かんたんな因果、相関、独立等2つの物の関係について
かんたんな因果、相関、独立等2つの物の関係について
・2つの物事の関係性の整理
2つの命題、事象、母集団、言説、理性と感情、何でもいいが関係性を整理するのが大切だ。
理系の人なら
「相関と因果関係は違う」
と口を酸っぱくして教える先生がいて耳にタコが出来るほど聞いたかもしれない。
近代科学では実証が大切で現代科学ではやはりそう。
特に実証のため確率・統計が大切だ。
自然科学は言うまでもない。
工学もそうだ。
社会科学でも経済学や社会学では教わることが多いだろう。
人文科学でも心理学が頭角を現したのは行動主義、すなわちデータを重視するので古い言葉では実験心理学という言葉が30年位前にはあった。
まともな大学なら学士、修士、博士でも実証研究を教えないと片手落ちだ。
今は起業家に理系が多い時代で理由の一端に投資家に数字で説明しないといけない点がある。
それに加えて関係を表す言葉に独立がある。
独立と背反が区別できていない人が多い。
また独立概念を使った思考ができない人が多い。
「それとこれとは別問題」
と突っ込むと逆上する人がいるから注意が必要だ。
そういう人は理性と感情を切り離すということがそもそも理解できてない人に多い。
また論理的思考もできない。
“論理的っぽい” 思考はできるかもしれない。
しかし話を聞いていると全然論理的ではないので突っ込むとこれも逆上される。
現代では記号論理学初歩の命題論理や述語論理で論理演算で論理式を操作くらいできないと論理学を理解できているとは言えない。
それだけやっとけばゲーデルの「完全性定理」の証明は理解できる。
もっと有名な「不完全性定理」の証明はこれだけでは理解できないかもしれないがまあ十分だろう。
やろうと思えば対角線論法さえ理解できればこれも比較的簡単に理解できる。
・相関と独立は統計学で習う
相関と独立は統計学で習う。
相関は忘れたが独立は高校の数学で習うはずだ。
“相関係数”
“独立事象”
などの用語を覚えている人も多いはずだ。
回帰直線とか最小二乗法というのは数学史のエピソードでも出てくる。
例によってガウスが発見の先発争いをしている。
ガウスはとんでもなく天才数学者だった。
思春期に観念奔逸がありいろいろな発見をしたらしい。
それをノートに記している。
ガウスの問題はそれを完璧な形にするまで発表しなかったことだ。
そのためガウスの死後も発表されずノートにだけ記されたままだった発見がたくさんある。
それならそれでいいのだがガウスは誰かが新しい成果を発表するたびに「それは私が先に発見していた」とやる。
発表者側と論争になるのは当たり前だ。
非ユークリッド幾何学も有名だ。
これは発見者とガウスはガウスの家庭教師を通してつながりがあった形跡があるので同時多発的に別々に発見したのかもしれない。
ガウス側は後出しじゃんけんだが19世紀のみならずアルキメデスやニュートンと並び歴史を通じてのトップ数学者と当時から尊敬されていたので発言力が強かった。
その発言力のせいで悲惨な目にあった数学者もいる。
やはり天才のアーベルだ。
アーベルが5次方程式問題を解決したという論文をガウスに進呈したところガウスは読もうともせず「そんなこと不可能だ」と追い返したためアーベルは貧困の中で結核で夭折した。
これはコーシーとガロアのエピソードに似ている。
コーシーはガロアの論文を読まずに無くしてしまった。
そのせいでガロアは学校にも入れず自暴自棄的な決闘をして若干二十歳過ぎにて世を去っている。
ガロアも天才だった。
2人とも五次方程式には加減乗除とべき乗で表される一般的な解の公式がないことを証明している。
「ガロア理論」これは「非ユークリッド幾何学」や記号論理学と並んで数学のみならず科学全般の構造主義化の萌芽となる。
これを構造主義、数学では公理主義や形式主義として数学の基礎としたのが現代数学の父ヒルベルトだ。
天才フォン・ノイマンの一応の師匠と言えばちょっとは伝わるかもしれない。
フォン・ノイマンやラッセルやホワイトヘッドのイギリスの論理主義の下で育ったアランチューリングやコンピュータの父と言われる。
因みにホワイトヘッドは数学科出身のケインズの指導教官だったはずだ。
ケインズの有名な著作も一般理論という。
仰々しい。
ニュートンと同じく原理とつけたり、一般理論とつけたりするのがイギリス人は好きだが本当に原理だったり一般理論だったりするのがすごい。
ラッセルやホワイトヘッドも現代の論理学を大成した人々で「数学原論」という本を書いている。
ラッセルはノーベル文学賞まで取っている。
曰く、
「私は一番頭がさえた若いころは数学をやり、ちょっと頭が衰えてきたので論理学をやり、もっと頭が悪くなってきたら哲学をやり、頭がどうしようもなくなってきたので評論家になった」
ラッセルがノーベル賞を取ったのは彼の評論に対する文学賞だ。
これはラッセルのいつの発言か知らないが当時のスウェーデンの数学界のボスと仲が悪く嫌味紛いにノーベル数学賞を作らなかったノーベルやノーベル財団への当てつけかもしれない。
ノーベルは片頭痛持ちの難しい人だった。
ダイナマイトを発明して爆発させると頭がスカッとしたようだが軍事転用されたことに対する罪悪感がノーベル賞を生んだと子供時代読んだ伝記に書いていた。
ただ難しく偏固なところがあったので心が狭くなる時があったようだ。
数学界の会長と仲が悪かったので数学なんかにノーベル賞はやれるかと思ったのかもしれない。
文学賞は作品ではなく個人に授与される点でノーベル賞の中でも異質だ。
そういう意味ではラッセルが貴族だったことと関係するかもしれない。
ノーベル賞は差別の温床で日本でもペスト菌発見や血清療法を開発したことで有名な北里柴三郎やアニリン色素など化学療法を開発した秦なにがしがノーベル賞を貰えなかったはずだ。
・物事の関係とは
物事の関係というと物事ってなんやねん、と突っ込まれるむきがあると思う。
そこから説明しようと思っていたが結構めんどくさいのに気が付いた。
そこで物事とは何か、については別に『わかりやすい必要条件、十分条件』でも書くのでそこでイメージしやすいように書こうと思う。
ここでは因果関係や相関関係や独立な関係という場合何を念頭に置いているかイメージできている人を対象に書く。
・具体例―ダーウィンの進化論の場合
昔、昔の生物学科ではダーウィンの種の起源くらい原著で読めみたいな風潮があった。
今は流石にそんな風潮ないと信じたい。
そもそも原著読めというのは人文学くらいではないだろうか。
原著読まないと進まないのは原著が研究対象の場合だけだ。
それ以外の科学は原著読まないといけない段階で遅れている。
数学勉強するのにアルキメデスやニュートンの原著読めという数学者は100年以上前からもはやいない。
1900年ごろにはいたと思われる。
『数学を作った人々』という著作を書いた1900年頃のアメリカ数学会の会長ベルが「原著を読む必要などない」みたいなこと書いているから逆に言えば当時はいたのだ。
実証科学さえ人文学のように考える人が冷戦崩壊頃まで、現代哲学が流行るまではいた気がする。
頭がモダニズムだったのだ。
ポストモダンではないしコンテンポラリーでもない主義者頭の人がいた。
今はいないように見えるが実はたくさんいる。
たくさんいるがそういう人を打ち破る言説は沢山ある。
今は発生学でも進化生物学でもなんでもダーウィンを読む必要はない。
ダーウィンの自然選択説を例にとって説明する。
ダーウィン以前には種は求める必要な形態や機能に進化するみたいなラマルクのような考え方があった。
キリンの首が長いのは高い所にある葉っぱと食べるためだ。
「キリンの首が長い」と「高い所の葉っぱを食べる」との関係が問題になる。
キリンの先祖が首が短かったとしたらどうだろう。
今はキリンの首は長い。
つまり昔と今とでは変化している。
変化の中で環境適応的な変化を昔は進化と考えた。
そして進化は進歩でもあった。
進化した方が進んでいるし複雑で洗練され高機能化される。
進化の「進」はその意味だ。
進化の反対は「退化」だ。
何となく原始的な単細胞生物が複雑な多細胞生物へ、更に動物の中でも哺乳類が生まれ人類が生まれるみたいな筋書きをイメージしてもらって構わない。
さて変化の仕方だが原始的な進化論は「念ずれば通ずる」という考え方であった。
なんとなくキリンが高い所の葉っぱが食べたいなあと必要に迫られ首が長くなっていく。
精神主義だ。
念ずれば叶えば世の中楽ちんだが世の中そう甘くはない。
甘くはないというより科学的な説明がつかない。
何かヘーゲルの言う絶対精神のようなものがあるのだろうか?
あるかもしれないがそんなものを仮定してしまえば全ておしまいだ。
もう議論の余地はない。
「エクス・デウス・マキナ」という。
ギリシア演劇の言葉であるがそれのラテン語版である。
演劇で収集がつかない状態になるが最後は天井から仕掛けによって動かされた箱に乗った神様が出てきて全てを解決してくれる。
一神教だろうが多神教だが「神」はお手軽な世界の説明装置だ。
「宇宙はなぜ存在するのか」
「神が作ったからだ」
疑問の余地はない。
全てが解決する。
ドストエフスキーは
「神がいなければ全てが許される」
と書いている。
その通りだ。
しかし神なり絶対精神なりに全てを押し付けられない所が近代科学の辛い所だ。
辛い所だが楽しいことでもある。
逆に神がいるのは楽なことではあるが詰まらないことでもある。
・ニュートンの突然変異と自然選択
ニュートンは生物の変化は無目的だ。
特に生物の環境適応、或いはよりよく生きる方向性には関係なく無目的に起こる。
その中で有利な変化をした個体が生き残り易くなり、不利な変化をした個体は生き残り難くなり、特に有利も不利もなく中立的な変化をした個体は生存確率が変化前と変わらない。
有利な変化が残りやすくなるので生物集団はその変化を受け継いだ個体の人口割合が多くなる。
この繰り返しでいわゆる進化が起こる。
これがニュートンの進化論と言われるものだ。
公平に考えれば無駄な変化や無意味な変化の方が多い。
適応的でない変化をした個体は淘汰されると考ええる。
あるいはその環境で適応的でないのであれば滅びるか原住地を逃げ出すか広げるしかない。
その環境に有利な個体と有限な資源獲得競争をしても勝てないからだ。
因みに人類学では人類が地球に広がっていった理由をこれで説明されることがある。
ネイティブアフリカンである黒人は原住地では強者であり競争に負けた個体が北上してヨーロッパや中東に活路を求めたという考え方がある。
この場合は黒人がアルファで白人はそうではない。
この説に従うと我々日本人やアメリカのネイティブはそうとう逃げた末に行き着いた先の人類ではないか、という考え方ができる。
・因果関係の逆
ダーウィン以前の進化論では
キリンは木が高いから首が伸びるように進化して生き延びたと考えた。
あるいはそういう考え方があった。
ダーウィンは首が伸びるように変化した個体がたまたま高い木に適応し生き残った、或いは生き延びたと考えた。
要点だけ書くと簡単に書くと
ダーウィンより前は
「生き残るために首を長くした」
に
ダーウィン以後は
「生き残ったのは首が長い個体だった」
「首が長いから生き残った」
になる。
前者は「生き残る」が原因で「首が伸びる」は結果である。
第一次的にこれが起こり、首が長ければ生き残るは二次的にだ。
ダーウィンは逆に「首が伸びる」が原因で「生き残る」が結果だ。
第一義的にはこれで、「生き残る」が原因で「首が伸びる」が神か絶対精神か超自然的なものの介在があったかのような考え方は認めない。
・因果関係の整理
ダーウィンより前は
「キリンが生き残る」が原因で「キリンの首が長くなる」は結果だ。
ダーウィン以後は
「キリンの首が長くなる」が原因で「キリンが生き残る」は結果だ。
原因と結果がダーウィンの進化論とダーウィンより前の進化論では逆になっている。
しかしダーウィンがそのような説を出した後でさえどちらが正しいのかを立証することは難しい。
現在は小さくは分子生物学の分子のレベルから古生物学の長い大きな次元まで様々な物的、あるいは理論的証拠や傍証がある。
遺伝のこともメンデルの法則からワトソン、クリック、ついでにローザ・フランクリンのおかげでDNAやRNAなどの遺伝の物質的基盤も分かっている。
特にDNAや生物学の諸知識があればいかにダーウィンが合理的かが分かる。
ダーウィン東寺での意義は、神や超自然的な力の存在を科学や生物学や進化論の中に不必要なものとしたことに意味があった。
神は必要ないのでオッカムのカミソリで切り捨てることが出来る。
それが合理的だ。
これはハーバード・スペンサーなどによって社会学に取り入れられ実社会で流行した。
ハーバード・スペンサーは社会科学を作った一人だ。
これはまた優生学の根拠にもなり遠くは断種政策やナチスドイツのアーリア人が最も進化した優等な人類で他は遅れていて劣等な人類であるとの根拠にもなったが、これをナチスドイツにだけ押し付けるのはおかしい。
ナチスドイツ以前にもヨーロッパや日本で行われたことでもある。
らい病の国家補償では一つはらい病の治療法があるのに国家が隔離政策的なものや断種政策的なものを放置したのかが問題となった。
同じような時期に行われた国家訴訟に薬害エイズ問題というのがある。
これも「不作為の作為」という恐ろしい概念が認められてしまったはずだ。
超短期視野に立てばそれでもいいかもしれない。
しかし長期的な視野に立てば我々が普通に生活、日常生活や社会生活、プライベートや仕事でしていることが全て後の世では犯罪や倫理的悪と断罪され得る恐ろしい遡及概念だ。
薬害エイズに活躍したのが漫画家の小林よしのり先生だ。
小林先生は漫画「ゴーマニズム宣言」の初期を見ると考え方が左翼だ。
しかし薬害エイズ訴訟での体験を元に「脱正義論」を書いている。
昔は社会主義が正義だった。
薬害エイズ訴訟の組織が共産党にオルグされ侵入され乗っ取られていく過程が書かれている。
川〇浩〇が共産主義に染め上げられている、あるいは家族がその系の人だったようで成長とともにどんどん共産主義に染め上げられる、或いは地が出ていくのが詳細に書かれている。
これと連載していたフジサンケイグループのSPAに徹底的に妨害されて移った先のs表学館で書いていた新ゴーマニズムの最初の慰安婦問題への言及から一気に右翼、保守っぽい流れに乗ったが結局公とか言い出した点で集団主義的志向とゴーマニズムの傲慢な個人主義がぐじゃぐじゃになってしまった。
具体的に行動する漫画家として日本思想史に数々の足跡を残したので2000年前後で小林よしのり先生ほど日本の論壇や思想史に爪痕を残した人物はいない。
日本の社会思想史を語る上では漫画家であるにも関わらず必ず教科書に乗せるべき人物だと思う。
似た感じに橋下弁護士がいる。
この人も根は左翼だ。
共産党の世話になっているし同〇〇権にも世話になりながら育っている。
そもそも大阪のローカル番組の『たかじんのそこまで言って委員会』でレギュラー出演したことがきっかけで左右の知識人と知り合いになり弁護士を目指した。
そもそも法曹界は左翼の巣だ。
トップの東大法学部を見れば分かる。
トップでなくても東京の私立は法律研究系が起源の大学が多い。
早稲田やら京大も左翼の巣だしMARCHの大学を見ればやはり左翼的なのは分かる。
慶応は早々に全共闘活動潰して見事という外ない。
今日の慶応大学の隆盛は当然だ。
是非とも日本のハーバードかオクスフォードを目指して頑張ってもらいたい。
故会田ゆうじ京大名誉教授も私学に期待するしかないと言っている。
ついでに女性は商社マンなど日本のエリートの足を引っ張る場合があるので独身者をうまく機能させる仕組みを作るべきと提言している。
40年位前の話かもしれないが。
橋下先生は大阪の改革に大活躍した。
ただ合理的に動いたにすぎず思想的に動いたのではない。
週刊朝日が橋下先生の生い立ちを差別的に書き立てることにより左翼と対立したから目立った。
また大阪の既得権益とはいろいろな左翼的利権団体に浸食されていた。
私は長居公園で市の下請けでガードマンを3年していたからいろいろ裏側のことは分かる。
橋下先生は『たかじんのそこまで言って委員会』で番組の前に適当にネットで検索してそれを適当にしゃべっているだけとよく言っていた。
この番組は故やしきたかじんという関西のテレビの裏ボスの1人のような人物が東京だけには放送させないということで東京以外で全国放送していた変な番組だ。
理由は東京で放送すると自由にしゃべれなくなるからだ。
私は第一次安倍政権の時にこの番組で保守派と言われる人たちが安倍の悪口を言い出した段階で視るのを止めたので以後どうなったかは知らないが安倍さん自身が辞任後この番組に出て世論を味方につけ第二次安倍内閣に至った流れは見事というしかない。
戦後冷戦崩壊まで日本で既得権益というと左翼だった。
生活保護が欲しい倍には同〇、在〇、共〇党、代議士、弁護士あたりが行政に口利きするとスムーズにいった。
そもそも昔の公務員は縁故制だった。
今もまだ残っているかもしれない。
大阪市のいくつかの局はそういった団体に支配されていた。
社会主義は正義だ。
企業だって官僚だって支配されていた。
日本が労働市場が社会主義、金融市場が社会主義、官僚統制計画経済、通達行政、終身雇用に年功序列、社会保険制度、高福祉国家化、メディア、組合、日教組、教育委員会、大学は社会主義で占められていた。
日本において自由市場があったかというととても怪しい。
もしかしたら鎌倉南北朝室町戦国の近畿などの先進地方や市や座などの無縁の世界があった先進地域や江戸時代の大阪だけだったかもしれない。
ヨーロッパ中世の「都市の空気は自由にする」というやつだ。
明治以降富国強兵産業振興で自由主義経済があった。
教育も自由だった。
黒柳徹子の屋根裏のとっとちゃんの今でもある自由学園など見れば分かる。
義務教育の統制が強くなったのは戦時下経済の国民学校生でこれはナチスのフォルクスシューレの真似だ。
実は現在の義務教育制度も戦後で変わったとみられながらも国民学校生の延長にある。
旧海軍将校の中曽根元首相が変えようとしたが失敗した。
構造改革に失敗し、日米構造協議などあったが黒舟をもってしても岩盤規制の穴はあけられず。
ユダヤ系の国際金融の大ボスが日本や日本企業のやり方に激怒して日本を滅ぼしてやると決心したのは日本人で2番目にユダヤ人になった国際弁護士の著作に書いてある。
まああの時代の日本の官僚や企業人の嫌な印象を受けなかった人は同法の日本人でさえいなかったかもしれない。
というわけで橋下徹弁護士にはポリシーがない。
思想がない。
現れてくるとすれば子供時代の体験だろう。
人間は若い時に刷り込まれたものは忘れないし若い時に現況していないと身につかない。
40代後半で医者になり某医大の首席で卒業した医師を知っているが恐ろしく酷い臨床だった。
40代後半では長期記憶は難しい。
テストでいい点とれてもすぐに忘れるのだろう。
「若いうちに勉強しとけばよかった」という昔の人の言葉は正しい。
学生時代の麻酔科の教授は学生時代に勉強していないと優秀な医師になるのは不可能と言っていた。
まあ能力がなくても患者さんに愛されるいい医者にはなれるのでその道で生きていけばいいと。
また別の先生は学生時代から英語原著論文を読み込んでいないと医学部卒業後から勉強しても限界がある場合があると言っていた。
これも似た意味かもしれない。
昔はノーベル賞を得るような着想は24歳くらいまでに得ていると言われた。
自分の頭の働きを思い出せばいい。
7桁の数字の記憶でさえ30台、40台になると10台、20代の子供に劣る。
学歴や偏差値は関係ない。
前頭葉のワーキングメモリー、昔は作動記憶とか言っていたものが低下する。
覚えようとしても労力が半端なく脳疲労になるし、意識的に覚えていないといけないので他のことがおろそかになる。
覚えるためのツールがあれば別だがそういうソフトウェアレベルの解決しかない。
スペックは確実にダウンしていく。
因みに7桁数字の暗唱はマジックナンバー7と言われて、7桁より多い数字になると若い人でも覚えなくなるといわれる。
「なぜ7?」ということで7はマジックナンバーと呼ばれた。
ということで橋下氏にはイデオロギーがない。
ノンポリだ。
芯は幼少時体験だけで学問で気付き上げた確固としたものはない。
橋下先生が売れ出した番組の一つに島田紳助がやっていた行列の出来る法律相談所というのがやっていた。
丸山弁護士は政治家になり、北村先生は保守派の論客になっている。
橋下先生はかねてお金が稼げると言っていたテレビのコメンテイターに戻ってしまった。
テレビのコメンテイターは大衆迎合の発言プラステレビ局やプロヂューサー、スポンサーの意向に従わなければいけない奴隷のような仕事だ。
でないとおろされる。
これを続けると人間は自分がなくなる。
個がなくなる。
実存主義で言う畜群や頽落と言われるものだ。
自分がない人が向いているし、自分があると谷沢永一や武村健一のような人でも降板を覚悟せねばならない。
橋下氏がコメンテーターをしているのは一つは金のため、もう一つはコメンテーターとして言っていいこと、言ってはいけないことの局の制限が苦にならないのだろう。
むしろ主導権をもって番組を引っ張っているのかもしれない。
もう一つは橋下弁護士は心の傷が多い人生だ。
政治家時代に相当ひどいことをされて、ラディカルに戦わなければいけなかったので元気や勇気が折れてしまったのかもしれない。
特に思想がない人だからやることは合理的なことになる。
その結果として左翼の既得権益とたたかったが別に右翼でも保守でもない。
自分がないのだ。
自分がない人はとてもうらやましい。
楽に生きられるんだろうなと思う。
ただポリシーやスタイル、原理原則をもってそれに従っている人間は訳の分からない魅力が生じる場合がある。
逆にそういうものを一切持たずに野生の思考や行動をとっている人にも野性的な魅力がある。
何となく下の世代から眺めていた小林よしのり先生や橋下徹元大阪知事、元大阪市長の話になってしまった。
社会主義者でありながら個人の個で作品を書いたのは村上龍だ。
ゴーマニズムの欄外に小林よしのりが村上龍がゴーマニズムやらお坊ちゃま君か何かを肯定的に話していたみたいな書き込みがあったが別の晩では消えていた。
ゴーマニズム宣言は今も存命の人々には若気の至りというか恥にまみれた若い時をさらけ出すので多分現在出版もkindleのような電子媒体にもアップできない状態にあると思う。
アップしたら訴訟するとかいろいろ言われているのだろう。
ゴーマン主義だから各方面を敵に回すし、味方になっても味方の過去の恥を描き綴っている場合が多い。
日本の思想界や社会に圧倒的に影響を与えて世論の流れさえ変えたのだからそういうのが読めなくなるのは残念で仕方がない。
・閑話休題より
話を戻すとダーウィニズムとその前では因果関係が逆になっている。
昔は「生き残る(種を保存する)」が原因で「首を伸びる」が結果だった。
ダーウィニズム以降は「首が伸びる」が原因で「生き残る(種を保存する)」が結果となった。
我々の進化は偶然に過ぎない事を示してる。
・人間は因果をつけ易い
人間は因果付けするのが好きだ。
好きというより2つのことがあると関係があると思えば因果関係をつけてしまう傾向がある。
しかしこれは知的訓練を受けていない場合だ。
2度目に書くが因果関係と相関関係は違う。
① 「キリンの首は長い」と②「キリンは種を残す」は因果関係をつけてしまいやすい。
しかしこれだけ与えればまずは謙虚に考えてどちらが原因とか結果とかではなく
「① と②は同時に起こっているので何らかの関係があるのではないか?」
くらいに考えるのが公正で両社に対して平等な考え方だ。
どちらが原因とか結果とか言えないけども両者はは同時に起こる傾向がある。
これは大変知的な言説だ。
2つの事象を見て関係ありそうならどっちかが原因でどっちかが結果と無意識に決めつけてしまうような単純さがない。
大人の思考だ。
我々は何か2つの物があれば関係がありそうな時にはどちらかが原因でどちらかが結果のような単純な思考図式からまず入るように教育を受ける傾向があり認知発達の過程ではまずそれが身につく。
もっとも原始的な抽象的な思考と言えるかもしれない。
しかし高等教育、昔の旧制高校は現在の大学の教養課程を含み、現在は高等学校と行っても昔の旧制学校の中学校レベルなことしか教育していない状態では現在の高校数学は非常に皮相的なものになる。
しかし現代社会で科学を学んだというには因果関係から相関関係に戻る思考を身につけなければならない。
・相関とは
相関とは関係があるということだ。
関係がないことを相関がないという。
相関自体が相関係することだろうから「相関関係」というと関係がダブっているかもしれない。
でもまあいいとする。
関係と言っても色々な関係がある。
先ほどの因果関係というのは関係の一つの在り方だ。
しかし関係というのは因果関係だけではない。
2つの事物に関係は因果関係以外にもいろいろなものがある。
因果関係についていえば当たり前ではあるが因果関係にあれば必ず相関関係にある。
逆に相関があっても因果関係があるとはいえない。
説明しないが因果関係が十分条件、相関することが必要条件となる。
必要条件と十分条件についてはほかの文章でわかりやすく説明する予定だ。
ダーウィンより前のラマルク的な進化論もダーウィンの進化論も「キリンの首は長い」「キリンが生き残る」の間には相関関係もある上に因果関係があるものと考える。
ただし因果の方向が逆だ。
ダーウィンより前の進化論は「キリンの首が長くなった」から「首の長いキリンは生き残った」と考えた。
ダーウィンは「首の長いキリンが生き残った」から「キリンの首は長くなった」と考える。
木の上の葉っぱを食べるのに有利な形質は必ずしも首が長いだけではない。
体全体が大きくてもいい。
空を飛べるようになるのでもいい。
木に登れるようになるのでもいい。
ジャンプ力がアップするのでもいい。
木を倒せるようになるのでもいい。
例えば力が強くなって木を押し倒す。
または木を切れるような巨大な牙や角を持つ。
そういった突然変異も起きたかもしれない。
しかしそういうキリンは生き残らなかった。
そもそも首が長いキリンが生き残った理由も本当は分からない。
早く外敵を見つけるためかもしれない。
外敵を威圧するかもしれない。
頭を振り回して外敵を攻撃できたからかもしれない。
実は木の上の葉っぱを食べるためではないかもしれないのだ。
たまたま現在観察されるキリンはたまたま首が長いことで偶然期の葉っぱが食べやすくなっているだけかもしれない。
そもそもキリンの共通先祖で首が長くならない方向で進化して現存している種がいるかもしれない。
葉っぱを食べる以外の理由で、あるいは何の理由もなくたまたま首の長いキリンが生き残り他のキリンの仲間は分岐して別の形で生き残るか、絶滅してしまったから首の長いキリンしか見つからないだけかもしれない。
・乳酸と疲労
無酸素運動では乳酸がたまる。
酸素が必要なミトコンドリアの電子伝達系によらない方法でエネルギーを蓄える物質であるATPを生産しないといけないからだ。
クエン酸回路に行く前に乳酸が生成される。
水酸基付き炭素が酸化してアルデヒドになり更に酸化して乳酸になる。
発酵でアルコールを作るのと一緒だ。
アルコール代謝でアルコールデヒドロゲナーゼとアルデヒドデヒドロゲナーゼが使われる。
アルコールの代謝酵素で日本人の法学者が偉大な研究を行った。
日本人にはアルコールデヒドロゲナーゼの活性が強く、アルデヒドデヒドロゲナーゼの活性が低いタイプがある。
この場合アルコールはアルデヒドに代謝されるもそれ以上の代謝が進まず体内にアルデヒドが蓄積する。
アルデヒドは毒だ。
確か解剖用の死体の保存液だったり切片標本の固定液に使われるのではなかったか。
故大江健三郎氏の芥川賞受賞作『死者の驕り』では東大の医学部で解剖用の御遺体をアルデヒドに着けているが浮き上がってくるので棒でついてアルデヒドにしっかりつけるバイトが出てきたような気がする。
アルデヒドじゃなかったらごめんなさい。
アルデヒドは毒なので体が炎症を起こすので赤くなる。
翌日には頭が痛くなる。
その他二日酔い症状が起こる。
そもそも気分が悪くなるのでそんなにたくさんお酒を飲めない。
だから日本人はアルコール依存症人なる人の割合が少ない。
日本人はアルコールに弱い人が多い。
日本人の中でも分布があり古モンゴロイド、体が寒冷適応してない顔の彫りの深いモンゴロイドである縄文系の遺伝子を濃く受け継ぐ九州人や東北人は酒が強いと言われる。
他方で太平洋ベルトの日本の主要部に多い新モンゴロイド、寒い時期のシベリアで過ごしたので体が寒冷適応し表面積を減らすため体が球を目指し脂肪でなどのため顔の彫りが浅い渡来人系の日本人は酒が弱いと言われる。
欧米人や九州人や東北人が酒に強いのはアルコールデヒドロゲナーゼの活性が低く、アルデヒドデヒドロゲナーゼの活性が高いためと言わる。
アルコールがなかなか代謝されないので体がアルコール漬けになりいつまでも気持ちいい。
他方で生産されたアルデヒドはすぐに酸化され体に毒性物質であるアルデヒドがとどまらず二日酔いにもならず嫌な感じもしない。
いつまでも気持ちよく気持ち悪くならないからアルコールはとてもいいもので依存症になりやすい。
抗酒薬のシアナマイドやノックビンはここら辺の酵素にかかわりアルデヒドを増やしてアルコールを飲むとアルデヒドの毒性反応を起こさせるための薬だ。
とんでもなく気持ち悪くなる。
いろいろな酷い症状を起こし、ひどい気分にさせるのでわかっていても救急病院に駆け込むほどだ。
疲れてくると乳酸がたまる。
そこで乳酸は疲労の原因物質と考えられていた。
疲労と乳酸が同居するなら少なくとも相関関係はありそうだ。
だから昔の人は乳酸が原因で疲労感が起こると考えた。
これは因果と相関の区別がついていない典型例だ。
疲労も乳酸も同居するなら短絡的に乳酸が疲労の原因で疲労感は乳酸の作用の結果と考えたわけだ。
はっきりは忘れたが20年ほど前に別のことを言う論文が出た。
乳酸は疲労感をいやすためのものというものだ。
乳酸は疲労感の原因でもないし、結果でもなくむしろ疲労感を改善するように働くというものだ。
2つの物事の関係というのが因果関係以外にもあることが分かる。
風邪をひくと熱を出す。
昔は熱は病原体が起こす体に悪い反応だと考えられた。
病原体という毒の結果の中毒症状が熱というものだ。
中毒は毒に当たるという意味だ。
なんでも薬中とかアル中という人がいるが依存も乱用も嗜癖も中毒も全て別の意味だ。
風邪の結果熱が出る。
因果関係はこれでいいのかもしれない。
しかし熱は悪いものと考えるのはどうかという考え方もある時期からメジャーになった。
熱は病原体と戦うために起こす体の防衛反応というものだ。
熱は体にはいいものではないが病原体を攻撃するという意味でいいものであり必要なものと考える。
咳もそうだ。
咳が止まらないのはとても苦しい。
だから悪いものと考えがちだがせき込むことで病原体や粘液や免疫細胞の死骸の集まりである痰を吐き出す、或いは飲み込むのに役に立つ。
熱も咳も病原体が起こすのではなく体が起こす体にとっての有用なものと考える。
果たして病原体が原因か、体が原因か、ということになる。
同時に出るからと言って相関があるとはいえないかもしれない。
また因果関係簡単にはつけられない。
そもそも因果関係が分からないままな場合が多い。
・アルツハイマー病と老人半や繊維現繊維変化。
アルツハイマー病(AD)の患者さんの脳には老人斑や神経原線維性変化がみられる。
だから老人斑や繊維原線維変化はアルツハイマー型認知症と何らかの相関があるのではあると考えられていた。
相関はあってもどういう相関か分からない。
医学では特に因果関係が大切だ。
特に老人斑や神経原線維性変化が結果でなく原因であってくれるとありがたい。
原因が分かれば病因、病理、そして治療の解明につながる可能性がある。
逆に結果であればもうどうしようもない。
どっちである可能性もある。
結果でもあり原因でもある場合だ。
どっちでもない可能性もある。
相関があるように見えて相関がなかったということもある。
老人斑も神経原線維性変化もアルツハイマーでもない人にある場合もある。
しかしアルツハイマーの人にこれらがないことはない。
アルツハイマー型認知症は精神科では比較的少ない病理変化が出る疾患だ。
だから20世紀最初に発見されてすぐ注目された。
統合失調症でも躁うつ病でも神経症でも精神科では病理変化が見られない場合が多かった。
現在はこれら、特に老人班を形成するアミロイドが神経の壊死を起こすという仮説のもとに治療効果がある薬剤が登場してアメリカで認可されている。
少なくとも老人班については結果である可能性も同時に残されているが原因であることはコンセンサスが得られている。
これらがアルツハイマー型認知症の結果であるとするとこれらをどうにかしてももう手遅れなので創薬などのターゲットにする必要がない。
・独立と背反
これらはどちらも数学や論理学の概念で使われる。
しかし日常でも使えるようにしておくべきだ。
これらを単語ではなく文章で説明しようとするとえらく手間がかかる。
人間が賢くなれたのは簡略化と抽象化と記号化にある。
頭の良さだけで言えばネアンデルタール人や10万年前の我々の御先祖様のホモサピエンスの方が頭がよかった。
頭が良いというのはスペックが高かったということだ。
どちらも現在の人類より脳が大きかった。
10万年前の人類は100g我々より脳が重く、ネアンデルタール人はもっと脳が大きかった。
ネアンデルタール人の血を多く受け継いでいる白人が現在の科学文明を作ったことと何か関係があるかもしれない。
ついでに言うと自閉スペクトラム症の人はそうでない人より脳が大きい。
自閉スペクトラム症の人は大変な天才が出ることがある。
数十年前のカレンダー計算や曲を聴くと一回で覚えてピアノ演奏できたりする。
サヴァンスキルという。
古い映画のダスティ・ホフマンとトム・クルーズの『レインマン』という映画が発達障害関係者のおすすめ映画になっている。
ビル・ゲイツやマーク・ザッカーツバークが自閉スペクトラム症のアスペルガー症候群であるというのは有名だ。
後者は『ソーシャル・ネットワーク』という映画になっておりこれも関係者にはおすすめ映画だ。
多分10万年前の人類はスペック任せの思考をしていたのだろう。
人類が偉大なのは思考を省略したことにある。
記号化=言語の発達、理論や論理、合理的思考、思考の整理整頓、省略、象徴化、簡略化などにある。
脳の思考量やエネルギーを省略して少ないリソースで目的達成できれば同じことを多くのリソースを使って行うよりもいい。
電磁気学やマクロ経済学の入門レベルでは理論を長々説明して諸学者に理解させるようとするが最後にいくつかの数式で説明したことを簡単にまとめる。
ニュートンの力学にせよ熱力学や熱統計力学にせよいくつかの原理から学問体系全体を構築する。
昔のスペックの低いコンピュータではOSがWindowsでは重すぎることがあって、UNIXベースのLinuxがOSとして使うことがあった。
今はハードウェアのスペックが高いのでOSが重たかろうが関係ない。
普段使いには。
・背反とは
ベン図みたいなイメージを持っていると分かりやすい。
ただし集合論や命題論理をからめるとある条件を持つ個体と条件自体の区別が必要だ。
条件が多いと当てはまる集合は小さくなり、条件が少ないと当てはまる元、要素の数は多くなる。
逆に少数の集団を特定しようとするとより多くの上限が必要になる場合がある。
条件の数と元の数が反比例の場合があるのでベン図にするとひっくり返る。
普通はベン図は条件対象の個体の方で記載されるが必要条件や十分条件を理解する時にここが混乱することがある。
AであればBでない。
BであればAでない。
これが成り立つとAとBは背反と言われる。
Aでない場合が必ずしも全てBである必要はなく、Aでない場合の一つのパターンがBだ。
逆も可だ。
これはAとBの関係の在り方の一形態である。
相関しているとも言える。
相関を正相関、負相関、相関なしの三つに分ける場合がある。
これは負の相関の一つの究極の形だ。
相関係数にするとー1になるかもしれない。
負相関はAであればあるほどBでない度合いが高まり、逆もまたそうな場合をいう。
正相関はAであればあるほどBである度合いが高まる場合をいう。
これらは一つの関係の在り方だ。
また相関なしも関係ないというメタな意味で関係があると言えるかもしれない。
・独立とは
独立とはAであることがBである場合に何の影響も与えないことをいう。
高校数学の確率、統計のところの条件付き確率で学ぶと思う。
中学や小学校で確立を学ぶかもしれないが独立であることが前提とされているか、順列みたいな感じで樹形図で全部の数え方を工夫させることが多いと思われる。
高校や大学では統計学のベエズの定理の説明で出てくると思われる。
2つの物事の関係性を洗いざらい全てのパターンを考える習慣があれば自然に独立の考え方が身についているかもしれない。
いわゆる「場合わけ」という思考法だ。
きちんと行えば漏れがない。
見落としがない。
まずは2つの物事があれば最初から関係ない場合と関係ある場合を両方考えるべきだ。
考えが浅い場合、2つの物事が関係ありそうだと見えると関係ない場合を一切考えず考えを進めてしまう短絡や近視眼的な思考を行ってしまう場合がある。
逆に2つの物事に全く関係がなさそうな印象を受けると、関係がある可能性について場合分けの思考を忘れてしまう場合がある。
数学や論理学で学ぶ思考ができないのだ。
これは教養がないと言われる。
教養とはリベラルアーツで中世自由7学だ。
自由7科は3科4学、或いは3学4科となる。
科と学と書いているがどちらもvium/vivm/uiumで語源は道を意味するviaだ。
『道』というフェリーニの傑作映画があるがそれはストラーダで道は道でも別の単語だ。
科とか学とかご都合主義的に翻訳しているが「道」と訳してしまえば、日本の柔道、剣道、書道、茶道などと変わらない。
3科あるいは3学は文法、修辞、論理からなる。
つまり言葉もっと言えば、記号操作を身に着ける。
なんでもそうだが言葉が全ての基本になる。
これは下級の初歩過程でそれをマスターしたうえで上級の4科や4学、すなわち数学に進む。
4科4学は算術、幾何学、音楽、天文学だ。
幾何学や空間的な数や量、音楽は時間的な数や量の研究で天文学は空間と時間の両方だ。
つまりまず言葉を学び次に数学を学んで教養課程とする。
教養課程が終われば専門科目の進学、法学、医学、場合によっては哲学に進む。
哲学は意味が広くその他の学問をひっくるめる場合もあれば教養課程を指す場合もある。
面白いことに現代哲学の構造主義は言語学と数学から生まれた。
教養の研究とは物事の根源の研究でもある。
基礎を突き詰めると本質に至るのだ。
・関係ない事
関係ないというと背反を思い浮かべつ人が多い。
そういう人は感情的でヒステリックなことが多い。
理性と感情を切り離すことが出来ない。
そもそも背反の意味を知らなければ理性がないのと一緒なので分けると言っても分けようがない。
全部が感情となる。
独立も一緒だ。
独立の方が分かっていない人が多いようだ。
背反と勘違いしている人もいる。
言葉を示して違うと言っても通じない。
ということはそもそも知らないのだ。
理性がない。
独立ならAであってもなくてもBに影響がない。
またBであってもなくてもAであることに影響がない。
確率なら一回目のサイコロを振った結果が2回目のサイコロの結果に影響がない。
2回サイコロを振って出る目の組み合わせの確率は単純に1/6に1/6を書けることが出来る。
1回目のサイコロの出目の結果が2回目のサイコロの出る目の確立に影響を与えてしまうと2回目のサイコロを振ったときに出る目が1~6それぞれが等しくない。
単純に一回目の結果に1/6をかけれない。
1/6でなくなっているかもしれないからだ。
1回、2回と書くと時間がずれているから同じ場所で太郎君と次郎君が別々にサイコロを振る場合でもよい。
同じ場所でなくても日本と地球の裏側のアルゼンチンで別にサイコロを振ってもよい。
なんかのバタフライ・エフェクトが生じる場合もあるかもしれないがまあ独立事象と考えて問題ない。
という風に確率論では話が進む。
ベエズ統計とかベエズ確率とかいう。
書いていてベエズという言葉は間違っている気がしてきたがまあ紛らわしい別の言葉もないと思われるのでいいとする。
「関係ない」「それとこれとは別の話」とかいうのはこの独立だ。
赤の他人ということだ。
背反の方は好きの反対は嫌いではなく無関心、みたいな感じで情緒的に2つの事象が関係を持つ。
背反を関係ないことと定義すればまた変わるが。
独立は本当の他人だ。
独立した者同士の大人の関係だ。
背反は排他的だったり排斥的だったりするので情緒が絡むことがある。
というか多い。
排中律や背理法とも関係が生じる場合がある。
ここら辺は質量含意のパラドックスやラッセルのパラドックスその他で論争になったことがある。
数学や論理学で変な結論の多くが背理法を使って出ることが問題になったのだ。
気持ち悪いから使いたくないという人のために排中律や背理法を排除した直感主義論理学というものがある。
・関係なくなれない悲しみ
独立の概念を知らない人はとかくいろいろなことを関係づけてしまう。
自分で気が付かずに関係づけている。
議論が粘着質になりやすい。
論証が論証になっていない。
彼や彼女なりの論証なのだろうが論理学に基づいていない。
パラノイド、妄想症、疑い深くなる、さわやかでなくなるのでうっとおしいしめんどくさい。
自分は自分、人は人が出来ない。
言語も思考の癖も自己流の思考法の型もその人の言葉や行動に影響を与える。
変な色を付けたくなければ論理学や数学を勉強すればいいのだがしてなかったりしているふりをされると話が出来ない。
簡単にテストを忍ばせて図ることが出来るが認めないし図星だと逆上したり怒鳴ったり泣き出したりする。
子供の世界だ。
甘い世界だ。
それで通ってしまっている。
・世の中平和になるために
世の中の平和のためには理が必要だ。
ことわりだ。
これは現在では学校や本や場合によってはネットで学ぶことが出来る。
学ぶことなしに世の中をかき乱すのは傲慢と言える。
7つの大罪の一つだ。
キリスト教を持ち出すならそもそも聖書に言葉は神とある。
言葉と訳しているがロゴスがギリシア語原文だ。
ヘレニズムの影響を受けたユダヤ教の発想で、イエスは言葉が受肉した存在とされる。
インカネーションという。
聖書にさえ書いているのだから謙虚にロゴスやロジックを学べばいいのだ。
因みにキリスト教は日本では特殊な宗教だ。
死体の復活、つまり肉体の復活を伴った死者の復活を信じている。
日本には黄泉の国、輪廻転生、涅槃、極楽浄土、お釈迦さまやナーガールジュナの消えてなくなる、があったが肉体の復活を謳うのはのはこれ以外ない。
これはイエスに限らない。
イエスの場合はロゴスが肉を得たということになる点が我々と違う。
ロゴス=言葉=神は重要なものだ。
聖書の重要性と一緒で文字と文の大切さでもある。
そもそも高等教育で教養で学ぶことで現代では当たり前のはずだがそうなっていない。
因みに高等学校は高等教育ではない。
旧制高校は現在の大学の教養程度を含むので高等教育と言えた。
現在の高校は初等教育か、そういう言葉があるなら中等教育をする機関になる。
中高一貫校というのは意味があるのかもしれない。
最近は小中一貫や小中高一貫が注目される。
女子の思春期や男子の思春期で学校を変えないのは自然な配慮と言える。
それはともかくある程度知的訓練をしておかないとなんぼ自尊心や自己肯定感が大切と言っても中身が伴わないと社交上、社会関係上、問題が出てくる。
自己愛的な増えて困ったことになる。
自己愛性パーソナリティ障害が小学生を殺したり女子高生を暴行してコンクリート詰めにしたり弱い者いじめの凶悪事件が増える。
先日多分十年ぶりに世代を調べたら1982年―1987年の80年代生まれの世代に名前がついていた。
“キレる17歳世代”となっていた。
確かにこの世代はキレた。
私が二回目に大学に入ったときに1982年世代と同じになってしまった。
神戸小児連続首切り事件などで有名な82年世代だ。
N高校の同級生が変な態度をとってきたので耳元で
「喧嘩するな表に出ろや」と言ったらその後はへつらうようになった。
上には媚びて下には威張る世代だ。
R高校の西の方がまた問題をよく起こした。
このR高校出身者を2名雇ったがとんでもない問題を2人とも起こして辞めてもらった。
南の方が自己肯定感が低く大学不登校が多かったのと対照をなす。
勉強して教養を身に着ければソクラテスも学ぶし現代哲学を学ぶので謙虚になる。
イグノーベル賞を取ったダニングクルーガー効果というもので、頭がいいほど自信がなくなり、頭が悪いほど自分に自信があるというジレンマが生じる。
このジレンマのおかげで知力が違うもの同士が対等なつもりで話し合えるともいえるのだが。
理Ⅲで医者になった人は医者になってIQが30下がったと言って苦しみ、低偏差値の医学部では逆に楽しそうに臨床をしている。
それはいいとして能力を適正配分しないと社会と世界の損失になる。
歪みがあると適正化しようとする力が働き混乱が生じる。
分相応という考え方も持つのが大切だ。
オプションは多ければ多いほどいい。
と書いていたら罰が当たって腰痛発作が起こったので筆を置く。
現代哲学を広める会という活動をしています。 現代数学を広める会という活動をしています。 仏教を広める会という活動をしています。 ご拝読ありがとうございます。