スペードのAをさがして #3.5『初恋、カタルシス。』感想

はじめに

前回の『初恋、カタルシス。』のあらすじ紹介に引き続き、今回は作品を読んだ感想について述べていきたいと思う。ネタバレも含むため、ネタバレを避けたい方には電子書籍等で作品を読んでからの閲覧をおすすめする。

作品のあらすじについては、前回のnote記事を参照してほしい。

「ノンセクシャルは欠陥品じゃない」

『初恋、カタルシス。』は、社交的で来る者拒まずな唐木田と、気ままな唐木田に振り回される一騎のコミカルなやりとりが魅力の作品だ。恋人として幸せな日々を過ごしていくはずの2人だったが、性的な行為に対する思いの違いから、すれ違いはじめてしまう。

一騎は唐木田に性的な行為を求められるが、ノンセクシャル(他者への恋愛感情はあるが、性的欲求を抱かない)である彼は、それらの行為に強いストレスを感じてしまう。その一方で、自分が好きだからこそ性的な行為に及びたい唐木田への罪悪感も抱いていて、二つの感情に板挟みになって苦しんでいた。『初恋、カタルシス。』には、ノンセクシャルの人々が直面するであろう様々な苦悩が登場する。

一騎は唐木田と別れた帰り道、電車の中で以下のように心情を吐露する。

「優しく触れてもらったのに/またダメだった/やっぱりダメだった/オレは欠陥品だった」
「ちがう/欠陥品じゃない」
「ノンセクシャルは欠陥品じゃない/誰かを愛しく想う気持ちだってちゃんと持ってるだろオレは」
(鳩川ぬこ『初恋、カタルシス。』(Kindle版)、リブレ出版、2019年、No.87/229)

この言葉には、自分が人間として何か欠けているのではないかと苦悩する気持ちが表れている。相手に性的欲求を抱けなければ、相手の性的欲求に応えられなければ、真に愛しているとは言えないのではないか、そんな不安が一騎の心を蝕んでいく。

一騎の心にとどめを刺すのは、友人たちの何気ない一言だった。友人と恋愛話をしていた一騎は、性的な行為をしたくないこと、相手がそれをどう思うのか不安であることを相談する。すると、友人は「ノンセクシャルって思い込みでしょ?」(Kindle版 No.98/229)と一騎の悩みは言い訳だとばっさり切り捨ててしまう。

この場面は、まるで自分に言われているようで、その先を読み進めるのが辛かった。ノンセクシャルやアロマンティック・アセクシャル(他者に対して恋愛感情も性的欲求も抱かない)の人々は、度々周囲から自分の感覚を「思い込み」だと一蹴されてしまう。他者を恋愛的に好きになるのが当然な人々や恋愛感情に性的欲求が必ず伴う人々にとって、それらが「ない」ことを想像することは難しい。それゆえに、無邪気にノンセクシャルやアロマンティック・アセクシャルの感覚を否定してしまうのだ。どんなセクシュアリィであれ、当事者の自認を「思い込み」だと一蹴するのは、相手がその自認に至るまでの葛藤や苦しみを無価値化する行為だ。

自分も、他者に対して性的に惹かれないのは異常なのではないかと悩んだり、周囲の恋愛トークに共感できなかったりした経験があるだけに、一騎の一連の場面は非常にリアルだと感じた。

また、一騎の友人たちは、彼が男性と交際していることについては、特に何とも思っていないような態度を見せている。そんな友人たちでも、恋愛感情に性的欲求が伴わない感覚は理解しがたいようだった。極めつけは左手の薬指に指輪を付けた友人の「ほんとに好きな子ができたら/世界って変わるんだよ?」(Kindle版 No.99/229)の一言。彼女の指に光る華奢な指輪は「普通」の象徴だ。誰からもおかしいと非難されない恋愛、結婚、人生……。無意識の「普通」の押しつけは、容易く人の心を傷つける。

唐木田と一騎の妥協点

前述の友人とのやりとりの後、一騎は唐木田に対して一方的に別れを切り出す。一騎のことを忘れられない唐木田は、彼のアパートに見舞いへ向かい、一話冒頭のシーンへと繋がる。一騎に優しく接し、あわよくばよりを戻そうとする唐木田をはねのけることができず、一騎と唐木田はなし崩し的に和解することになる。

和解後も唐木田は一騎とのキスやハグと言ったスキンシップ(ときにはその先の行為も)を求めるが、一騎も以前よりはどの行為は嫌という意思表示をはっきり見せるようになる。あるとき、酔っ払った唐木田は一騎に対して、身体を触られるのが嫌なのはわかっているが、自分が好きならそれくらい我慢してほしい、好意を証明してほしいと駄々っ子のように訴える。

転機が訪れるのは、その翌朝だ。一騎は唐木田の思いに応えようと、「これくらいなら」と唐木田に対して口淫を行う。この行動は、性的な接触が苦手な一騎なりの歩み寄りだった。できるだけ性的な行為を迫らないように自制する唐木田と、できる範囲の触れあいで唐木田に応えようとする一騎という形で、2人なりの妥協点が示される。

私は、感覚としては一騎に近いため、一騎が口淫する場面を見るのはかなり抵抗があった。正直言って、好意を伝える手段は性的接触に限らないのだから、一騎がここまで身を削る必要もないはずだ。唐木田が一騎の意思を尊重し続けるという形でも十分幸せな結末になったと思う。前半の一騎の心情に共感しただけに、この結末には少し納得がいかなかった。とは言え、愛の力で何らかの障害を乗り越えるというBLにありがちなフォーマットを用いたとき、性的接触に乗り気でない「受け」が「攻め」のために懸命に性嫌悪を克服するというストーリーの方が一般的なBL読者にはウケがいいのかもしれない。

おわりに

この物語においては、一騎が性的接触への嫌悪感を克服しようとすることがハッピーエンドとして示されたが、ノンセクシャルやアセクシャルは克服するべき欠陥というわけではない。そして、現実世界において、ノンセクシャルやアセクシャルの傾向を持つ人間や、性嫌悪を持つ人間に性的行為を迫るのは、絶交されても文句は言えない外道の行為だと私は思っている。力でねじ伏せるのではなく、言葉を尽くし、価値観をすりあわせるべきだ。一騎の歩み寄りが感動的結末の一言で片付けられるのは少々納得いかない。

『初恋、カタルシス。』はノンセクシャルについて詳しく掘り下げたBL漫画として、先駆的で稀有な作品であると同時に、現実世界のノンセクシャルやアセクシャルについて「我慢すれば何とかなる」という誤解を与えかねない危うさを孕んだ作品であると感じた。ノンセクシャルやアセクシャルという言葉がより多くの人に浸透すれば、一騎と唐木田とはまた異なる結論を出す物語も生まれていくことだろう。どんな結末も尊重されるべきだと思うと同時に、もう少しノンセクシャルやアセクシャルがありのままを受け入れてもらえる物語が増えてほしいとも思う。

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