくいっているところの真似ならまだいい。

 全く今まで行われたことのなことをやる場合には実験台になる。

 実験台は犠牲者が出る可能性があり生贄となる。

 それはとても恐ろしいことだ。

 保守は悪くて過去や現状だ。

 これから悪くなっていく予想がつく場合には注意が必要ではある。

 しかしある程度未来予測がたつのが素晴らしい。

 英米法、特にイギリスは保守主義だ。

 積極的に昔や伝統を大切にする。

 積極的でなくても昔を大切にするのは一考に値する。

 無自覚でも伝統に従っていれば安心感がある。

 安定、安心、安全の制度だ。

 理由がいらないのもいい。

 「昔からそうだった」でいい。

 「今それで困ってない」でもいい。

 「今でいいとは思わないがどうしていいか分からない」という超消極的な理由でもいい。

 それは集団の安定を保証する。

 大陸は大陸合理論で理論設計主義、イデオロギー絶対主義の傾向が強い。

 正しい理論があると信じている。

 理性も信じている。

 だから大きな改革や革命を起こしたりする。

 国内で、内発的に起こらないくても他所が攻めてきたり干渉してきたりして変えざるを得ない、あるいは変えさせられる場合が多い。

 イブン・ハルドゥーンの歴史観ではないが貧しく寒い環境の悪い北の人たちは豊かで暖かく環境の良い南を侵略してくる傾向がある。

 人間年を取ってみると分かるが寒いところには住みたくない。

 そういう意味ではロシアはかわいそうで同情の余地はあるかもしれない。

 しかも大陸中央部は夏も暑いのだ。

 海沿いは海水温や風の影響で気温の変化が少ない傾向がある。

 海水は凍らない程度にまでしか温度は下がらない。

 泳げないほど熱くなることもない。

 島嶼や海べりは比較的気温の変化が少なく暑いというより温暖な傾向がある。

 和辻哲郎の影響か京大学派だけでなく昔は気候で文化や民族や文明を説明する傾向があった。

 島はイギリスも日本も古いものが残りやすい。

 そうみると半島はどこも安定しない傾向がある。

 海は通路でもあるがノルマンディー上陸作戦を見れば分かる如く上陸戦は海から攻める側に大変な被害をこうむりやすい。

 交易路にもなるが攻める場合には城攻めのような覚悟が必要だ。

 守る方が有利なのだ。

 保守が有利とかけられるかもしれない。

・ナショナリズム

 郷土に対する自然な愛情というものがある。

 郷土を憎むようになる人もいる。

 人間は多数派が有利だから大体多数派はいい思いをするので過半数はネイティブの地を好むようになるかもしれない。

 郷土愛、家族愛、集団への帰属意識、愛国心、そういったものは関係があると考えられやすいし多分関係がある。

 郷土を愛するということは過去と現在を愛するということだ。

 未来はよくわからないので愛しようがないがよいことが起こりそうなら希望が生まれるし悪いことが起こりそうな期待しかないなら不安になる。

 しかしどちらも郷土愛とは関係ない。

 あまりネガティブでは生きていけないので強くたくましく生きるために人間はポジティブなのが生き残りやすい。

 ポジティブは元気が出るからだ。

 元気がいいのは悪いこともするかもしれないがネガティブよりは陽気でいいかもしれない。

 暗いのは人はあまり好きではない。

 暗い人を人は避ける傾向がある。

 暗いところも暗い集団もだ。

 物理的に暗いところも危険だ。

 ある種のバイアスがあるせいか人間昔のいやなことでも時間がたつといい思い出になったりする。

 昔はよかったという人が多い。

 悪いことは忘れてしまうことも多いだろう。

 くよくよ考えていたら生存に不利だ。

 誰でも嫌なことより楽しいことが好きだ。

 幸福になろうと頑張る。

 幸福に意識が生きやすい。

 不幸なことに意識がいって大丈夫なのはある程度余裕がある人だ。

 余裕がないとそもそも嫌なことを考えている暇がない。

 忙しい人は余計なことを考えない。

 嫌なことも考えないし思い出さない。

 実はこれは精神科の精神療法のテクニックだ。

 自己啓発本にもよく書いてある。

 近代の自己啓発本の開祖はアメリカのデールカーネギーだと思うがその著作にも書いてある。

 楽しさ、幸福、心地よさ、明るさ、陽気さ、笑い、笑顔、こういったものは愛と親和性がある。

 つまりナショナリズムと関係がある。

 ナショナリズムは民族主義や国民国家主義、郷土主義などと訳されるかもしれない。

 郷土愛に近いのはパトリオティズムでナショナリズムと違うのだというのが冷戦後国民国家論で盛んになった。

 そうかもしれない。

 しかしどちらも国への愛がある。

 細かい理屈付けはなしにしてだ。

・愛国と保守

 愛国者は保守主義者になりやすい。

 あるいは保守を大切にする。

 伝統や国や同胞を大切にする。

 もと共産主義者で比較的若い時に転向した谷沢永一氏は蔵書家で有名だった司馬遼太郎が驚くほどの蔵書量で有名だった。

 大宅壮一や司馬遼太郎も蔵書化で有名だったがどちらも左翼ではない。

 「本や読書を愛する人は自然に愛国者になる」と言っている。

 友達の渡辺昇一も主に英語関係の蔵書で有名だった。

 姿勢の庶民もリアリストだが読書家は本の中でリアリストだ。

 というか知識人だ。

 いわゆる進歩的文化人とは違う。

 進歩的文化人も知識人かもしれないが読書による知識人は保守的になりやすい。

 愛国的になるせいかもしれないがよくわからない。

 むしろ20世紀昭和の言論界の状況を見ると左翼の理論というものに我慢ならなかったのかもしれない。

 非常に現実を無視したものが多かった。

 現実に合わない理論を振りかざす。

 反論すると訳の分からないことを言って反論してくる。

 議論してくると険悪になってくるのかもしれない。

 事実上冷戦前の状況をみると社会主義者とそれ以外という構図が見えてくる。

 社会主義者は社会主義の文句を言ってくるやつらを十派一絡げに括って同類扱いし攻撃する。

 ここに二元対立的な構図が自然にできてしまう。

 社会主義以外に入れられる人に保守派や保守的な傾向の人や愛国者が多かった。

 それらは社会主義や共産主義の改革や革命に難癖付けてくる人たちでもある。

 読書が好きというのは本に楽しい惹きつけられる魅力的なことが書いてあるからだ。

 普通は子供時代からの読書家はこの傾向が強い。

 立川文庫や少年雑誌をまず読んで本好きになる。

 こういったものは忍者や時代劇や中国古典や世界史などの楽しいエピソードが多い。

 インテリ的なポジティブになる。

 そう考えると社会主義は暗い。

 陰気だ。

 保守と相性が合わないのかもしれない。

 保守はいい加減で適当な人が多い気がする。

 そもそも社会主義系の本は意味が分からない。

 特殊な日本語で岩波語と言われた。

 岩波は左翼の親玉で講談社ののまとくじは少年キング?だったかな、などを出して子供を右翼にする悪い雑誌を出版する。

 冷戦前の左翼系インテリの書いている文章は意味が分からない。

 これは皮肉ではなく本当に分からない。

 冷戦後に左翼系の本が古本屋に大量に売られて転倒に大量に積まれていた。

 本人たちも社会主義の読者も意味が解らなかったのだろう。

 分かりやすい文章を書かないと書いた人の頭が悪いという風潮が出てきたのは冷戦後の話しだ。

 実用的な経済学の本なども含めて意味が分からないものが多かった。

 翻訳したり書いたりしたりする本人たちの頭も混乱していたしそれがかっこよかった時代だった。

 難しく分からない文章を書くのが偉いものとされた。

 アメリカがどうだったのかは知らない。

 教科書と言えば今はアメリカだ。

 他の外国も昔はあったがどんどんアメリカの教科書が増えて翻訳本も増えた。

 アメリカでわかりやすい本を出さない人は頭が悪いという風潮がいつごろ出てきたのかはよく分からない。

 おそらくそんなに昔のことではないのではないか。

 やはり冷戦後だと思われる。

 昔は翻訳者の能力だけではなく原著が難解なことが多かった。

 1990年代くらいに大学生だった人は難しい英語の教科書や論文がまだ随分あったと思う。

 どんどん読みやすくなっていった。

 牧師や神父の子、教師の子、警官の子、共産主義者の子は統合失調症になりやすいという説が昔あった。

 エビデンスの時代ではないからエビデンスはないだろう。

 エビデンスは実証ということだが臨床医学は人体実験の問題で実証主義化、言い換えれば近代化、科学化が遅れた領域だった。

・過去や現在にいいことがなかった

 そもそも保守になるためには昔か現状が良くなければならない。

 でないと昔に戻るのは嫌なことだし現状維持もいいことはない。

 貧乏だったり悲惨な歴史がある国は保守になりにくい。

というか革新が力を持ちやすい。

 保守を選ばないからだ。

 マルクスやエンゲルスあたりの共産党の理論では資本主義が行き詰って共産主義になるとなっている。

 その間の過程が社会主義だ。

 実際には文明や資本主義が進んだ国、生産性が高い国、豊かな国は社会主義にはなっても共産主義にはならない。

 今後は分からない。

 共産主義は経済が成長しなくなる。

 貨幣経済である必要も市場もなくなる。

 需要も供給も計画と統制でテクノクラート制になる。

 共産党の官僚とそれ以外の庶民だ。

 すごい格差社会ではある。

 豊かな国は福祉国家化する傾向がある。

 これは社会主義化と言える。

 ただ資本主義や貨幣経済や市場経済や交換経済などを捨てることにはならない。

 なぜそれらを捨てて一気に共産主義にジャンプするのか意味付けができない。

 極端すぎて理屈がたたない。

 ちょっと人間レベルの知能では無理な気がする。

 多分可能性があるとすればAIだ。

 マネーも電子化すると物理的な実体としての通貨、貨幣、紙幣などは必要なくなる可能性がある。

 現在だって帳簿上しか大部分のお金は存在していない。

 信用創造でお金は増えるがこれは会計上だけの話だ。

 実際には貨幣も紙幣も作られてない。

 預金(貯金もだったかな、郵便局はなくなったが)はまさに帳簿上のお金だ。

 何をお金と定義するかによるが各種債権やデリバティブや電子マネーも含めていろいろな形のお金が出てくる可能性も高い。

 つまりお金の種類が増える可能性も高い。

 目に見えなくなることは当面はないはずだ。

 少なくとも数字は残る。

 映画のマトリックスみたいなことが可能野になるとよく分からないが未来のことは結局分からん。

 特にAIは予測がつかない。

 進化が早すぎる。

 過去や現状が悲惨な国は共産化しやすいと書いたが未来の不安も保守的な傾向を強めるかもしれない。

 改革や革命による大きな変化が悲惨な未来を招来する可能性があるのなら人は保守を選ばざるを得ない。

 そういう意味ででは逆にやけっぱちで自暴自棄になった人が多いと確かにマルクスが言うように保守を嫌う。

 集団の中でも悲惨な人はいる。

 そういう人たちは過去や現状を破壊したい。

 これは保守とは逆の傾向だ。

 移民にそれが多いのは移民は経済的に貧乏な国から豊かな国にきて一部成功する人はいるとしても大部分はそこまでセルフメイドやエスタブリッシュメントはできない。

 ユダヤ人は金持ちという思い込みがあるかもしれないが貧乏なユダヤ人は多い。

 というかめちゃ多い。

 アメリカのユダヤ人は貧乏が多いのは今でもそうだと本にあった。

 そもそもユダヤ教を厳格に守ると貧乏にならざるを得ない。

 収入の10分の1は神にささげる人々だ。

 安息日を守って戦争に負けた歴史のある人々だ。

「ユダヤ人にとって幸福な時代はユダヤ教にとって不幸な時代」

とラビが言った。

 豊かになるとユダヤ教から離れてしまう。

 マルクスだって父親の代でユダヤ教から改宗している。

 逆もまた真なところがある。

ユダヤ教から離れるから豊かになると言える面がある。

 ミシュナなどによる教育システムは優秀だ。

 学者民族と言われるくらいである。

 ラビとは学者という意味だ。

 聖書の「律法学者」と同じだ。

 頭のよさは後天的なものであれ何世代かは持続する傾向がある。

 また専門職志向が圧倒的に強い。

 またシンジゲートというか横のつながりが強い。

 そのせいで戦争などでスパイとして使われヒトラーが怒った一因でもある。

 フランス革命の影響によるゲットー解放後ユダヤ人は社会進出を果たしたがユダヤ系というだけで回収している人が多い。

 ユダヤ教をまじめに守って生活しているユダヤ人はプロレタリア的になりやすい。

 ロシア革命の一因でもある。

 変な話だがユダヤ人は理論化でイデオロギーのエキスパートだ。

 ユダヤ人が共産主義を作ったともいえる。

 ロシア革命を起こしたのもユダヤ人革命家と言える面がある。

 イスラエル建国後もキブツと言われる共産主義的共同体を作っている。

 そもそもゲットーが共産主義的ともいえる。

 またバビロン捕囚後のユダヤ人やユダヤ教の歴史を見るとユダヤ人国家や共同体自体が共産主義的な感じがする。

 一つの産業をユダヤ人で共有化するのだ。

 これもヒトラーが怒った。

 東欧、ウクライナ、ロシア、ポーランド、ドイツあたりは歴史的事情でアシュケナージジューと言われるユダヤ人が多い。

 よりまじめなユダヤ教徒である限りプロレタリアート的になる。

 ユダヤ人はずっとイスラエルに住んでいたが国家を持つのが遅れた。

 国家を持ったのはシオニズム運動が大きく、これはユダヤ教を捨てる意味合いのある活動でもあった。

 ユダヤ教原理主義になるとそもそもイスラエルのような近代国家は作れない。

 ユダヤ教の正統派や保守派はそもそも建国に反対していたし今でもイスラエルの法律に従わない謹直、謹厳なユダヤ教徒が多い。

 徴兵の拒否というより否定で有名だ。

 そもそも本当にユダヤ教の原理主義になるとダビデの再臨としての救世主の訪れや死者の復活を待たねばならない。

 律法を謹厳に守りながら。

 イスラエル以外の国ではユダヤ人共同体としてまとまるしかない。

・そもそもふつうはみんな保守

 そもそも普通はみんな保守になるのだ。

 みんな学業に、生活に、仕事に、人生をエンジョイするのに忙しい。

 社会制度を変えようとするのは特別な人だけだ。

 自分を選ばれた人、選民意識を持つ人、エリート意識を持つ人、頭がいいと自分で思っている人、変わっている人、科学をはじめとした理論を信じている人などだ。

 革命家にあこがれるなどもある。

 特別になりたいなどもある。

 地位、名誉、名声、評判、お金を得たいという人も多い。

 革命後にお金を得るという意味ではない。

ビジネス左翼というものがある。

 生活のために左翼を続けるのだ。

 神を信じてないのに神父を続けて時々懺悔か告白をする人がカトリックにはちょくちょく現れる。

 それに似ている。

 人間は食っていかなければいけないので左翼は一つの生業のようになる。

 または肩書が商売に必要な場合もある。

 メディアや出版、大学などで左翼が強い伝統があるとそういう所で職を得て栄達するには左翼である必要がある。

 冷戦前のことも現代哲学も忘れられてきたので左翼がまた強くなってきた。

・既得権益としての保守

 左翼側と同様に既得権益として保守が有利なことは多い。

 既得権益が壊されると困る。

 これは広範囲にわたる。

 やはり生活手段だしお金を得る手段だ。

 こういうレベルになってくると社会思想などの小難しいことは関係なくなる。

 本人たちも意識も自覚もない。

 左翼が「岩盤右翼」という究極の姿はこれかもしれない。

 「無為にしてなさざるなし」だ。

・外国の陰謀

 スパイ、工作員、諜報員、謀略などは世の中普通にある。

 歴史を勉強すればないと思う方がおかしい。

 そもそも歴史は文字で書かれた過去だけを勉強することを指す。

 書かれてない過去は別の方法で復元し補う工夫が必要になる。

 文字で書かれてない部分は考古学資料や別の学問、想像や理論で補うしかない。

 東京には大名屋敷の庭がいっぱいある。

 池やあずまやもある。

 そういう所で大切なことは話すのだ。

 文字にするわけはない。

 大切な種類は燃やすものだ。

 長野五輪でも燃やす、というか書類がなくなっていた。

 網野善彦は襖の裏張りに使われていた文書から過去を復元した。

 網野善彦が復元するまではその歴史はなかったことになる。

 そういったことを現代思想家で文献学者書誌学者のミシェル・フーコーが研究した。

 構造主義者兼ポスト構造主義者だ。

 彼は歴史の終わりということを言った。

 歴史や過去と言ったものは網野善彦のような人が書き換えていった瞬間瞬間で変化していく現象学的なものに過ぎない。

 そもそも過去が存在するとどうして言えるのか?

 過去の存在の正否は分からないのだ。

 過去が存在するというのはただの前提で仮説で過程だ。

 だからデリダは差延という言葉を使った。

 これは認知科学もそうで記憶というものは思い出された瞬間に作られていくものだ。

 連続性はおろか存在したかどうかも分からない。

 世界中みんな忍者が大好きだ。

 忍者は認めるのになぜスパイの存在認めないのか。

 フィクションにもゲームにもアサシン、暗殺者という職業が出てくる。

 やっぱりみんな好きそうだが現実に存在しないと思っているのだろうか。

 存在するに決まっている。

 世界史では普通に習う。

 そもそもアサシンや忍者という言葉はフィクションのために作られたのか。

 そうではないのは言うまでもない。

・もとに戻せない

 世の中不可逆なことが多い。

 一度失うと二度と手に入らない。

 一度壊すと復元不可能だ。

 トレードオフや機会費用は反対売買が救出来るならいい。

 でもエントロピーというものがある。

 また普通は反対売買ができないからGDPが生じるのだ。

 摩擦で失われないなら永久機関の完成だ。

 過去に戻れる。

 失われた過去を取り戻せる。

 実際には不可能だ。

 我々人間は自然にせよ文化財にせよ伝統にせよすでに多くのものを失ってしまった。

 本当は失う必要がなかったものがたくさんある。

 安易なこと、おっちょこちょいなことをする子供が多かったせいだ。

 大人が少ないと子供のいたずらは取り返しのつかないことになることがある。

後で後悔しても遅い。

現代哲学を広める会という活動をしています。 現代数学を広める会という活動をしています。 仏教を広める会という活動をしています。 ご拝読ありがとうございます。