英語って、なんで学ぶんだろう?

こんちくわ。まてさんです。

さて、前回「ファシリテーションのしかた」の中で登場した、英語教育論のレポートを今回は上げてみようと思います。この授業では、前半で英語教育の理論を、後半で模擬授業を行うという、なんとも教職科目らしい構成となっていました。講師の先生は、某県の公立学校で勤務していた方で、現在はある大学で教授をしているとのことです。

執筆テーマは、2部に分かれていまして、今回はそのうちの第2部「教育実習を念頭において、英語を教えることの意味・教職全体の意義とは」です。大したものではありませんが、ご覧いただけると幸いです。

この英語教育論を通して、英語教育に関する様々な知識や技術を会得したように思う。その中で「生徒による活動」に着眼を置いていたのは、なるほどと納得する場面が多かった。実際に模擬授業をしてみて、「先生による発話が多いために退屈だった」という意見をいただいたときに、難易度が高い教材を扱ったこともあるだろうが、ただ聞くだけの授業では生徒が飽きてしまう、ということがはっきりと理解できた。もちろん、ただ生徒に活動してもらうだけでは意味のない活動となってしまうため、「目的をもって」活動することがより大切であるように感じた。まだまだ英語教育論で学んだ、講義での知識を使うことは難しいが、今後教員になった際にその知識を活用できるようになれば良いと思う。
「英語を教えることの意義」については、先日紹介してくださった書籍(参考文献欄に記載)を読んだので、それに沿って記すこととする。中学校・高校の英語では現在「英語で発信する能力を身につける」ことを着眼点においているが、「スピーキング主体の授業」ということに対して、本当に正しいのかという疑問を、具体的な例を記しながら提示されている。確かに、学校での英語教育では、すべての技能において系統的に学ぶことが大切であると考える。スピーキングを重視したところで、その他の能力がすべて代替できるわけではない。また、入学試験に外部試験を取り入れる点に関しては、能力を確かめる試験である外部試験と、受験者に合否をつけ、切り捨てるための入学試験では大きな差があり、代替は難しいという記述がある。確かに、外部試験の形を変容させることはできないし、受験生は外部試験を受けることが義務と考えてしまい、試験の区分けがうまくいかなくなってしまう可能性がある。入学試験を外部試験ですべてを代替するのではなく、一定の点数を与えるなどの加点措置をするほうが良いのではないか。
この講義を通じた教職全体の意義は、「生徒ありきの学び」であることのように思う。前にも記したが、学校教育においては、「生徒による活動」に着眼点を置いた授業を展開することで、生徒がより活発的に活動できる。これは授業だけでなく、生徒指導や学校での行事(運動会・体育祭、文化祭等)、学級での活動などにもあてはまることのように思う。私が経験した中では、教員が「UNIQLO 服のチカラプロジェクト」の話題が授業で出た際に、生徒が参加してみようという提案をし、付近の学校や住民に服の回収を呼び掛けていた。今でもその活動は継続して続いており、その学校の新たな伝統となっている。現代では以前の教員がただ教えるだけの一方的な教育ではなく、生徒と教員の「学びあい」を行うことが多く提唱されている。生徒によるさまざまな可能性を引き出すことで、より充実した学校生活が送れるというものである。もちろん、教員によるある程度の統制が必要になる場面はあるが、生徒の自主的な活動を阻害するようなものであってはならないように思う。

参考文献
  阿部公彦『史上最悪の英語政策 ウソだらけの「4技能」看板』ひつじ書房、2017

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