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「それやって意味あるの?」に対する私なりの答え

大人になってから驚いた事実がある。

それは、

“時間を忘れて夢中になれる、一生飽きないことが確定している好きなもの”
を持っている人は、意外と少ない。

という事実だ。

私はどうも生来のオタク気質というか、ハマったら睡眠も忘れてトコトン没頭して止まらなくなってしまい、親に「この子はおかしくなってしまったんじゃないか」と心配されてきたタイプである。そして皆そういうものだと、長らく本気で思っていた。

今も昔も超絶マイペースな私は「自分の当たり前が世の中の当たり前とは限らない(ていうか結構違う)」と気付くまでにえらく時間がかかり、“夢中になるほど好きなものが無い”という人が一定数いるという事実を真に受け止めたのはアラサーに差し掛かった頃だった。

『大人になるとは気付くということである』と言った哲学者が居るか居ないかは知らないが、私という人間にとってはこの“気付き”が思いがけず“障壁”になってしまった。

”好きなことがニッチな分野”あるある

私の経歴をダイジェストでお伝えすると、高校で世界史(古代ローマ史)にハマる→古代ローマをもっと知りたくなり大学(史学科)へ進学する→教員免許を取得する→人材系ベンチャー/教育系大手で営業する→30歳で社会科教員になる、という感じだ。

進学先もバイト先も就職先も、「古代ローマ史の面白さに一生没頭できて、ついでに一人でも多くの人に知ってもらう」目的のために選んだ。

という話をすると、「すごいね〜自分は全然そこまで考えて選んでないわ。」と言われることがとても多い。この称賛ともとれる言葉の裏にある“本音”を私は知っている。なぜなら二言目には大概こう聞かれるから。

明治維新とか世界大戦じゃなくて、何で“古代ローマ”なの?珍しいよね。

心の声は、恐らくこうだろう。

近現代史なら政治・経済・経営に役立つの分かるけど、事実かどうかもよく分からないヨーロッパの昔話を知って何になるの?意味なくない?

もちろん、皆が皆そういう意味で言っているわけではないのは分かっている。幸せなことに私の周りには、純粋に私きっかけで古代ローマに興味を持ってくれた友人もいる。彼らの言葉からはそういう雰囲気は感じないので、これでもかと好き勝手語らせてもらっている。(いつもありがとう!)

ただ、実際ほとんどの場合は【心の声】が表情や言葉尻に表れているし、何なら口に出して言われることだって少なくなかった。これはニッチな分野を好きになった人が必ず経験する“マジョリティからの洗礼”ではなかろうか。

他人の何気ない言葉なんて気にしたくないけど

鈍感な私は、しばらく「わ〜すごい褒められてるゥ♫」と真っ直ぐ受け取っていた。しかし冒頭に書いたようにアラサーに差し掛かり、世の中の事実に気付いてしまうのである。

多くの人は色々なものに満遍なく興味を持って、広く人気なものや流行りを適度に取り入れて、社会に馴染んでいく。そして様々な情報の中から「意味のある(役に立つ)もの」を取捨選択して生きているんだ。

私の“オトナ脳”は30歳が近付いてやっと成長期を迎え、「古代ローマ史なんて知って意味あるの?」というマジョリティの心の声が脳内にこだまするようになった。そして「自分はこのまま決めた道を進んで良いんだろうか」とまで考えるようになっていった。

学校に通う子ども達の多くがマジョリティだとすると、私みたいに偏った先生から教えられたら可哀想なんじゃないか?そもそも学校にも会社にもイマイチ馴染めなかった私が、世の中に必要とされる人になるための指導なんてできないんじゃないか?子ども達の気持ちを分かってあげられないんじゃないか?

とはいえ、それ以外の道なんて到底思いつかない。考えようとしても混乱して訳が分からなくなるし、誰に相談したら良いのかも分からない。とりあえず教員採用試験に向けて勉強に没頭しよう。そして私は自分の道を信じて(ある意味では心の声と向き合わず)、30歳で夢の学校教員になった。

今思うとなかなかの被害妄想な気がするし、若干の人間不信っぽさも感じる。それでも暗黒の中学時代を経てやっと見つけた夢を見つめ直す勇気はなく、決めた道をただ前進することしか出来なかった。

興味がない登山映画を観た理由

そんな感じで学校教員になったものだから、夢の職業に就いた喜びと裏腹に何となくの“モヤッと”を常に抱えていた。慌ただしい毎日を言い訳に自分の中の“未解決事件”を見てみぬフリして、2年の月日があっという間に過ぎた。

その頃、とある映画の存在を知った。

『ヒマラヤ ~地上8,000メートルの絆~』という韓国映画である。

日本語のオフィシャルサイトも作られず、おそらく日本においてはそこまで注目されていない地味な登山映画だった。そのタイトルから「絆を大切にする人達が、何らかの事情で命懸けでエベレストに登る」ストーリーであることは想像に難くない。(そして実際そのままである。)

私は映画が好きで年間100本くらい観ていると思うが、ジャンルにかなり偏りがあり基本的にサスペンスしか観ない。時に気まぐれでコメディやヒューマンドラマを観ることはあれど、登山映画をチョイスすることはまず無い。

なぜなら私は登山に興味がないから。

私の日常生活に「登山」というワードが出てくることは無く、この映画を知った時久しぶりに登山について思考した。

山に登って降りる・・・何のために?

私は疲れること・汗をかくこと・寒い場所が苦手だ。そのため登山は、“頂上に生える幻の薬草を取りに行かなければお母さんの命が危ない”などのシチュエーションが訪れない限り、今後私の人生に追加されることはない所業である。

頂上の美しい景色を観たい、という気持ちは分かる。だったらロープウェイに乗って登るか、飛行機から眺めればいいじゃないか。百歩譲って“辛いことを乗り越えた達成感”が欲しいというなら、登山じゃなくても良いだろう。

少なくとも、命を賭けて世界一の高山に登るなんて理解不可能過ぎる。
どう考えても、私の頭では理解できない。

と思ったところで、気が付いた。これって「古代ローマが大好き」と伝えた時に、私自身が多くの人から言われてきた考えと同じなんじゃないか?

私は“何で古代ローマなの(意味あるの)?”という問いに勝手にモヤモヤしていたし、明確な答えを持ち合わせていない自分に悔しい思いをしてきた。

そんな中で「登山が大好き」という人へ同じような目を向けてしまった自分の思考に、深く後悔した。そして自分の頬をグーパンチで殴ると同時に、その登山映画を観ることに決めたのである。

そしてコンプレックスは自信に変わった

映画は「エベレスト山頂付近に眠る仲間の亡骸を探すため、記録に残ることはない過酷な遠征に挑む」という実話ベースの物語だった。

「命を懸けた挑戦で亡くなったなら自業自得じゃないか」という意見が多い中、自らも命を懸けてエベレスト頂上を目指す隊員たち。常軌を逸した決断と行動に、映画を観ている人の多くが「なんでそこまでするのか理解できない・・・」と唖然とするのではないだろうか。かくいう私も、やはりそう感じてしまったのが正直なところだ。

それでも私には“登山家が山を登る意味を知る”という目的があったので、一生懸命理解しようと思いながら観ていた。そして一つの結論に辿り着いた。

“なぜ登山するのか”に対する答えなんて無い。

エベレスト初登頂を目指したイギリスの伝説的登山家ジョージ・マロリーの「そこに山があるから」という有名な言葉がある。おそらく登山家にとってこれが唯一の“答え”なのだ。

映画になった登山隊の彼らも、自身の命が危ないという情報以上に「山中に仲間がいるなら迎えに行く」という想いが勝った事実があるだけだ。それを“なぜか”という問いに対して唯一ある答えは「仲間がいるから」であり、万人が理解できるものではない。

まったく異なる分野だが、日本唯一の「チョコレート・ジャーナリスト」としてご活躍されている市川歩美さんは以前こう仰っていた。

“なぜ好きなのか”という質問に「◯◯が◯◯で、◯◯だから好きです」と即答できる人って、本当はそんなに好きじゃないんじゃないかと思うんです。私もよく“なんでチョコレートが好きなのか”と質問されるので一応答えは用意してありますが、本当のところ“なぜ好きなのか”説明できないんです。

登山もチョコレートも古代ローマも、"なぜ好きなのか”なんて思考する前に“気が付いたら夢中になっていた”のである。

それを人に伝えようとするならば、そのきっかけや経緯を話すしかない。しかしそれも「◯◯があったから好きになった」と理路整然と説明できるものではなく、いわゆる“ビビッときた”わけで、それ以上でも以下でもない。

そして私は「なぜ好きかうまく説明できない(分かってもらえない)」という謎のコンプレックスが、「簡単に説明できないのは、本当に好きな証拠なんだ!」という自信に変わった。

今は「人に理解できないくらい夢中になれるものがあるなんて、私って幸せ者だわ〜」と心底思っている。古代ローマと出会ったことは私の人生における“GIFT”だと感謝して、今後もとことん没頭して生きていきたい。

まだ“GIFT”に出会ってない人も、意図せず“ビビッと”くる出会いがやってくるかもしれない。その時は運命の出会いに感謝して、周りからどう言われようと自信満々に“好き”を貫いてほしいと願う。

そこには、意味も理由も必要ないのだ!!

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