森のしきたり ー 読書会の理念について
自己紹介
初めましての方は初めまして。燐寸法師(まっちぼーし)と申します。ドイツ系プロテスタントの教会に所属するキリスト者です。今月(2022年3月)で洗礼を受けて丁度1年になりました。礼拝では奏楽(ピアノ)の奉仕を隔週で担当しています。最近好きな賛美歌は「慕いまつる主なるイエスよ」です。
実り多き場にするために ー 雑木林を守る
さて、この会はキリスト教神学の学びを深めることを目標としています※1。しかし、ここは同時にさまざまな信仰や信念、価値観を持った人達が集まる場でもあります。ある種の宗教共同体のように、皆が同じものを同じように信じるのとは異なって、ここは言わば種々雑多な木々の立ち並ぶ雑木林のようなものです。
雑木林は、人工的に剪定された林とは異なって、無秩序で、調和がなく、人によっては不安を抱くような空間かもしれません。しかし、私はこの場が①「雑木林」のような場であること、②参加者一人一人が「雑木」であれること、③「粗雑」であっても真剣に考える場であること、そして④安心して「わからない」と言える場であることが、実り多き神学的営為の実現につながると考えます。その理由を以下に述べてみたいと思います。
① 雑木林のような場 ー 「対話」が生まれる場にしよう
神学のとある先達は、その組織神学の論叢を書き始めるにあたって「真理とは、人間の側から見れば、絶え間ない対話において生起するものである」と述べています※2。「対話」とは、いったいなんでしょうか。私は、それは自分の立脚点を絶対化して相手を支配することを断念しながら、お互いに自由に主張や信念を分かち合うことを通して、学ぶべきもの(真理契機)をお互いに見出し、「新しいもの」[Novum]へと導かれてゆく営みだと思います。
そうした実り多き「対話」は、意見や価値観の同じ者同士でなく、むしろ種々雑多な木々の立ち並ぶ雑木林のような、他なる者同士のまじわりにおいて生まれるものではないでしょうか。ちょっと不安もあるけれど、その何倍もワクワクするような、冒険心を掻き立てられる雑木林のような場にしていけたらと思います。
もちろん、神学をテキストで学ぶ事自体、古今東西のキリスト者達の時空を超えた「対話」に参加してその豊穣さを体感することです。それがさまざまな植生の繁茂する雄大な原生林に足を踏み入れるような、驚きに満ちた冒険であることは敢えて言うまでもありません。
② 一人一人が「雑木」 ー 雑木から十字架が切り出される可能性を信じよう
テーマの性質上、時には喧々諤々の議論が高じて、誰かが傷つくこともあるかもしれません。そんな時、参加者の皆様には、適切なフォローとともに、お互いが「雑木」であることを受け入れ合う姿勢を心がけていただけたら幸いです。
「雑木」であることを受け入れるとは、ある人の神学的主張やその拠って立つ信仰・信念が、他のある人には価値の乏しいもの(建材として使いものにならない、生産性が無いもの)として受け止められることがある現実を踏まえた上で、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(詩篇118:22 / ルカ20:17)かのように、その「雑木」から新しい「十字架」が切り出される可能性を信じるということです。いのちを捧げて背負うに値するものの隠れたかたちを、お互いの「雑木」のうちに見出していけたらと思います。
③ 「粗雑」であっても真剣に考える場 ー 互いの探求を励まし合おう
また、「雑木」であるとは、宗教改革における万人司祭主義のあり方にも通じると思います。私は、人がおよそ人知を越えた何ものかを信じ、無謀にもその内実を知解しようと望む所にはかならず神学があり、それは碩学の書斎や神学校の塀の中に封じられるべきではないと考えます。
たしかに、「巨人の肩の上に乗る」恩恵を受けられる後世の人間として、2000年以上に渡って脈々と引き継がれてきた神学の営為とその担い手達に対するリスペクトを欠くべきではありません。その点で、学術的な精緻さと誠実さをもって神学に取り組む志をもった人の存在は、ここでは非常に貴重ですし歓迎されるべきです。
しかし、この場はあえて、学術的な厳密さよりむしろ実存的な知の要望をより積極的に汲んでいく場でありたいと思います。たとえ秩序立った体系もなく、矛盾も散見されるような素人の「粗雑」な主張であっても、当人が与えられた恵みと背負うべき「自分の十字架」をその神学の内実に見出して背負っていくなら、それは整理され体系化された先人の偉大な神学とは異なった固有の価値があると考えます(それが他者に向けた普遍的な説得力を有するかは全く別の問題ですが)。そうした一人一人の神学的探求を、時に互いにぶつかり合いながら、励ましあっていく場にしていけたらと思います。
④ 安心して「わからない」と言える場 ー 旅に出よう、そして迷子になろう
先の文章で神学を学ぶことを森に「足を踏み入れる」と書きましたが、これはあるいは森に「迷い込む」と表現したほうがより良心的かもしれません。神学の豊かさを知ることは、しばしば自分の信仰が育まれてきた環境や自明視してきたものが相対化されるという不安を伴います(言うなれば、「教義」[dogma]が複数形の「教理」[dogmen]に変化したりします)。そうした不安は神学の冒険につきものであり、その「迷子」の状況をいかに引き受けるかは各人の信仰と良心に委ねるほかありません。そもそも冒険をしないと言う選択肢もあるのですから(さようなら、どうかお元気で!)。
さて、迷える子羊の一匹として私が提案したいのは、神、救済、恩寵、自由意志、悪、三位一体、種無しパンの変化その他諸々の神学的難問[アポリア]に対して、ここは安心して「わからない」と言える場にしよう、ということです。先ほど、この場では参加者おのおのが「粗雑」であっても真剣に考え出した「答え」(神に対する知的応答)を尊重しようと申し上げました(③)。それと同時に、いやそれ以上に、この場では参加者おのおのが祈りと黙想、熟考、懐疑、怠慢の只中でなお答えが出ない、神について「わからない」という「終末論的留保」(J.メッツ)を尊重し合いたいのです。
「わからない」ことと「不信仰」は異なります。「不合理ゆえに我信ず」という態度もありえます。またひょっとすると、あらゆる神学の旅路は「我々は神について何一つ自力で知ることは出来ないのだ!」という結論とそれ「にもかかわらず」生かされるという高価な恵み(?)※3に導かれるために企てられる、手の込んだ「放蕩息子の家出」なのかもしれません。
おわりに
以上が本読書会の基本理念です。なんか回りくどくて意識の高そうなことばかり書いてしまいました。ちなみに、書き上げた当人は①〜④の内容を1割も実践できていません…。だからこそ、衆人監視のもと恥を晒しながらチャレンジしたいというだけです。
ここまで私の「雑」文を読んでくださった方々に、深く感謝申し上げます。読書会の理念についてご理解いただけるようでしたら、ぜひツイッターのDM等でお申し込みください。一緒に読んだり考えたり、「雑」談したりしましょう。そして(会の趣旨からは外れますが)、あらゆる放蕩息子/娘に向けられた神の赦しと憐みを、歓びをもって分かち合う機会に恵まれれば、なお幸いです。
皆様のもとに平安がありますように。
読書会発起人 燐寸法師
傍注
※1現時点では「キリスト教神学入門」を課題図書として、組織神学のトピックを中心にやっていこうと考えています。
※2 J.Moltmann(著).土屋 清(訳).組織神学論叢1 三位一体と神の国.1990.新教出版社.p4
さすがに論「叢」(くさむら)と言うだけあって、雑木林について書く参考になりました。前後部分も引用します(p2~4)
「『神学への論叢』という、ここで内容および文体のために選ばれた概念は、神学体系の誘惑とドグマ的綱領の強制を避けようとするものであって、単なる修辞上の謙譲表現と考えられているわけではない。…(中略)…これらの神学への論叢は、過去および現在における、集中的な神学的対話を前提にしている。それは、この対話に、批判的態度と独自の諸提案をもって参加し、よってもって、未来における集中的でかつより広範な神学的対話への道備えをするものである。…(中略)…神学への論叢という概念の示そうとすることは、自らのコンテクストにおいて、自らの立脚点を絶対化し、しかも、通例そのことを暗黙のうちに前提してしまっているということを廃棄する点にある。上記のことの背後には、真理とは、人間の側から見れば、絶え間ない対話において生起するものであるという信念がある。共同性と自由は、真理の、神の真理の認識にとっての人間的要素である。この場合問題なのは、相互的な参与と統合的共感との共同性である。」
社会的三位一体論を提唱したモルトマンは、「共同性」と個人の「自由」の両立を通して、人間の共同体が神の有限な写し絵となり得る可能性を示唆しています。
※3 「前提としての恵みが安価な恵みであり、結論としての恵みが高価な恵みである」D.ボンへッファー.『キリストに従う』 . (孫引きです…)
「高価な恵み」について本来用いられている文脈とは異なった用法なのでご注意を。
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