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人生がつまらない時は⚪︎⚪︎を探求する



機械の中の思考を傍に置く。現実世界への探求を始める。


最近、「機械の中で考えず、自分の頭で考える。写真で満足せず、本物を見に出かける。」と言う言葉に出会い、とても力強いエネルギーを持つ言葉だと感じました。

私は言葉には、なんと呼べばいいのかはわからないですが、かなり強い力があると経験から認識しています。命に力を注ぐ言葉、命から力を殺ぐ言葉があるように思います。

いま、言葉の影響力をコントロールできないまま使う人が多くなっている時代かもしれません。というか、それは昔から割合的には変わらないかもしれないけれど、いまの時代の道具の進歩で言葉は一瞬で世界を駆け巡流ので、昔の影響力とは桁が違ってしまっているのではないでしょうか。

その影響力は、皆さんも体験している通りだと思います。

「機械の中で考えず、自分の頭で考える。写真で満足せず、本物を見に出かける。」
この言葉は、現代社会において失われつつある、人間ならではの思考と行動を呼び覚ましますし、なにかにハッと気がつかされます。私の場合それは、何事も頭の中で考えたら完結してしまい、行動せず、分かった気になって、経験しているような錯覚を持ってしまって中身が空っぽのままの自分を増築しているようなところがあると、そう思い至りました。

自分で書く、見る魅力

機械学習の発展により、コンピュータは膨大なデータを分析し、AIは人間を超える精度で予測や判断を下せるようになりましたが、機械が生成する情報はあくまで過去のデータに基づいたもので、独創的に構成されたように見受けられても、そこに「意図」は存在しない気がします。

データ以上でもデータ以下でもない感じです。だから言葉が記号としての存在でしかない。あくまで01の世界なんだなと。ペンで紙に言葉を書くときは、思考の早さにペンを持つ筋肉のスピードは追いつけないので、ペンの動くスピードに合わせて書くしかありません。

だから、そのタイムラグで別の思考が湧き出てきて、書いていることへの情動や根拠を自己納得しやすいと思います。ここにアナログの良さがあるというか、ペンで書くと言語記号に意図が込めやすい。

しかし、PCなどへの入力は、文字をキー配列から選んで「選択」する作業を繰り返すことで言語組み立てをしていくので、動作としては「押す」が全般で、漢字を書くような筋肉の流れ作業は引き起こされません。ポチポチしていくだけ。

このデジタル入力の利点は思考のスピードに寄っていくことができるので、直感的な言葉が出しやすいところでしょうか。

直感で話すと「派に衣着せる」時間はないので、素っ裸の産まれたままの自分言葉が表出されてしまうところ。それが世界に繋がっているときならば、瞬く間に裸の自分言葉が知れ渡ってしまい後悔が意味消失してしまうこともあるようです。

デジタルは情報の切り貼りによって文字情報を組み立ててきますが、新たな価値を生み出す創造的な思考や、言葉の裏にある「意図」は今も人間の独壇場で、きっとここからも意図を記号に込められるのは人だけではないかと想像します。

言葉には影響力があります。

私は人の命(元気、活力、希望、前向きさ)から力を殺ぐ言葉を「呪詛」とラベルを張っています。

呪詛は「呪い」のことです。軽いものは「嫌味」「妬み」、「嫉み」などなど、つまりは陰口や悪口なんですが、これらは「呪詛」としての影響力を持っているのではないかと想像しています。

私は軽いといいましたが、呪詛は言葉の影響力を使って、他者の力を殺ぐので決して軽くはないんだとは思います。

西洋東洋問わず、昔の人は言葉の影響力を理解していた

「むやみやたらに喋らない」ことが知性がある人の特徴として表現されることが多くあります。

「無駄口をきかない」という古来からの教えは、言葉が口から出た後に波紋のように広がる影響力に対する1つの姿勢であり、無闇に言葉という道具に「念=意図」を込めないようにするための護身術的な習慣であったように思います。

日光東照宮にある有名なレリーフ、「見猿聞か猿言わ猿」も、見ることで影響を受ける、つまり自分の心に波紋ができる物事を受容しないことで冷静沈着であること、言わないことでの言葉の力をコントロールすること、聞かないことで、言葉の力を受容しない。

そうすることで自分に凪を保ち、バランスの取れた自分でいられる。ようにする。そんな知恵というか、人生ダンジョンでの活動技法の1つとして学びがあると考えています。

呪詛は自分にも不調を引き起こす

ささいな悪口も「呪詛の類」なんだと認知できると自己防御能力を高めることができます。

その理由は、人は誰かに呪詛を放つときは、自分の精神状態はネガティブモードだからです。つまりはメンタル不調を自分の中で発動させているようなものです。そうした状態は自律神経を疲弊させるので、内臓の働きも悪くなり、循環器系統は不活性化していくことは容易に想像できます。

つまり、悪口という呪詛行為は発動しているその場から自分にも呪いを吐いているのと同じ事だと想像できます。

声で発する悪口、陰口は呪詛の詠唱と捉えてみると、私などは気が小さいので途端に口をつぐんでしまいます。また、悪口、陰口を入力したり、書いていると呪詛札化して、それを見る人、受け入れる人に影響が及びます。

もちろん、他者と呪詛詠唱や呪詛札を共有していると、それはもう集団呪詛儀式化の様相です。想像するとなんか怖いですね。えてして人生が「つまらない」と感受しているときは、間(魔)が差すもの、そして間(魔)違いが誘発されやすいものです。

人生ダンジョンでは時に「つまらなさ」を体験するもの

人生ダンジョンでは、そうしたときがよくあると思いますが、こういう時こそ「機械の中で考えず、自分の頭で考える。写真で満足せず、本物を見に出かける。」を実践するときです。スマホやPCの電源を切り、一度戸棚や引き出しに収めます。

そして「さて何をしようか、何処に行ってみようか」と自分の頭で考えるのです。これだけでも脳への血流は上がり気持ちのスパイラルが上向きにグルグルしだすと思います。そして、自分の瞳だけで世界を味わってみるのです。

スマホでの撮影は、世界中の美しい風景を一瞬で私たちの目に届けてくれます。しかし、写真に映し出されるのは、あくまでその瞬間を切り取った断片的な情報です。もっと言えばそれはピクセルでしかありません。

生身の自分で五感を使うことは「己を知る」に繋がっていく

実際にその場所を訪れ、五感で感じ、空気を読み取ることで得られる経験は、今生きているからこそできるものであり、あなた以外の人には得られないあなただけのものです。

私たちは日常に便利で効率的なものを求めるあまり、自分の意志による主体的な取捨選択の思考を弱め、さもすると現実から目を背けがちです。なぜならば、「現実」の情報は膨大であり、五感をフル動員するので元気がないと受け止めきれないものだからです。

だから私たちは自分の疲労困憊を避けるために時に現実から目を背けて黙り込みます。しかし、人は考えること、そして自ら体験することで心身共に成長していく生物です。

機械を主軸とするのではなく、自分の地頭で考え、自ら行動することで新たな発見をし、自己実現(本当の自分を知る)へと繋がっていくことができる気がします。

哲学的にみてみると

この「機械の中で考えず、自分の頭で考える。写真で満足せず、本物を見に出かける。」という言葉は、経験の重要性を強調しており、自分の行動がどんな影響を及ぼすのかを常に問いかけてきます。

経験は、知識の量だけでなく、質を高める上で不可欠なものです。実際に何かを体験することで、私たちは深く考え、感じ、そして学ぶことができます。

呪詛ではなく祝詞を、祝詞の詠唱と祝詞札の共有をしてみましょう。たった一度限りの今生を本気で自分の五感を使う時間で埋めていきましょう。そこに「詰まらない」は難しいのではないかと思います。なぜならば世界は素晴らしい物でぎっちりと「詰まっている」ところだからです。

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