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境遇


24歳を過ぎた頃から、人の境遇を考えて咀嚼しながら生きることが事が多くなった。

親をひとりの人として分析するようになったのもその頃。大人になるということは、親をひとりの人として受け入れるようになることもひとつかもしれない。親の家庭環境が取り巻いた過去やトラウマを把握し、理解し、どんな愛情を受けた親が自分にどんな愛情を注いでくれるのか。

大人と言えば子供の話で
幼少期のクリスマスは何を頼んでも、必ず本が1冊以上紛れたプレゼントが枕元にある境遇で育った。皆が持っていたゲーム機が欲しかった頃の誕生日は本が10冊プレゼントされることも何度もあった。「教養は邪魔にならないからね」母に笑顔でそう言われながらケーキに並ぶ蝋燭の火を消してたっけ。
成績が良かったり、かけっこで1位になったご褒美も「なんでも好きな本を買ってあげるからね」と本屋へと手を引かれていくのを当たり前に。

本を持っていれば落ち着くし、いつでも現実から逃げられる瞬間があった。
当時付き合ってた人と喧嘩した時は無言で本を読みはじめたり。まぁ私の境遇の一部の話は置いておいて。

言葉を持っている人が好き。
と、言うことが減ってしまった。
本をよく読む人の話し方はよくわかるなぁ。
と、感じることが減ってしまった。

こうやって写真、動画、言語化されない世の中で生きることにいつの間にか慣れていた。言語化されないコンテンツの中で生まれた、人を死に追いやるまでもの論駁が「アンチ」という言語化された愚物だなんて、なんていう皮肉なのでしょう。

兎にも角にも綺麗なところだけ切り取られた世界には興味ないので、私はどんなに仲良くなっても決して自分からはSNSを教えない。他人から見ても私の切り取り部分なんてつまらないでしょう。

幸せだな〜と思った瞬間の美味しいご飯、美味しいお酒、ラグジュアリーホテル、深夜のカップラーメン、あの人の横顔、載せたいだけ載せてみたけれどその瞬間の幸福度は決して上がるわけではない。

長らく浅慮に覆われて言葉を失っていたと思った。良くないね。

さあ、上っ面な毀誉褒貶とは無縁の世界で
常にご機嫌で生きようね


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