見出し画像

人生は洗濯の連続

人生は洗濯の連続ー
そう、改めて言おう。
人生は洗濯の連続である。

無論、これは誤字などではない。
人生は洗濯の連続である。

この真理に辿りついたのは親元を離れ、寮生活を始めた頃である。
人生を生き、生活を営む上で必須となるのが洗濯である。

子供の頃、洗濯という作業のほとんどを親に任せていた。洗濯物を干したり畳んだりするのを手伝ったことは多くあるが、その一連の作業を一人でこなしたことはなかった。

しかし、寮に入ったことで私は初めて「洗濯」という家事に手を染めた。最初はめんどくさかったが、洗濯をしなければ着る服がない。そんな理由で、週一回の頻度でぼちぼち続いていた。

そこで、私は考えたー
人生は、洗濯の連続なのではないかと。
とある有名な格言がある。「人生は選択の連続である」、というように人生における自由意志について述べているものであるが、私はこれにスパイスを投下したいと思う。

根本にあるのは、人として生きる上で洗濯は必須なのであると。子供の頃は気づかないかもしれない、汚い服を入れて綺麗な服が出てくるというブラックボックスの中には世界中の主婦の支えがあって成り立っている。

クリーニング屋に頼んでも、家政婦さんに頼んだとしても人間として社会的で文化的な生活を営むようであれば洗濯は誰かがやらなければならない。(同時に、ゴミ出しも似たようなニュアンスがあることに今気づいた)

ここで、こじつけでしかない洗濯の哲学について考えたいと思う。人生の中での洗濯はやらなければならないこと、しかし同時に自ら進んではやりたくないものとして捉えれる。

他人、ましてや社会から強制される洗濯という家事が人生が果てるまで続くのだ。このように捉えると、少々洗濯することが差別的で、後ろめたいことかものように聞こえる。そんな行為が人生の中で連続するならば、人生への悲観的な観測点がこの言葉の着眼点となるだろう。

今回も短い記事であったが、これからも哲学系の記事はゆくゆく書いていってみたいと感じる。
ではでは、またの記事で。
抹茶たいやき


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?