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溝口健二「夜の女たち」(1948)

小津・黒澤と並ぶ日本映画三大巨匠の1人溝口健二の、敗戦の混乱期に肉体を売る女性の悲劇を描いた問題作です。主演は田中絹代。1948年5月公開。

奇しくも同じ年に小津安二郎「風の中の牝雞(めんどり)」が作られており、これも田中絹代主演。つまり田中は、同じ終戦3年後の1948年に、2人の巨匠が売春婦を描いた映画に続けて主演したことになります。

田中絹代は空襲の跡も生々しい大阪の女性ですが、夫は外地で戦死、病弱な息子を抱えて辛酸を舐めていました。両親と妹(高杉早苗)は朝鮮で暮らしていましたが、戦後の混乱で生き別れの状態に。しかしある時、心斎橋で妹と偶然再会します。そして、妹の口から両親が他界したことを知らされるのでした。

そして息子も病死。人生のドン底に落ちた絹代は、パンパン(進駐軍目当ての街娼)にまで堕ちます。

▲進駐軍向けの娼婦はパンパンと呼ばれたが、映画に進駐軍は登場せず、かわりに英語の標識が。

新世界の裏で姉がパンパンをしていると聞いた妹の高杉早苗は、1人、姉を探しに行きます。その時警察が踏み込んで来て、彼女らを一斉に検挙。仲間と思われた高杉早苗も逮捕されてしまいます。

連れられたのは警察ではなく、売春婦専門の病院でした。売春婦は取り調べの前にここで性病検査を受ける決まりになっていたのです。早苗はこの病院で姉の田中絹代と再会します。田中は、かつての貞淑な女性とは似ても似つかない、ふてぶてしい態度の立派なパンパンになっていました。

この映画を撮るにあたり、溝口健二は東京の吉原にある売春婦専門病院に視察に行きましたが、そこの売春婦の1人が溝口に気がつき、「映画監督が何しに来た?」と騒ぎになったので、溝口は彼女らに挨拶したのでしたが、その際、「貴女がたが今、このような生活に身を置いているのは、ひとえに社会の責任、世の男性の責任でありまして……いや、僕の責任だ!」と演説中感極まって号泣したそうです。溝口の売春婦に対する思い入れには理由があるのですが、それはいずれメルカリに出す遺作「赤線地帯」で触れます。

小津安二郎の「風の中の牝雞」は際どいテーマを扱いながらもあくまで小津映画のスタイルでしたが、溝口の「夜の女たち」は実際の大阪にロケして撮られており、セミドキュメンタリータッチで一貫しています。溝口は脚本の依田義賢に「君、イタリー映画の『無防備都市』を見たかね」と言ったそうで、当時世界を席巻したネオ・リアリスモの影響を受けていたことが伺えます。


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