noteドレッサー

誰でも服を着ている

 私が女の子に恋をした経験があると言ったら、理由を問われるだろう。
「女子校で男性と接する機会が少なかったから?」
「男性不信だから?」

 私がレースやフリルをあしらったワンピースを着ていても、理由は問われないだろう。
「あなたは女の子だから」

 でも、あの子がスカートを履いていたら、かわいらしいイヤリングを身につけていたら、理由を問われるだろう。その人が信じる論理にかなう答えが返ってくるまで問い詰められるだろう。
「あなたは女の子になりたいの?」
「それともかわいいものが好きなだけなの?」

 ……何故なら、あの子は、彼は、男の子だから。男の子がスカートを履くのは「おかしい」ことだから。

 私たちは、様々な「当たり前」に守られる一方で、その「当たり前」に縛り付けられてきた。そんな雁字搦めの世界が徐々に変わりつつある。

「自由な服装」

最近、東京都港区の「港区男女平等参画条例」改正に関するニュースや、福岡県みやま市の瀬高小学校が、性別にかかわらず制服のスカートとズボンを自由に選択できるようにしたというニュースなど触れ、「自由な服装」にまつわる議論が活発になってきたように思う。

 特に港区の条例は、「普段の服装のほか、学校や会社の制服の選択、化粧など性別に関係なく自由に自身の外見を表現できることを保障する」という内容を盛り込む予定だという。

 マスメディアがこぞって「LGBT」に対する配慮として報道している点には、相変わらず乱暴なくくり方だと残念に思う。服装に関する配慮をより必要としているのは、性別違和を抱える人々(いわゆるトランスジェンダー)であって、「L・G・B」が象徴する性的指向のエトセトラとはあまり関係がない。

※性的指向・・・どの性別に対して恋愛感情や性的欲求を抱くかということ

 むしろ、マスメディアは、これらの施策があらゆる人々に対して服装の自由を認めているという点を強調して報道するべきだと思う。「LGBT」に対する配慮だと記した瞬間に、世の大部分の人にとっては、自分とはあまり関係がない「他人事」と化してしまう。何を身に纏うか、自分をどう表現するか。この問題に関して、すべての人々が当事者であるはずだ。


 

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