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【竹熊セレクト】ダルトン・トランボの伝記映画と代表作3作品セレクション


今回は【竹熊セレクト】として、ハリウッド史上、最も才能がある脚本家とされながらも、思想的な理由で映画界を追放され、偽名で幾多の名作を書いたダグラス・トランボの伝記映画「トランボ・ハリウッドに最も嫌われた男」を中心に、トランボが原案・初稿脚本を手がけた「素晴らしき哉、人生!」(監督フランク・キャプラ)、「ローマの休日」(監督ウィリアム・ワイラー)「スパルタカス」(監督スタンリー・キューブリック)、「ジョニーは戦場へ行った」(原作・脚本・監督ダルトン・トランボ)の4作品を同時出品します。

ダルトン・トランボはハリウッドの歴史上、最も才能ある脚本家として知られますが、戦後の一時期、共産主義者であったことでハリウッドから追放され、偽名で多くの名作を書いた後、晩年に名誉回復がなされた脚本家・監督です。

第二次大戦直後に始まった米国とソ連の対立を軸とした東西冷戦は、米国においては過剰な共産主義排斥運動となり、それを指揮した共和党右派のジョセフ・マッカーシーの名を取ってマッカーシズムと名付けられました。

ハリウッドにおいても1947年に共産主義者と目された俳優・監督・脚本家らが次々に糾弾の矢面に立たされ、業界追放の憂き目に遭いました。この中にダルトン・トランボも含まれています。

この時期以降、トランボは偽名での仕事を余儀なくされます。その中には原案と脚本第1稿を書きながらもクレジットから名前を抹消された「素晴らしき哉、人生!」や、「ローマの休日」(イアン・マクレラン・ハンター名義)などの歴史的名作が含まれています。

トランボは合衆国憲法修正第二条(議会は言論の自由を制限する法律を作ってはいけない)を理由に証言を拒否し、1950年に1年半の懲役を受けました。出所後はメキシコ映画の脚本を書き、54年にアメリカに帰国してからも偽名での脚本家生活が続きます。

1956年にロバート・リッチ名義で原案と脚本を書いた「黒い牡牛」がアカデミー原案賞を受賞しましたが、トランボは出席を拒否しました。

同年カーク・ダグラスが製作と主演を務め、アンソニー・マンからスタンリー・キューブリックに監督が交代した「スパルタカス」(サム・ジャクソン名義で脚本を担当)では、監督を降板したアンソニー・マンがトランボの脚本であることを広めてしまい、トランボの名前が復活します。監督を受け継いだキューブリックはトランボの脚本に手を入れようとしましたが、カーク・ダグラスが断固として拒否。この映画がヒットしたため、トランボの名前はついに復権しました。

トランボは戦前に書いた第一次大戦の負傷兵を主人公にした小説「ジョニーは戦場へ行った」の映画化を長年熱望していましたが、ようやく1971年に自ら脚本と監督を務め、悲願を果たします。この映画はトランボの唯一の監督作品になります。

「ジョニーは戦場へ行った」は戦争で手足も目・鼻・口・耳も失い、ただ息をしているだけの生ける屍になったジョニーの内面をひたすら描いた物語です。余りにも露骨な反戦思想から出版当時は発禁になりましたが、トランボの復権とともに映画化することが出来た作品です。

トランボが書いた原作小説はひたすらジョニーの内面世界を描写するものでしたが、この映画では内面に加えて彼がすべての機能を失った状態でベッドに横たわる外的描写があります。そして外的描写は白黒画面ですが、ジョニーの心の中の描写はカラー映像なのです。これは、優れた映画的アイデアです。

トランボは共産主義者だったかもしれませんが、それがどうしたと言うのでしょう。プロレタリア独裁を理念に組み入れた共産主義は確かに独裁政権の危険性が内在しており、不完全な思想だったかもしれません。しかし我々が自由だと信じている資本主義、民主主義もまた、理想からはかけ離れていることは、トランボのような「内面の自由」を最後まで捨てなかった表現者が被った受難の人生からも分かると思います。

「素晴らしき哉、人生!」「ローマの休日」の解説文は次を参照。

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