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最大多数の最大幸福は反知性的である。

トロッコ問題は、おそらく哲学という学問の中で最もよく知れ渡っている思考実験だろう。一つの暴走トロッコ、そして5人と1人の命の選択ー。

まず一つ目に、単純に考えば5人の命の方が一人の命より重いのは明快だろう。最大多数の最大幸福に則った、模範的で道徳的な答えだろう。しかし、この思考は現実では計測が難しい。もし、線路で作業をしている5人は犯罪を犯した、受刑者らで一人レールに取り残されたのが医師だとどうだろうか。命の数は変わってはいないが、受刑者の命と医師の命を天秤にかけた時、どちらのほうが最大多数の最大幸福にあてはまるか?

無論、受刑者5人は命の数で有利である。最大多数という具合に、より多くの人を助けることができる。しかし、同時に医師というのは人の命を救うのが役目だ。線路に居る医師一人だけを助けるだけで、将来的には何百、何万人もの命を救うかもしれない。その場合、数の利は医師にあることとなる。その上、受刑者を生かしといても、その彼らが幸福を享受できるかは不透明だ。一生檻の中で過ごすような受刑者であれば最大幸福を嗜むことは難しいだろう。その一方、医師は自由に生き、受刑者5人全員分の幸福を足し合わせた以上に幸福になることだってある。

このように、最大多数の最大幸福は模範的で道徳的に正しくは聞こえても、実際のところでは理想論に過ぎず、単純に綺麗事となんら変わりないと言える。そのため、この価値観を基準とした判断なども少し状況が変わるだけで手のひら返しを繰り返しつずけ、一貫性のある答えには一生たどり着くことはないだろう。

そのため、最大多数の最大幸福を図ろうとする思考は、人類に与えられた知性に反するような考え方なのである。

ここまで書いてなんだが、この記事はシンプルにこのような見方、見解も可能ではないか?と推察するためだけの記事であると書き記したい。

ではでは、また次の記事で会うまで。
抹茶たいやき


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