サラリーマンは、優越感のために働く。
サラリーマン、いわゆる「会社勤めの人」が、最も生き生きと輝く瞬間はいつだろう。
それは間違いなく、「人を貶めるとき」である。
未熟な後輩を(時には人前で)叱るとき、細かい不備の揚げ足を取るとき、同僚や他部署の陰口を言うとき、会議の時、さりげないマウンティングで自分の優越性を主張するとき…皆、間違いなく「生き生き」している。目は輝き、声は張り、動作は大きくなる。笑顔すら浮かぶ。人間としての本能が満たされているのだ。
そんなことのために働いているわけではないのに、なぜなんだろうと思う。
それは、組織の中にいると、働く喜びの「実感」が持ちづらいからではないかと思う。組織の中で、多くのメンバーと、移り変わる状況の中で、大きな仕事をして成果を上げても、意外と「手ごたえ」が少ないものである。感じたとしても一瞬だ。大きな売り上げを上げたとしても、その金額が自分の口座に振り込まれるわけではない。その後に去来するのは「今回の査定は上がりそうだな」という矮小化された感情である。それよりも、自己研鑽を重ねた末に、隣の席の同僚に「勝った」と思えた瞬間の方が、むしろ生きている実感値としては高いのかもしれない。
自分の仕事で喜んでいる人が、目の前にいないからなのかな、とも思う。
サラリーマンの場合、多くの場合は仕事を発注してくれる取引先が「目の前の人」である。買ってくれる消費者や、使って喜んでくれるユーザーと自分が直に接することは少ない。そのため、サラリーマンは取引先の「いいね」のために仕事をする。競合他社ではなく、自分にいいねと思ってもらえるために身を粉にする。そのいいねが、世の中を良くすることとズレていったら、会社からは褒められても、自分の深いところが納得しない。
「オレはこの不条理に耐えて成果を出しているのに、なんでお前はできないんだ(やらないんだ)」
そんな気持ちが、他責に喜びを見出す心の歪みへとつながっていくのだろう。
つまり、サラリーマンは「自分が肯定されている瞬間」をとても持ちにくいのである。努力を重ねて成果を出しても「手ごたえ」がない。目の前に「喜んでくれる人」がいないから、「世の中を良くする喜び」が味わえない。職場の半径5mでの「評判」や「立場」、半年に1回の「査定」が自分の肯定の度合いを測るものさしだ。そしてそれは、揺らぎやすい。
自分が「上がる」という瞬間を持ちえないから、他人を「下げる」ことで相対的に自己肯定感を得ようとする。
自分の中の、「優越感」を求める気持ちから自由になれたとき、仕事はもっと楽しく、職場はもっと明るくなるのではないだろうか。
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